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第二部 エピローグ

 本当に本当に、それはちょっとした平凡なこと。ただ幼稚園児の男の子が女の子に手を引かれ、ボールを蹴って一緒に遊んでいただけのことだった。

 ありふれていて、珍しくも、面白げもなく他愛ない話。そんな頃をこれ以上思い出すことは不可能だった。手を伸ばしただけでもぼろぼろと崩れ落ちそうなその世界はいつの間にか消え、目の前にはカラフルな色彩溢れる今がある。

 ……寧ろ、あの幼稚園のどぎつい壁のピンクは止めるべきだ。


 「シートは俺が持ってやるよ!お前は……。おい、悠登?」

 「あぁ、なんでもない。帰ろう」

 章助に呼ばれるまで俺は借り物競走の最後、一瞬頭の中を通り抜けた何かを掴もうとしていた。その何か、すらも今の呼び声に霧散した。

 「じゃあ玲奈ちゃん、気を付けてね」

 「はいっ!」

 鞄をぶら下げ出てきた玲奈は猫垣先生に元気良く返事をした。それで終わりかと思えば先生は俺を見付けるとニコニコしながらやって来た。

 「先生、昼はお疲れ様でした」

 借り物競走、走者は俺達で最後というわけではない。あの前も、あの後も、あのテンションで叫び通した先生を労わずにはいかなかった。

 「はは、おかげさまで喉がらがらだよ。遊び過ぎたね」

 喉を押さえる猫垣先生は声も少し枯れていた。しかし労ってばかりはいられない。

 「本当ですよ。俺のことネタにするし」

 「だって獅子井君とこ、獅子井君のお父さんじゃなくて虎澤君と君がいたんだもん。綱引きの時も俺だったらなぁ~」

 そうなったら章助はその場で調子に乗って何かしてたろうな。服を脱ぎ捨て叫ぶとか。

 「若者からかって楽しいんですか……」

 「もう、人を年寄り呼ばわりするのは勘弁してよ。じゃあね」

 高校生からすれば猫垣先生だって立派な大人だ。それを嫌がられても俺達は無理にでも押し付ける。でもおじさんになるのは認めたくないという気持ちを俺も味わったことはあった。

 「帰るよ、玲奈」

 「はーい」

 荷物は他の力持ちさんが持ってくれると名乗りを上げた。章助も綱引きで火照った身体が静まらないのだそうで、シートを担ぎ発散してもらうことに。今はそのシート撤去待ち。そのついでに狼塚達のところへ玲奈を案内した。

 「玲奈。この人が狼塚だよ。前に話したけど覚えてるかな」

 「……こんにちは」

 玲奈は自分から挨拶してしっかりとお辞儀をする。狼塚もそれを見て組んでいた腕を解く。

 「こんにちは」

 狼塚は子どもが苦手なのだろうか。妹と弟がいるなら普通は得意そうなのに。人間には慣れていない、なら少し気持ちはわかるかもしれない。

 「……」

 お辞儀を終えると玲奈が狼塚の顔を見ながら動く。

 「……どうかし…っ…うっ……!」

 まさかとは思ったが玲奈は狼塚の背後に回るとおもむろに彼の尻尾へ根元近くから抱き付いた。狼塚の呻きに悠登もすぐに引き剥がそうとした。

 「おいの……」

 「来るな……!」

 毛の無い掌をこちらへ向けて狼塚は俺を制止させた。そんなに俺が怖いかお前は。

 「れっ……玲奈…ちゃん?あの…尻尾は…」

 今自分がとても貴重な映像を見ていることはわかる。なんなら録画しておきたいくらいだ。狼塚が幼稚園児をちゃん付けにして喘ぎに近い猫撫で声を出してそっと離れようとしている。

 玲奈は玲奈で尻尾を抱き枕のように腕をしっかり回していた。無遠慮にも程がある。しかし、今回は仕方ない。あの尻尾が相手ならそうなってしまうのも無理はないのだから。

 「……玲奈、尻尾はダメだって言っただろ?」

 本当は好きにさせたい。でもこれ以上は狼塚がダメになる。俺の中の狼塚像を壊すのはまだ早い。尻尾を握られる者の気持ち、他の誰よりもわかってしまうため俺は玲奈を止めた。

