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第三部 一章

 西の地方が梅雨入りを報じて数日。自分達にはまだ先で早い話と思いつつ、今日という日が雨だと梅雨が影響しているのかと考えてしまう。雨なんて今までだって度々降っているというのに。

もしかすると、雨上がりの匂いが少しずつ変わってきているのを感じているのかもしれない。春の終わりが近付いていると植物や空気が告げている。その証拠に十幹第一高校も衣替えが行われて数日経っていた。

 「ゆぅぅぅぅぅぅっと!」

 「いっ……!章助!お前、止めっ……!」

 章助の掌がまさぐるように悠登の中へと侵入する。即座に反応して身を反らせたがもう遅い。彼の手は悠登を成すがままの格好にしてしまった。

 「へっへっへ……。イイ姿になってるじゃないか、えぇ?」

 やっと手が抜かれて間髪入れずに振り向いた。そこにいたのは息を荒げ、口元を拭い変な笑みを浮かべる同級生。

 「おっと、動くなよ。そのままじゃお前も嫌だろ?なぁ、トイレに行こうぜ」

 「……その一言のために、こんな事をしたのか」

 朝のHR前に油断していた俺にも非はある。だが、それにしても教室でまでこんなことをするなんて許せん。俺が睨むと章助はその太い腕を俺の肩に回し、口を耳に寄せる。

 「ベランダで済ませるか?俺はそれでも構わないが、見られるリスクはトイレの方が少ないぜ」

 「………」

 「お前もこのままじゃ授業に出られないだろ?パパっといって、スッキリしようや」

 ……考えている余裕と時間はなかった。今は章助の言う通り、我慢もできないので手早く済ませなくてはならない。

 「……一階トイレな。あそこなら基本は来客用であんまり使われてない」

 「そうこないとな!」

 こうして俺は章助の望み通りに二人でトイレへ向かうために教室を抜け出した。何人かはこちらを向いてクスクス笑っている。

 その中には、彼女の姿もあった。



                 第一章



 「……ふぅ……」

 章助の溜めに溜めてから出された吐息を聞きながら俺も頭を振るった。

 「ツレションすんのに頭いじんな!はぁ……」

 章助が頭に手を突っ込んだせいで鬣が西部劇に転がって出てくるタンブルウィ―ドのようになってしまった。そのままでいられないから仕方なしに来たが、この雨でも濡らさぬようにした鬣を台無しにされて怒鳴らずにはいられない。

 「ツレないこと言うなよなー。一人じゃ寂しいからお前を誘ったのに無視するもんだからよ」

 ブラシは持っていないので手で章助によって出た抜け毛を処理する。無視、していたつもりはないがそれだけ呆けていたってことか……?

 「それに、そんなボーボーになるまで切らないお前も悪いんだぞー。俺も思わず悠登の誘惑にツラれちまった………お、おぉう…」

 「それは言い訳だろ」

 鏡を見て一通り抜け毛の確認を終える。章助が便器の前でぶるりと震える横を通り抜けて窓を開けた。

 「今日は雨で助かったな。いつもはこの辺で先生が煙草吸ってるし」

 「誰のせいでこんなことしてると思ってんだ……」

 トイレに流すという選択肢は詰まるかもしれないから除外。ただゴミ箱に捨てると気持ち悪がられるかもしれないからそれも止めたい。となれば、こうして窓の外から風になってもらうしかなかった。俺の手から毛玉が離れ、風に舞ったがすぐに雨に撃墜される。天気の良い日に高い場所で飛ばした方が痕跡は残らないがこれはこれで泥と化して誤魔化せるか。たぶん先生でも俺のとはバレまい。