 「……はぁい。ありがとう、おいのづかのおにいちゃん」

 「……次は言ってね」

 いや、言うから拒否されるのだから玲奈の選択自体は正しかった。そう考え俺が目を閉じ、開けたら狼塚は尻を押さえ俺を悲しそうに見ていた。……すまない、だが俺に来るなと言ったのはお前でもあるんだ。だから何も言わないんだろううけど。

 「狼塚の尻尾、どうだった?」

 「ぐっど!」

 うむ。それは何より。

 「でもおにいちゃんのほうが……」

 うん。皆まで言わなくていい。……ちょっとは嬉しいんだけどさ。

 「知幸君のこと知ってた?狼塚の弟なんだけど」

 「え?しらない」

 知幸君の方を見ると彼もこちらを見ていて頷いた。お互い面識はなかったようだ。

 「今度から仲良くしてね」

 二人に言うと返事はないが頷いた。……親が仲良しだからって子どもも仲良くなるかと言えばそれは当人の問題だ。それはわかっているから俺からはそれ以上言わなかった。

 「あの……おにいちゃん」

 シートも畳み終え、帰るべく玲奈が俺を呼ぶ。手を繋いでくるかと思いきや、立ち止まってこちらを見上げていた。俺はその場に屈んで逆に玲奈と目線を合わせる。

 「どした?」

 俺が声を発すると同時に玲奈が駆け足で動き出して視界から消えた。直後、背後に回った玲奈が俺に飛び掛かる。尻尾を狙われたかと思ったが玲奈の狙いは俺の首だった。

 「おんぶっ」

 首は太いのでしっかり肩に手を乗せた玲奈が少しずつずり落ちる。その前にと反射的に玲奈の太股を押さえた。

 「おぉう……。鬣邪魔じゃないか?暑くない?」

 「だいじょうぶ」

 そう言うなら、と立ち上がると皆がこちらを見ていた。狼塚達も待ってくれている。

 「じゃ、帰るか」

 「おう!」

 幼稚園から出れば自然に大人達と子ども達の集団に分かれて固まっていた。親集団に続き狼塚が妹と弟に囲まれ、その中間で保谷さんと章助が話し、最後は借り物競走組。

 「…………」

 「…………」

 会話が始まらなかった。前にいる他の者と違い、ここだけ妙に静かな時間が流れる。

 「……前から思ってたんだけど玲奈って足早いんだな。すごいじゃん」

 先月の雑巾がけレースも玲奈は章助を少し足止めしただけでゴールした。今回の運動会も二回とも一番。体格差がまだあまりないとは言え、獣人の男の子にも引けを取らない脚力は目を見張るものがある。

 「……玲奈?」

 俺が呟いただけで返事はなかった。振り返ろうにもそこまで首の小回りは利かない。

 「寝てるよ、玲奈ちゃん」

 そこへ代わりに玲奈の状況を伝えてくれたのは桑野さんだった。

 「早っ」

 玲奈は寝付きも良い。昼寝をしても夜だって問題なく眠る。今日は大いに運動したから余計疲れてはいただろう。

 「俺の背中で寝落ちするなんて……」

 「気持ち良いんじゃない?ふかふかで」

 玲奈を起こさないためか桑野さんが声を潜めた。それがなんだか、他に会話が聞かれないように内緒話をしているような気になって。

 「……玲奈が枕にしてる鬣、触ってみる?思ってるよりきっと手触り良くないよ」

 俺も少し声を小さくした。

 「いいの?」

 桑野さんがどういう表情をしているのか見れなかった。さっき、ライオンの鬣を触ったことがないと言っていた。俺のが初めてで良ければ、と玲奈がいてあまり動けぬので顎を微かに突き出すように頷く。

 「…………」

 歩きながらの数秒の静寂の後に指先から桑野さんの手が俺の鬣に触れる。最初は毛先に触れるかどうかの浅さだったがやがて中へと静かに入ってきた。

 毛を挟むことなく進入するその指がやがて鬣の最奥、俺の頭へ直に接した。頭を静かに撫でられながら借り物競走で握った彼女の手の感覚を自然に思い出す。

 人間の手なら玲奈がいるから知っている。そう思っていたが桑野さんの手は俺の知る人間の手とは違っていた。

 玲奈よりも大きいが、それでも俺の手の中にほとんど収まった彼女の手はひんやりとしていた。冷たいと思う程ではないが握った一瞬は本当に手か?と疑うくらいにそれは……柔らかかった。疑う間もなくあの時は走っていたが。