 「でも、お前の言う通り少し切った方が良いかもなー……」

 来たついでに用を足しながら呟く。章助に乗せられたと思いながらも事実、暑くなってきて抜け毛も増えたが鬣は着実に伸びていた。

 「俺はボーボーの悠登もグッと来るぞ?」

 「そうかい……」

 それにしても、隣にいる前でやらなくてもいいだろうに。手を洗い、最後に窓の外を確認したがもう、自分の毛玉は雨に掻き消され微かにしかその名残を残していなかった。

 「よし、間に合った」

 「ギリギリだけどね」

 席に座ったとほぼ同時にチャイムが鳴る。時間調整に成功したと思ったが着席した直後に危ういと指摘を受けた。時計から視線を外し悠登は横を見る。

 「一人でトイレに行けない十六歳児に手を焼いてさ」

 「それだけ獅子井君とトイレに行きたかったんでしょ?」

 桑野さんが俺を見て笑っている。俺の毛玉モードを一番間近で見ていたのだから、それを思い出しているのかも。

 「そんなに熱望されても俺にもタイミングってのがあるし」

 「ふふっ、じゃあ連行するための理由付け?」

 そこまで言ったところで明が笑う。そこで悠登も顔を向けた。

 「今笑った?」

 「だってさっきの獅子井君……ぷっ、あはははは!」

 そんなに変だったか……いや、あの抜け毛の量を考えればそうなるのか?トイレに着いた頃には粗方抜き終わってたし……。

 「今回は章助にしてやられたよ……」

 「それ、いいね」

 桑野さんは笑い終えると俺にシャーペンの蓋側を俺の頭へ向けた。

 「真似しないでよ、頼むから」

 頭頂を押さえる。だがそれで整えた鬣が潰れると思いパッと手を離す。すると桑野さんはうんうん、と納得したのか顔を正面に戻した。

 「わかってる。切り札とか楽しみは後に取っておかないと、だもんね」

 横目で微笑んだ明のその一言と同時に熊田が教室の扉を開ける。だが、悠登は起立するまで明の横顔を見ていた。

 「………」

 玲奈の運動会から半月経ったかどうか。その程度だが俺と桑野さんの距離感は二年生になったばかりの頃よりは随分縮まったように思う。少なくとも、昨日見たテレビの話題で騒げる程度には。幼稚園の思い出話は割と早い段階でお互い尽きている。

 「はー。高総体終わった直後に期末考査とか、この学校は生徒に無茶させることしか考えてないんじゃないのかなぁ」

 「お疲れだね、桑野さん……」

 HRが終わると明は椅子に背を預け、天井を見上げながらぼやいた。悠登は朝から疲労してしまっている明の横で移動教室の準備に入る。

 「部活がなくて早く帰れてもずっと勉強!ってわけでもないし……」

 机の中から教科書とノートを明が探し始める。

 期末考査の一週間前は高総体の都合もあるが基本的には全ての部が活動を休止する。それはもちろん勉強に専念するためだが、明の発言も一理ある。部活動がない分だけ勉強に打ち込めるか、普段制限されている時間のハメを外してしまうかにだいたいは分けられる。

 「桑野さんは早く帰るより部活してたいんだ?」

 「うん?……そう、かも」

 狼塚は部活がないせいかここ数日、どことなくだが機嫌が良さそうだった。それでも尻尾を触らせてくれない辺り、まだ決定打が足りないらしい。

 部活がないから勉強ができる、部活がないから遊べる、と喜ぶ連中はそれなりに見ていた。しかし部活がない方が辛いなんて話は今までの中では聞いたことがない。

 「変かな?」

 教材を出し終え、立ち上がった明が悠登を見る。

 「珍しいなって」

 悠登の場合は応援団の打ち合わせがある時以外は幼稚園に寄って帰るだけ。考査前でも変わらないため、普段と違うこの一週間にお得感があまりない。

 「男子は顧問の先生とかも厳しそうだもんね。トォちゃんとか良い例だよ」

 「そういうことかな」

 野球部やバスケ部の鬼コーチが全ての部にいるかと言われれば、そんなわけもない。俺が極端な例しか知らなかっただけかも。そう納得すると遅れて俺も立った。

 「明、地理行こー」

 そこにクラスメートの保谷真衣が明を誘いにやって来る。すぐに明は悠登から視線を外しそちらを向いた。

 「うん、行こ!じゃあ獅子井君、また後で!」

 「じゃあ」

 地理選択は同じだから話しながら、とも思うのだがいつも真衣が明を迎えに来て行ってしまう。仲の良い者同士で固まって着席できるのだから当然と言えば当然だが。

 「どうして俺の横に来る」

 なのに、狼塚は俺が横にいるのが腑に落ちないらしい。

 「ほら、俺達って身体大きいし。後ろの席に陣取らないと迷惑じゃん。なぁ?」

 すかさず俺の逆側隣に座る章助が割り込んでもっともらしいことを言う。その裏に、後ろの席なら隠れて携帯をいじるのも寝るのも容易いからという意図が章助にあるのは気付いていた。

 「………」

 狼塚がじっと見ると章助はたじろいで頬を掻いて前を見た。次に俺を見るが短く息を吐くと黒板へ目を向ける。その吐息に含まれた意味を考えて悲しくなる。どうして俺を見たのは一瞬なんだ。