 その手が俺の頭の形に沿うように動く。時に逆撫でして、それを整えるように数度梳き。時折頭をポンポンと優しく叩かれ、鬣を触ると言うより頭を撫でているようだった。

 「ありがとう」

 皆が横断歩道で足を止めた時、桑野さんの手が俺のモジャモジャから抜かれた。そこでやっと彼女の顔を見る。

 もっと触っていてほしかった。でもそうしたらきっと喉が鳴る。それを他の誰かに聞かれたくはない。桑野さんの満喫した表情を見てどうにか自分を落ち着ける。まずは玲奈を静かに背負い直し横断歩道を渡った。

 「桑野さんさ」

 まだ自分の横に明の姿を確認すると悠登は自分から口を開く。明も悠登に顔を向けていた。

 「幼稚園の頃、俺とボール遊びしたことない?」

 悠登が今日触った手と、借り物競走で垣間見た世界で悠登を引っ張った女の子の手は大きさも何もかもが違う。違うと思いつつも悠登には確証のようなものがあった。

 「あるんじゃない?」

 桑野さんは俺ではなく前を見ていた。

 「きっと、いっぱい遊んだんだよ?間違って怪我させちゃったり、泣かせたり、笑ったり」

 「うん」

 トランポリンで跳ねた。雨だからままごとに付き合った。メロン味の歯磨き粉を舐めた。思い出したこと、思い出せないことは数え切れないくらいある。

 「今日は色々思い出したなぁ。獅子井君も思い出したんだ?」

 桑野さんは腕を伸ばすと朗らかに口角を上げた。

 「昼間の幼稚園にしばらくいたらもっと思い出したかも」

 思い出せたのはほんの一部。だが、余計に思い出せなくなった何かが頭を過る。

 ボール遊びをする俺と誰か。その記憶の場面には所々墨汁を撒き散らしたように見えない部分があった。まるで二度と誰にも見られたくないように。

 「今でも忘れないよ。トォちゃんってば私の目の前で……」

 「目の前で?」

 幼稚園児の狼塚。知幸君のように無邪気に尻尾を振り回しているとは思えない。それでも今よりは社交的だったろうか。

 「……ううん、これは言ったらトォちゃんが泣くわ」

 「俺がどうしたって」

 桑野さんが首を振ると狼塚が静かに俺達の方に来た。妹達は弟を構っている。

 「トォちゃんは幼稚園からちっとも変わんないなーって話してたの」

 すぐに狼塚から顔を逸らして桑野さんは冗談っぽくむくれながら言った。昔からこんなやつだったっけ、と狼塚を見るがもう向こうは桑野さんしか見ていない。

 「どういう意味だ」

 「図体だけかさばっても中身が変わらないってこと」

 生意気であってもこんなに無愛想な幼稚園児。それを想像すると耐え切れなかった。

 「俺は昔から狼塚の尻尾目当てだったわけじゃないから変わったな」

 「悪い方にな」

 胸を突く一言が正確に俺へ飛んできた。かと言って諦めたわけでもない。

 「獅子井君あっての玲奈ちゃんって感じだったねー」

 「はは……」

 桑野さんまで言って狼塚は頷く。玲奈はたぶん狼塚の毛並みを堪能したかったんだと思う。それに対し俺の目当ては尻尾のみ。それは俺からは大きな違いだがこの二人、特に狼塚からすれば一緒らしい。

 「三人して何の話?」

 「俺らも混ぜろよ」

 そこに保谷さんと章助が会話に入ってきた。

 「獅子井は変人って話だ」

 「悠登はちょっとヘンだから良いんじゃないか。なぁ?」

 狼塚はともかく章助に言われる筋合いはない。今日は玲奈が背中にいるから肩を組もうとしてこないし、俺も手が塞がれ何もできないが後で覚えとけ。

 「で、悠登の何が変だって?」

 狼塚と桑野さんが章助に耳打ちするため俺からわざとらしく離れる。そんな露骨な真似しなくても尻尾の話と幼稚園の話しかしていない。鬣に触ってくれた話はキレイな思い出にしたいんだがそれも許されないだろうか。