                 ☆



 狼塚とは何が変わったということもない。……保谷さんの話を聞く前後と比較して。

 保谷さんは狼塚と桑野さんが付き合っていると言っていた。それを二人の口から聞いたわけではない。寧ろ、狼塚は否定していた。桑野さんとは登校が一緒の日もある程度。

 人目があるから学校では、と言われればそれまでだが少し引っ掛かっている部分もある。

 「おにいちゃん、どうかした?」

 下校中、いつものルートを通って帰っていたのに自分を呼ぶ声に視界が一度揺れた。

 「あっ…あぁ、なんでもないよ、玲奈」

 「そう?」

 自分の手を引く黄色い雨合羽姿の少女、玲奈へ悠登はすぐに笑顔を作る。

 「そうそう、ちょっと俺達はテストが近くてナーバスになってるだけだからさ」

 その笑顔も背後にいた章助の発言で維持できなくなる。

 「お前のどこがナーバスだってんだ」

 「悠登に弱った俺を見せたくなくてよ」

 へへ、と笑う章助にシンケイシツなんて言葉は少しも連想しない。隠しているだけなら大した演技力だ。

 「そういえばおにいちゃん、さいきんぼぉっとしてる」

 玲奈の一言で背筋に電気が走ったような気がした。それはそのまま玲奈と繋いだ掌へ伸びて行き、ほんの一瞬だが痺れさせる。

 「言われてみればさっきも玲奈ちゃんが呼ぶまで呆けてたよな」

 続いて章助も玲奈に同意し俺の顔を覗き込む。その視線に鬱陶しさを感じ橋の下の川を見た。

 「……雨音って聞き入ることないか?」

 増水し、茶色く濁った川からは水流の激しい音が聞こえてくる。そこに勢いを加えるように雨もまた空から絶えず降り注いでいた。

 「その鬣で雨音に聞き入るなんてロマンチックなこと言うなよ」

 ……時代錯誤の筋肉虎男子にだけは言われたくないんだが。

 「おにいちゃん、べんきょうきらい?」

 玲奈がフードをずらして俺の顔を見上げる。気付けば足を止めてしまっていた。屈んでフードを戻してやると玲奈の手を引く。

 「勉強は章助の方が嫌ってるよ」

 「それは間違いないな!」

 威張るな。

 「早く帰ろう。これじゃ傘や合羽でも濡れるな……」

 そういう日に限って帰り付く頃には雨脚が弱まってるんだよな……。傘を畳んだ章助の背を見送り俺は先に風呂の支度を始めた。

 「………」

 玲奈はディスチャージ仮面の録画を観ている。一人、浴槽に湯を張る俺は蛇口からでる湯を見ながらやはりぼうっとしていた。

 玲奈にも見透かされていた。それだけ俺は最近気が抜けているってことだ。期末考査が近いからと勉強時間が倍に増えたわけでもないのに。

 「……はぁ」

 学校じゃ表面的には上手くやれてると思ってたんだけどな。桑野さんとも随分話せるようになってたし。なのに外へ出たら幼稚園児にまで見抜かれてるなんて。

 「よしっと」

 湯温を保温状態に設定完了。俺も機械のようにとはいかずとも、切り替えていかないと。腑抜けるのは寝る前に。

 「………」

 湯を張り終わるまでここに居た時点でそれもできてない、か。

 親父達は夕食と風呂を済ませるとすぐに自分達の部屋へと戻ってしまう。それは俺が期末考査まで日がないから居間を明け渡すよう主張したからだ。俺の部屋には玲奈がいるし。

 「………」

 しかし今日は居間のテレビ前にずっと玲奈がいた。ディスチャージ仮面ではなく珍しくニュースを見ている。……いや、玲奈がニュースをまじまじと見ているわけはない。

 「玲奈?」

 寝ているかと思い声を小さくする。寝ているなら起こさぬように部屋へ運ぼう。そう決めると俺は数学の教科書にペンを挟んだ。

 「なぁに?」

 悠登の予想と違い、声に素早く反応し玲奈はこちらを向いた。

 「……もう寝たら?明日も幼稚園でしょ」

 時計を見ればもう既に二十一時。普段なら玲奈は少なくとも部屋のテレビ前で横になっている時間だ。

 「もうちょっと……」

 声も眠そう、ドラマを見ているわけでもなく見ているのはスポーツニュース。それでも玲奈は食い下がる。となると…。

 「……どうかした?見たい番組があるなら録画……」

 「ちがう」

 玲奈はゆっくりと首を振る。テレビに拘らないなら……。

 「あの、おにいちゃん」

 こちらが何かを言う前に玲奈が口を開けた。

 「やっぱりおにいちゃんもべんきょうきらい?」

 それを聞いて夕方の話を思い出す。章助が嫌っているって話はしたが俺自身についてはそのままだった。

 「それを気にしてたの?」

 「……うん」

 どうして、と聞く前に答えねばと思った。

 「やっぱり苦手な教科はあるよ。でも、勉強するのが嫌じゃない教科もある」

 「どっちもあるの?」

 玲奈の質問に頷いた。

 「玲奈は走るの早いよね?でも苦手なことって何かない?」

 「……うんてい、とか」

 運動神経は良さそうと思っていたがぶら下がるのは苦手、と。それは知らなかった。

 「俺も章助も同じ。俺は数学なら章助より得意だけど、アイツは俺より古文ができるよ」

 それを聞いて難しそうに顔を歪めていた玲奈の口がぽかんと開いた。

 「そうなの?」

 「そうなんだよね、悔しいことに」

 追試を受けさせられる程になったことはないが事実だった。

 「……おとーさんもそうかな」

 玲奈が呟く。それを聞いて少し考えたが合点がいった。勘違いかもしれないが。

 「玲奈、怒ってる?」

 「えっ」

 俺が尋ねると玲奈は立ち上がってすぐ横まで来た。

 「玲奈のお父さんは教師なのに、俺達が勉強嫌いなんて言ったからもしかしてって」

 「う、ううん!ちがうの」

 髪を揺らすように玲奈は首を振った。

 「……みんなべんきょうがすきなんだっておもってた。だからがっこうにいくんだって」

 良い所を突いてくると思うけど、その発想への至り方はやはりまだ幼い。好きだから行って、嫌いだから行かないと言えたらどんなに楽か。

 「玲奈は幼稚園が好きなんだね」

 「うん!りゅうせいくんもいるし、そとではともちゃんともあえるもん」

 玲奈が笑顔で答える。ともちゃん、とは狼塚の弟である知幸君のことだ。組は違えど晴れた日なら外で頻繁に会うようになったと聞いている。

 思い返すと玲奈が幼稚園を嫌っている筈はなかった。建前だが父には今通っている幼稚園を卒園したいから、と言ってついていかなかったのだから。そんな考えにさせるのが今のような幼稚園の友達なのだろう。

 「俺も同じ……かな」

 気付くと頬杖で俺は呟いていた。それを聞き逃さず玲奈が俺の肩に手を乗せる。

 「おなじ?」

 「あぁ……うん。そうなんだ」

 俺が学校に通う理由も、玲奈とそんなに変わらないんだ。

 「俺もさ、会いたい人がいるんだ。その人に会いたいなって思ったら、ちょっとくらい苦手な勉強なんて簡単に我慢しちゃうんだよ」

 学生でいるのは進学率がうんたら、将来の夢を実現させるためがどうたらという話も大きな目で見れば必要だ。でも、今俺が一週間なり一月と頑張っているのはそうした些細な理由。

 「あいたいのって、あのおねえちゃん?」

 些細でも大事なことかも、思った矢先に俺の息が止まった。

 「あのお姉ちゃんって、どのお姉ちゃん?」

 「おにいちゃんがうんどうかいで、てをつないだおねえちゃん」

 あれは夢じゃなかった。それを玲奈が確かめさせてくれた。俺の手で桑野さんの手を握った感触は忘れていない。これであれは決して妄想ではなく、欠けることない既成事実と化した。

 「あのお姉ちゃんは桑野明さんって言うんだよ。俺の隣の席にいるんだ」

 もうすぐそれも終わりそうだけど。

 「ふぅん……」

 隣の席ってのは余計な情報だったかピンと来ていないようだ。

 「章助の顔は身飽きたけど他にも仲良しはいるんだ。玲奈が幼稚園で遊ぶ友達みたいに」

 桑野さんももちろん会いたくて話したくてたまらない。だけどそれだけが学校じゃない。好きな教科や体育だってあるのだから。

 「あ、ともちゃんのおにいちゃんにまたしっぽギュッとさせてっておねがいして!」

 「おう、任せて」

 思い出したかのように玲奈が言って俺も即答した。たぶん狼塚にはもっと距離を置かれそうだけど。



                ♀♀♂



 「………そんなわけだ、玲奈のためにもお前の尻尾を」

 「嫌だ」

 やっぱり。

 「玲奈は弟に仲良くしてもらってるんだ、これを機に兄達も仲良くしよう」

 「関係無い」

 この一刀両断具合が癖になってしまっている自分がどこかにいる。

 「仲良くするなら俺がいるだろ悠登ぉ」

 昼休みに狼塚と話していると章助が俺の肩に手を乗せた。振り返ると指が一本立っており、俺の頬に突き刺さる。

 「……俺は狼塚に言ってんの。玲奈の至高の癒しってやつを狼塚の尻尾に求めてんの」

 誰にも彼にも言っていれば相当に危うい発言だが、気心の知れた相手なら違う。俺は狼塚にその程度の親しみは抱いていた。だが向こうの表情からはこちらへの親しみなんてものが読み取れない。