 「……やっぱ俺って変かなぁ…」

 「気にしなくても、縞太郎君は本当か嘘かわかるでしょ?獅子井君のことなら」

 俺のくぐもった呟きに保谷さんがフォローを入れてくれる。保谷さんは三人の輪には行こうとしなかった、

 「どうかな。章助なら本気にして聞いてきて俺に制裁されそうだけど」

 「仲良いもんね」

 そう率直に言われるとなんというか。

 「ただの腐れ縁だよ」

 切ろうとして離れるものではないのも確かだが、好意的に親友とか言うのも気恥ずかしいし。

 「縞太郎君はもっと親密になりたいみたいだけどね」

 これ以上親密ってどうやって、何になろうと言うのか。

 「保谷さんはさっきから章助と何を話してたの?」

 普段の俺達を見ていてか、俺の話をしていたからか章助の肩を持つような話し方をする保谷さんが気になった。

 「え?借り物競走の獅子井君の勢い凄かったなーって話」

 「う……」

 見られていたのはわかっていた。後から学校でネタにされるよりは今のうちに話題にしてもらい、明日には風化していた方がまだ良い。

 「縞太郎君の慌てっぷりも面白かったけどね」

 「落ち着けって怒鳴られたし」

 慌て方に関しては俺も相当だったが章助はあの時何を考えていたんだろうな。俺……いや、アイツもアイツなりに玲奈を勝たせようとしてたんだろうけど。

 「勝ち負けってそんなに大事?ああいうのってほんとは交流が大事なんじゃない?」

 「うーん」

 保谷さんの質問に唸る。目的だけ言えば尤もだと思う。

 「それは頭でわかってるんだよ。でもいざとなると勝ちたいって思う人が出てくる。それに引火して周りも白熱してたんじゃないかな。俺はそう思ったよ」

 「なるほどねぇ」

 保谷さんは書道部、だっけ。入選とかはあるだろうけど勝敗は拘らないって、それは俺の思い込みだな。向こうはわかったようだけど。

 「それに、玲奈も言ったんだ。今度はお兄ちゃんと一番になる、って」

 「負けず嫌いなんだ」

 負けず嫌い、か。勝負事に挑む玲奈を見ることはほとんどなかったがそういうことになるのかな。俺はどちらかというと頑張り屋だと思う。父親に見せるために張り切ってたんだろうから。

 「でも獅子井君はどっちだったの?」

 「どっち?」

 翻然と話題が俺に向けられ聞き返してしまう。保谷さんはうーん、と唸る。

 「玲奈ちゃんは勝ちたいって言った。獅子井君の勢いも凄かった。だけど獅子井君は勝ちたかったのかな、って」

 保谷さんの指摘がやたら鋭くて心臓の鼓動がほんの少し早まった気がする。

 「獅子井君も玲奈ちゃんを勝たせたかったなら明じゃなくて他の人を連れてった方が確実に勝てたよね?」

 「俺も……頭が真っ白になってさ」

 違う。あの時の俺は勝ちより桑野さんを優先してた。わかった上で俺は桑野さんを選んだ。

 「よくあるよね。お題と明の印象が結び付いてそれしか考えられないとか。でもダメだよ獅子井君」

 保谷さんは笑っている。

 「明はトォちゃんと付き合ってるんだから手ぇ出しちゃ」

 でも俺はその一言に何も返せなかった。保谷さんに合わせ笑って誤魔化すこともできず、考えてばかりいた。

 俺が桑野さんを好いていると今日の一件で知られたかはわからない。雰囲気からして単に人の彼女を彼氏の前で引っ張っていくのは良くないと言っているだけにも思える。俺が都合的解釈をしていなければだが。