 「なら俺はどこから癒されれば良いんだ……」

 細めた目で狼塚が俺を見る。そうだ、狼塚にも何か必要だが……だが……。

 「い、妹の尻尾とか……?」

 「有り得ん」

 年齢の近い兄妹の尻尾に触ると言われれば俺でも気が引ける。ましてや年頃なのだから。思い付きで言ってはみたが実行性は低い。

 「そもそも獣人の尻尾に癒されるなんて獅子井か人間の発想だろ。理解できん」

 子どもの頃は自分の尻尾を追い掛けてくるくる回るなんて真似もしたろうが、それも本当に幼い時だけ。俺だって自分の尻尾をどうしたいなんてことはない。

 「その人間の玲奈が言ってるんだ。俺はついで」

 「……ついでは無しだ、絶対に」

 もしや清らかな乙女にだけ触らせるとかそんなことは言い出さないよな。

 「獅子井君」

 「うん?」

 三人で話していたところに加わる新しい声。それに振り向くと桑野明が自分のすぐ横に立っていた。

 「ちょっと良いかな……」

 普段の朗らかな雰囲気を感じさせない小さな声で桑野さんが俺を見上げる。それに狼塚や章助と顔を見合わせたが俺は頷いた。

 「どうかしたの?」

 「廊下、来てくれないかな」

 俺から一瞬目が離れた。

 「わかった」

 何を言われるかなんて想像できなかった。担任に呼び出しならそう言われるだろうし。もしや鬣を外にポイ捨てしたのがバレたとか。

 「大したことじゃないんだけどさ」

 前置きで桑野さんが言う。

 「ロッカー?」

 教室前のロッカーを指差し桑野さんが気まずさを誤魔化すように笑った。

 「……ちょっと勉強教えてくれないかなって」

 「勉強?」

 俺が桑野さんの言葉を反芻する。

 「前の英語の小テスト、点高かったよね?」

 言われて前の小テストがどうだったか思い出す。別段高かったとは思わない。

 「プリント失くしたとかなら……」

 自分のロッカーを開けてテキストに挟んでいたプリントを取り出す。しかし明は首を横に振った。

 「プリントとかはあるんだけど、それだけじゃわかんないとこを聞きたいの」

 お願い、と付け加えて桑野さんは手を合わせた。

 「俺で良ければ」

 そう、そこだ。一緒に何かできるというのは望むところだが引っ掛かる。

 「保谷さんや狼塚じゃ……」

 「無理強いはできないよ。けど今回だけはあの二人より良い点取りたいの」

 あの二人、には頼めないから俺に回って来た。優先順位は高いのか低いのか。

 「英語以外ならこっちでどうにかする。けど……」

 桑野さんの語尾が弱々しくなっていく。そうだ、桑野さんは章助や兎洞と一緒に再テストで前の昼休みを潰されてた。向こうから見れば再テストを受けてないから俺は点が高い、と。

 「……いつにしよう」

 プリントはいらないとわかったからロッカーに戻す。呟いた俺の顔を桑野さんが見上げる。

 「放課後は玲奈を迎えに行かないと。だから開始が少し遅くなるか、残りが土日になるけど……」

 桑野さんと目が合って俺も言葉が止まった。

 「良いの……?」

 恐る恐る尋ねられて思わず笑ってしまう。

 「俺の方こそ桑野さんが良ければだよ」

 何十点も上げられる勉強法なんて知らないから教えられない。放課後はずっと居残り学習というわけにもいかなかった。これだけあっても俺で良いなら、断る理由はない。

 桑野さんと勉強会なんてできたらそれは嬉しいがあとは桑野さんが決めることだ。

 「ならやろう!英語は二日目だから……日曜と月曜!」

 躊躇うことなく桑野さんに依頼された。

 「わかった」

 ポカンとする間もなく答える。月曜はテスト初日、午前でほぼ終わって玲奈を迎えに行くまで時間の余裕もあった。月曜なら俺も問題ない。

 「あ、獅子井君」

 了承すると明が携帯を取り出す。携帯電話は一応学校で禁止されているが昼休みの廊下に教師が来ることはまずない。

 「連絡先教えてくれる?」

 「うん、ちょっと待って……」

 それがわかっていたから悠登も携帯を取り出す。二階なら一年生の教室と職員室が直線に並んでいるから廊下で携帯を出すなんてまずしない。

 「あ、赤外線ここ」

 桑野さんが指したところに赤外線受送部を向ける。すぐに受信が始まり数秒で画面に【電話帳 桑野明 を登録しますか?】と表示される。すぐにOKを押すと登録が完了した。

 「次、俺ね」

 続いて自分の電話帳を同じように送信する。空メールとワンギリでも良かったが桑野さんはそのまま受け取ってくれた。

 「ありがとう。じゃ、帰ったら連絡するから」

 桑野さんは軽く手を振るとそのまま廊下を進んで行き、女子トイレへ入った。そこで予鈴が鳴ったので俺はそのまま章助や狼塚のところには戻らず自分の席に戻る。

 「………」

 まだ時間は数分あるので携帯をもう一度出して電話帳、か行を見る。そこには間違いなく桑野明の名前があった。

 「よし」

 それを確かめて携帯をしまう。今夜を楽しみにしながら。

 「持ってくのはこんなもんかな」

 二日後。今日の勉強会の日程はこうだ。章助と一緒に午後から桑野さんと合流しカフェで勉強。その際ついでだから聞いておきたいことを事前にまとめとく。それに関してはもうノートにメモついでに書いて鞄に入れてある。

 この予定に章助が組み込まれている理由だが、日曜は用事があると言ったところ掘り下げられた。桑野さんにも章助の話をしたところ歓迎される。そうなれば俺も無視はできない。

 「桑野って……そんなにっ……お前とっ……仲良かったっけ?」

 「だから、狼塚達に頼りたくないからって言ってたろ」

 今回の期末考査に桑野さんがどういう意気込みを持っているかもあっさり桑野さんは話して構わないということだった。単にあの保谷さんと狼塚にさえ知られなきゃ良い、と。

 「ケンカでも、したのかね……っとぃ!」

日曜の習慣としてディスチャージ仮面を鑑賞し、章助は玲奈に足を押さえてもらいながら腹筋をしている。朝から元気なものだ。

 「そんな風には見えなかったけどな……」

 保谷さんとは移動教室の時はいつも一緒だ。狼塚にも普段通り軽口でからかったり。あれが演技で出し抜いてやろうなんて思っていたとしたら桑野さんは女優になれる。

 「そもそもなんで桑野はその二人をターゲットにしてるんだ?」

 玲奈が何とか章助を押さえているが体重がまるで違う。足が動かないようにと重りのつもりなのだろうが玲奈も軽々足ごと浮き上がっていた。本人は楽しそうだけど。

 「うーん……」

 なんで、と言われると俺も思い当たらない。ケンカをしてるわけでもないなら手近な目標設定、とか?あまり他の皆の成績は知らないからこれもピンとこない。

 「お、わかった。玲奈ちゃん、ありがと」

 「うん!」

 そこで章助が起き上がる。玲奈はそれから章助から退いた。

 「俺らみたいにあの二人が勉強会してるんだよ、別の場所でな。それを知った桑野は私もこうしちゃいられない!って思ったわけだ。そこで俺と悠登の出番ってわけだ」

 「ほー」

 的を射てるかはともかく、章助にしてはまっとうな推理だと思う。……けど、何か引っ掛かる。

 「狼塚と保谷さんが話してるとこって見ないけどな」

 「あれ……。俺の推測、ハズレ?」

 順位や成績に拘ってるだけってわけじゃなさそうだったけど、覚えてたら聞いてみるか。



                ♂♀♂



 なんとなく、晴れてる割に暑さに粘つくような湿気を感じて気分が悪い。出掛けて合流するのも、もう少し早い時間にすべきだったかなんて思いつつ待ち合わせのカフェに章助と入った。今日の玲奈は親父とホームセンターに行くらしい。

 中に入ると広さはあるが照明はそれほど明るくない。どこへ行くかと店の中を見回すと窓際奥の四人掛け席に一人、黙々とノートにペンを走らせている女子がいた。俺がそこへ向かうと章助もお、と声を出してついてくる。

 「桑野さん、もう来てたんだ」

 俺が話し掛けてやっと女子、桑野さんが顔を上げた。俺と章助を見付けると口元が緩み、緊張状態が解けたのか肩が若干下がる。

 「うん。お昼食べてから、って思ったけどここでも食べられるなって。だからちょっと前に来て一足先に始めてた」

 見ればコーヒーカップだけでなくサンドイッチの包み紙も置かれていた。それでも待たせていたのは間違いない。

 「遅くなってごめん」

 「無理言ったのはこっちだし、時間より早いじゃん。獅子井君達も飲み物買ってきたら?私もここ片付けとくから」

 桑野さんが広げたプリントやノートを自分の方へ引き寄せる。お言葉に甘えて俺と章助は鞄だけ置いて飲み物を買いに行った。

 コーヒーという気分でもなかったので俺はミルクティー、章助はブラックコーヒーだけ頼んで席に戻る。その頃には桑野さんは英語の教材や電子辞書を一通り出していた。

 「よし、獅子井先生!今日はお願いします!」

 「先生なんて。俺だって桑野さんに教わらないと」

 先輩どころか先生、なんて言われると照れ臭い。まして桑野さんに言われるんだから。

 「国語なら俺に任せな!」

 「まずは英語っつってんだろ」

 意外に挨拶や雑談もそこそこに俺達の勉強が始まった。口数は三人とも少なくはないがそれは勉強に関しての話。章助も茶々を挟むことはほぼなかった。

 「彼は私に対して過去に言ったってのが一つあって、何を言ったかってのが……」

 「彼が二週間前読んだ本について、の部分がもっと前の過去ってやつ?」

 「そうそう。これが合わさって過去完了の大過去、かな」

 テキストにあるのと授業で聞いた話を組み合わせて、ついでに自分の言葉に変えて話しているつもり。どこかでボタンを掛け違えたように曲解してないか不安だが少なくとも桑野さんは練習問題を自力で解けるようになっていた。

 「これとこれって合ってる?」

 見せてもらった答えと模範解答を見比べる。入れ替えて文を完成させなさい、という部分に関しては全問当たっていた。

 「うん、合ってる。章助は二つ違う。俺もちょっと間違えてた」

 「ぐぇ、マジかよ」

 最初は本当にちんぷんかんぷんだったようで、完了形のつもりが受動態になっていたのに比べればここまで来れたのは進歩と言って間違いない。

 「桑野さん、あとは英作文やっとけば結構高い点取れるんじゃない?」

 「そうかな……。少し自信ついてきたかも」

 これだけやれていれば赤点から平均点くらいまでは引き延ばせているんじゃないか。そう思ったが桑野さんは自身を持ちつつもまだ物足りなさそうにしていた。作文に関しても文法は理解したのだから、あとは作文するための単語を記憶しているかどうか。単語に関しても覚えてないわけではなさそうだった。