 「あ、真衣!私達こっちじゃん」

 「そうだった」

 俺の頭が鈍いながらも回転して思案している間に保谷さんが俺を追い抜き桑野さんに並ぶ。何の話かと思えば二人は途中の横断歩道へ向かった。

 「私達ちょっと服見に行くんだ!史香ちゃんも来る?」

 「私もいいんですか?」

 桑野さんの笑顔がいつも以上に眩しかった。思わず目を細めるくらいに。

 「いいよね?」

 「うん、もちろん。園佳ちゃんもどう?」

 保谷さんは更に園佳ちゃんまで加えようとする。それを園佳ちゃんは首を横に振った。

 「今日はお兄ちゃんといる……」

 その一言に史香がハッと口を開けた。園佳ちゃんはこれ見よがしに狼塚の腰に抱き付く。

 「………くっ、今回は見逃してやるけど次はこうはいかないからね!」

 「じゃあまた明日ねー!」

 ディスチャージ仮面でもそうそう聞かないような捨て台詞を残し史香は桑野さん達と横断歩道を渡って行ってしまった。あの場なら兄を優先するかと思ったのに少し意外だった。

 「俺も下の兄弟が欲しいぜ」

 残された章助に反応することなく狼塚家も近くの交差点前で立ち止まった。

 「……家こっちだから」

 「にいちゃんぼくもおんぶー!」

 狼塚は弟の要請に黙ってしゃがむ。

 「じゃあな」

 「おう!お疲れ」

 知幸君を背負い狼塚家も行ってしまった。俺も言おうとしたが何も言葉が出てこなかった。

 「さぁ帰るぞー!って、あれしきで疲れたか?」

 「……まさか」

 疲れてはいない。なのに身体は妙に重かった。玲奈の重さは抜きにして。

 「玲奈ちゃん、熟睡じゃねえか」

 「うーん?」

 章助が俺の横で言うがこっちは玲奈の寝顔が見られない。肩に顔を乗せているわけでもないし。

 「章助。俺の右ポケットから携帯」

 「う?おう」

 章助はすかさず服のポケットから俺の携帯を抜き出した。

 「玲奈の寝顔、撮っといて」

 思えば楢原さんに送ることしか考えてなかった。

 「お前も一緒に写すか?」

 「任せる」

 だから個人的にも一枚撮らせてもらう。すぐにシャッター音が聞こえ数秒。保存終えて章助が俺に携帯の画面を見せた。

 「どうよ」

 「熟睡だな……」

 俺の横顔も一緒に写った画像の玲奈は口を軽く開いているが瞼はしっかりと閉じられていた。これは本気で寝入っている。それを確認すると章助は俺のポケットに携帯を戻してくれた。

 「さんきゅ」

 「いいってことよ」

 段々とこの後を考えられるようになってきた。今夜の食事とか、録画したディスチャージ仮面と運動会のビデオのどちらを優先させるか等々。

 違うことを考えたかっただけのような気もする。そうしないと、さっき何でもないことのように飛んできた言葉がガムのようにこびり付いて離れなくなりそうだから。

 「今夜、なに食べたい」

 「おぉ!?ご馳走してくれるってか?」

 言ってしまってかららしくないなと思う。章助を自分から誘おうだなんて。

 「荷物持ちと綱引きの礼、かな……。でも今日の作り置きが大半だぞ?」

 「いいぜ、美味かったし!」

 屈託なく答える章助の明るさに今は少しでも便乗したかった。コイツの前で恋愛話なんてすることはないと思うが、それならば一緒に何かすれば良い。

 「帰ってもまだ時間あるから玲奈を寝かしてる間に俺達は画像の選り抜きすっか」

 「おう、抜き抜きすっぞ!」

 

 初夏の手前、徐々に各地で梅雨入りが報じられる頃、悠登はいつもの自分を装いながら煩悶を重ねる。狼塚が以前否定した話題を真衣に真っ向からぶつけられて身動きが取れなくなった。その意味で真衣の一言は言葉通りに悠登の中へ残った。

 「獅子井君、次の化学って化学室だっけ?」

 「さっきホワイトボードに教室って書き直してたよ」

 「え?本当だ!いやー、一人ポツンと行っちゃうとこだった。ありがとう!」

 「どういたしまして」

 明との会話の量はあれからグン、と増えた。だが、そんな会話も一期末考査が終わり、席替えが行われればできなくなる。席替えが済めばもう、この時間は訪れない。


 時間の流れが少しでも遅く感じられますように。月曜日が始まってから悠登が願うのはそんなことばかりだった。それでも時間は止まらない。許されたのは次の時間の使い方を決めることと、行動に移すことだけだった。


                                 了

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