 「くぁー!ちょっと休憩にしようや。もうやだぁ……」

 そこに章助がペンを置いてノートを閉じる。椅子と俺にもたれて俯いた。

 「お前な…」

 「いいじゃん、疲れたし。ちょっとだけ、ね?」

 休憩は賛成だけどこれじゃ俺が休まらない。無駄にずっしりと重い章助を退かすと俺もペンを置いた。

 「じゃあちょっとだけ」

 たまに喉を湿らす程度でまだ空になっていないミルクティーに口をつける。そこでようやく俺も張り詰めた気が解けた気がした。

 「明日からテストな。つーか明後日の対策ばっかで明日の勉強は大丈夫かよ、お二人さん」

 コーヒーのグラスを豪快に章助が傾け喉を鳴らす。

 「生物はまぁまぁ、かな」

 「そうそう」

 「俺なんで物理選らんじまったかなぁ……」

 章助が落ち込む。選択教科の違いはサポートなんてするにできない。

 「じゃあ後半戦は地理の対策しない?」

 桑野さんの提案に俺はすぐ教科書を取り出した。それは俺の方からお願いしていた部分でもある。

 「地理がちょっとわかんなくてさ。あの先生、教科書にテスト出すとこの線引かせるから……」

 「あ、前はノートしか貸してなかったもんね。ごめん」

 桑野さんが言った前とは高総体開会式に行くため欠席した分のノート複写の話だ。あの時は俺も慌てていて、早く終わらせることしか考えてなかったから気付きもしなかった。

 「これで三人で良い点取って真衣達を驚かそうよ」

 桑野さんが笑顔でそう言ったがそこで午前中に章助と話していた事を思い出す。

 「桑野さん、なんで狼塚達と競ってるの?向こうはそんな感じじゃなかったけど」

 桑野さんもすっかり冷めたであろうコーヒーを飲んでいたが俺の質問に目を丸くした。

 「あ、言ってなかったか……。トォちゃんはリアクション薄いからともかく」

 それは間違いない。章助に抱き付かれた時や玲奈に尻尾を触られた時の半分でも普段から開示してくれていればどんなに接しやすいか。

 「真衣に至っては私のこと運動バカって思って眼中にもないんだもん。失礼しちゃうよね」

 運動が好きらしいのは知ってたけど保谷さんが桑野さんをそんな風に見てたと思うと意外だ。仲は良いが勉強に関しては別らしい。

 「あ、それでね。だから真衣と賭けをしたんだ。次の期末考査で英数国のどれかで真衣より良い点を取れたら私の勝ちって」

 「それなら国語か数学でも良かったんじゃないの?」

 他の教科の成績はわからないけどどうして英語だったのか。

 「英語と数学は真衣とそこまで変わんない。国語は真衣の得意分野。だったら伸びしろがあって苦手克服もできる英語で勝ちたいなって」

 前向きというかチャレンジャーだ。やるからには、という向上心がある。

 「……賭けって、何を賭けたんだ?」

 そこに章助が耳を動かしながら問う。そこで明はこちらから目を逸らした。

 「えと……。賭けって言うか私からの一方的なお願いなんだけどね。それは真衣と私の秘密、かな」

 「なんじゃそりゃ」

 章助が大きく口を開ける。俺だって気になる。何せ秘密なのだから。

 「じゃあ勝ったら教えてくれない?」

 「うーん……」

 妥協案にも桑野さんは難色を示す。スイーツ食べ放題を奢ってとか、服選び手伝ってとか、それともとても人に話せないような内容なのだろうか。秘密故に余計に想像が掻き立てられる。

 「勝ってもすぐには教えられないかな。でも、もしかしたら二人なら気付くかも」

 「気付く……」

 外見が変わるんだろうか。……スカートを少し短くするとか。

 「ごめん、今は詳しく言えない」

 謝ってくれてはいるけどきっぱりと言わない宣言。その裏に桑野さんの決意なのか計画のようなものが感じられた。

 「じゃ、そろそろ続きやろうか」

 俺もミルクティーを飲み干しカップを置いた。桑野さんはまだペンを持たない。

 「いいのかよ悠登ぉ。俺気になって寝れないんだが」

 「ヒントは保谷さんなんだろ?それがわかってれば充分じゃないか」

 これは俺からの桑野さんへの挑戦だった。そこまで話してもらったんだ、あとはこちらで解き明かす。

 「章助の快眠のためには桑野さんに勝ってもらわないとな」

 「運動じゃなくてテスト勉強じゃなぁ……」

 俺のやる気とは裏腹に章助はもう集中力を立て直せそうになかった。桑野さんは俺を見て微笑んだ。

 「ところで桑野、保谷はわかったけど狼塚はなんで狙われたんだ?」

 章助が伏して顎をもがもが動かす。その質問に俺と桑野さんは顔を見合わせた。

 「トォちゃん?トォちゃんは……勉強会しない?って言ったらめんどい、って言われてついでに見返そうかなって」

 「………」

 「………」

 伏したまま章助がへへへ、と長く静かに笑い目だけ俺を見る。それに俺も乾いた笑いがしばらく続いた。狼塚をそんな風に扱えるのは桑野さんを置いて他にいまい。

 

 その後は地理に移行してしばらく教科書にアンダーライン引き。しかし一度切れた緊張の糸は戻らない。なんとなくでだらだらと惰性で続いてしまった。雑談も増えてそれも楽しいのだが本来の目的から外れてしまう。それを解消するためにプリントの空欄や教科書のアンダーライン漏れがないか確認すると店を後にした。

 「あぁ、勉強したぁ!」

 章助が夕暮れの空に手を伸ばす。室内は快適だったが空気の鮮度なら外に勝るものはない。

 「お前後半は俺の教科書ちょいちょい見てただけだろ」

 「縞太郎君はストローいじってばっかだったよ」

 章助は今日の勉強会を堪能したようだったが俺からすれば後半は一人でやるより能率が落ちた気がする。それに桑野さんも同意して追撃してくれた。

 「なんだよ二人して優等生になって……」

 テスト前だけでも優等生にならないと後で大変なのは俺達だぞ、と章助を睨むと言葉を濁らせた。気まずそうにしていると章助は歩きながらある場所を指差す。

 「あ、公園!ちょっと寄ってこうぜ」

 逃げ道のつもりだろうがこの歳で児童公園に行ってどうする。玲奈も連れてるならまだしも。

 「良いんじゃない?たまには童心に返るみたいな」

 それに桑野さんもあっさり乗る。多数決で公園行きに決定した。

 俺達が小学生の頃遊んでいた公園は遊具も変わってトイレも新しいものが設置されて見映えはそれなりに変わっていた。草刈りもされてベンチも綺麗だが不思議と子ども達は遊んでいない。

 「幼稚園の頃よりは覚えてるな。そこのテーブルでカードゲームして、レアに限って風で吹っ飛んで池に落ちたりな」

 「あったあった」

 今の子達はこうした公園ではなく室内で楽しくカードしてるんだろうか。レアカードを思えば賢明かもしれない。

 「どっこいしょい」

 「縞太郎君おじさんみたい」

 三人でベンチに座って一息。そこで俺は携帯を取り出して時間を確認した。夕飯の買い物はそろそろ行きたいが混む前というだけなので時間にはまだ余裕がある。

 「あ」

 章助が俺の携帯を見て野太い声を出した。

 「どうした」

 「カフェに携帯忘れた!」

 あぁ、そう言えばさっきいじってたな。それをそのまま椅子にでも置いてたのか。

 「ちょっと取って来る!鞄ここに置いてくぞ!」

 「おい……!」

 俺が止める前に章助は来た道を駆け足で戻る。曲がり角に消えて残された俺と桑野さんの間に温い風が吹いた。

 「あらら……行っちゃったね」

 「鞄に入れてたなんてオチじゃないだろうな……」

 章助が俺の鞄や部屋、服をまさぐるように俺も無遠慮に章助の鞄を開けた。……うん、鞄にはない。

 「ないか」

 「ちょっと待ってようよ」

 そんなに距離はないから探すのに手間取らなければ数分で戻って来ると思う。それくらいならと章助の鞄を閉めた。

 「あ、そこの自販機で何か買わない?」

 「いいね」

 途中からお互い水も飲まずに喋っていたから桑野さんの声も若干だがしゃがれてる。俺も小さいので良いから何か飲みたい。

 「俺は緑茶、かな」

 ミルクティーの残り香のようなものが喉に残って違和感がある。それを流すくらいあっさりした飲み物、ということで緑茶を選ぶ。

 「私はアップルジュース、っと」

 小銭投入口に近かった桑野さんから小銭を入れる。すぐにガコン、と音がして小さいペットボトルのジュースが出てくる。

 桑野さんがボトルを取り出してから俺が自販機の前に立った。そこに聞こえる電子音。

 「あれ?」

 ピピピピピピ、と長い電子音のあとに流れる単なる電子音ではないメロディ。自販機が歌い出すとボタンがお金を入れた時と同じように全て点灯した。

 見れば、小銭投入口横のパネルに星マークが三つ並んでいる。その脇に貼られたシールには、当たりが出たらもう一本!と書かれている。

 「おぉ!自販機で当たるの初めて見た!」

 「俺も……」

 こういう当たり付き自販機って本当に当たるんだ。ヤラセみたいに単なる飾りじゃないと初めて知った。そう思っていると俺の腕を桑野さんが揺らす。

 「獅子井君!ほら、緑茶!消えちゃうから早く!」

 「え、あ、あぁ……よし!」

 急に言われて思わず押すと緑茶が出てきた。それを取り出してから気付く。

 「早くってこれ……桑野さんが当てたんじゃ」

 「いいよ、私にはこれあるし獅子井君にあげる」

 言って桑野さんはアップルジュースを開けて美味そうに飲む。俺の手に収まった緑茶を見ていると彼女は短くあ、と声を洩らした。

 「じゃあ今日の先生代とか……安上がりかな?ましてや当たりだし」

 「……いや」

 俺は首を横に振って蓋を開けた。

 「それならありがたく頂くよ」

 一口飲むと桑野さんはにっこり笑った。

 「うん!あ、これ縞太郎君には秘密ね?」

 「そうしよう」

 知ったらきっと羨ましがる。こうして本当に小さな、二人だけの秘密ができた。

 「私が賭けに勝ったらまた改めてお礼しようかな」

 「楽しみにしとく」

 こうしてベンチで隣に座れているだけでも今日は来て良かった。そう思っている自分に少し後ろめたさもある。章助が無事に置きっぱなしにしていた携帯を見付けて戻って来るまでの間、俺は好きな女の子の隣でその子がくれた緑茶の味をじっくりと味わった。


 翌朝から始まる期末考査。俺達は高校生活の節目であり、俺個人の転機も訪れる数日間の始まりでもあった。

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