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【竜に挑めば、君は逃れようもなく死ぬ】
不死神は淡々と言う。
【力を蓄えろ】
「そうすれば、ルゥたちは死ぬでしょうね。彼らドワーフは、竜の害に対して、まずドワーフが血を流すべきだと思っている」
【確かにそうだ、ドワーフたちは死ぬ。そして目覚めた邪竜によって、人もエルフもドワーフも問わず、幾百、幾千と死ぬだろう。
……だが、その邪竜の被害によって君と、君の信ずるグレイスフィールに信仰が集まる】
神々の力は信仰に拠る。
確かに邪竜の害が増すごとに、神さまにも縋るようにして信仰が集まるだろう。
竜を除いてくれという願いと祈り。
それによって生じた力は、僕の戦力にも直結する。
信仰を得て力を増した神さまが、それを僕へ加護として与えてくれれば。
それは、竜を討つ大きな力となるだろう。
【竜が害を成せば、それを討って名を上げんと、各地より腕利きの戦士や術者も集うだろう。
善なる神々の託した使命を帯びた神の使徒たちもな。
力を取り戻したグレイスフィールの加護を得て、君がそれら英雄たちを束ねれば、邪竜の喉首に刃を届かせうる】
改めて、それは説得力のある言葉だった。
【私とて、このような提案は本意ではないが……犠牲を許容するべきだ。臆病ではなく、勇気ある行いとして】
説得力のある、正論だ。けれど――
「従えません」
【なぜだ。そんなにもすべてを救いたいのか?】
《遣い鴉》が、苛立つように枝の上で身動ぎした。
【……確かに今、君が何もかもを見捨てず進んだとして、あるいは全てを救える可能性が僅かにはあるやもしれん。
だが失敗すれば、失われる命は一万や二万ではない。そして君に匹敵するだけの英雄はすぐには現れない。
君はそれでも千や万の命を守るため、その十倍、百倍もの命を危機に晒すというのかね? 無策無謀の極みだ】
その通りだとも思う。
「……不死神スタグネイト。あなたの仰ることは正論でしょう」
実際に、非の打ち所がない。
最適解を求めるならば、そうなのだろう。
【そう思うならば……】
「けれど、そうした瞬間、僕の拠って立つ誓いと信仰は折れる」
不死神が、目を見開いた。
――そうだ。ただひとつの問題は、それだ。
「……あなたはそれを分かって正論を口にしている」
【…………】
僕の心を折るために。
自らの陣営に、取り込むために。
――まるで祭壇に生け贄を捧げて力を得る、邪教の儀式のように。
諦め、見過ごし、血と肉を対価に力を得ろと。それが最適なのだと、勧めている。
「違いますか?」
【…………】
不死神の回答は、沈黙だった。
「……不死神スタグネイト」
【何かね】
「……僕は、弱い人間です。
自らが易きに流れ、折れ、諦める、移ろう心をもつただの人間だと、知っています」
生まれ変わって僕は変わった、なんて言うつもりはない。
僕の心の、魂の本質はきっと、前世から変わっていないだろうと思う。
だから、何かを見過ごし、何かを諦めたら、そこで僕は折れる。
仕方なかったとまた言い訳をして。
きっかけがないからと。もう無理だからと。諦める理由ばかり積み重ねて。
自分に何度も言い訳を連ね、そうして堕ちてゆくのだと、分かっている。
「それでもやり直していいのだと、グレイスフィールは教えてくれたんです。
もう一度、立ち上がって、歩むことを許してくれたんです」
不死神の紅い瞳を見つめながら。
僕は、灯火の女神への感謝を歌う。
「大切な家族と、出会うことができました。
大切な友だちや、仲間もできました。
するべきことも、したいこともできました。
失ったものに、諦めたものに、彼女はもう一度手を伸ばす機会をくれました」
どれだけ感謝したら良いのか、わからない。
あの、フードを被った寡黙な神さまに、僕は本当に大切なものを貰ったのだ。
だからこそ――
「僕は、それを貫きます。
誓いを守り、信仰を胸に。死して倒れるその一瞬まで、彼女の手となり、剣となり続けます」
たとえ、最適でなかったとしても。
いびつで、無様なやり方だったとしても。
僕にはそれしかないと、そう思っている。
「グレイスフィールの、灯火にかけて」
――それが彼女の灯火に照らされた、僕の、ただひとつの道なのだと。
【…………】
不死神は沈黙したままだった。
沈黙したまま僕を見つめ――そして、深く息をついた。
【……やれやれ。籠絡は、またも失敗か】
◆
遠く、エルフの里から楽の音が再び聞こえる。
竜の唸りで中断されたものを、気を取り直して再開したのだろう。
澄んだ竪琴の音が、跳ねるように、楽しげに響く。
【そうだ。……初めて出会った時から察していたよ。
君の魂はさして強くはない。君は、諦めれば折れ、堕ちる。その程度の魂だ。そう気づいていた】
初めて会った時の、絶望を思い出す。
強烈な揺さぶりをかけてきたのは、やはり、見抜かれていたためだった。
【英雄になれるとは、思ってもみなかった。三英傑のおまけ、鍛錬により技量が突出しただけの脆い魂。そう思っていた】
実際に、そうだったはずだ。
マリーの叱咤がなければ。
神さまの恩寵がなければ。
僕は不死神を前に、折れ、潰れていたはずだ。
【だが、君は私の予想を覆した。
――諦めなかった。折れなかった。それどころか立ち上がり、私に挑み、倒してのけた】
不死神の《遣い鴉》が、笑った。
くつくつと、楽しげに。
【逆説的だが……だからこそ、君は英雄たりうるのだろうな。弱き魂よ】
「英雄になろうと、思ったわけじゃないのですけれどね」
【ハハハ。己の弱きを知り、だからこそ諦めず、折れず、信じたことのために死をも厭わない】
遠く聞こえるエルフの楽の音。
不死神は合わせるように、滑らかに言葉を連ねる。
【――それを人は英雄というのだ、ウィリアム・G・マリーブラッド。かつて私が欲した三人の全てを継ぐものよ】
僕は、なんと返して良いのか分からなかった。
ただ何か、不思議と穏やかな気持ちだった。
一度は絶望を叩きつけられ、そして立ち上がり、敵対し、生死をかけて戦った。
その相手たる悪神と話しているのに、祈りの時のように、心は凪いでいた。
【あえて、いま一度言おう。……私のもとに来い】
それは、きっと。
【我が右の座を用意しよう。永遠なる加護も、不死なる軍勢も、すべてを与えよう。
竜を殺し、英雄を討ち、全ての神々を下してこの世界を征服しよう。――君と、私とで】
その思想も、謀略も、慈悲も、何もかもひっくるめて――
不死神スタグネイトという神格が、本当に尊敬すべき存在だからなのだろう。
だからこそ。
「お断り申し上げます。不死神スタグネイトよ」
左胸に手を当てて、謝絶した。
心からの、敬意を込めて。
【……やはり、駄目か】
分かっていたよ、と鴉は笑う。
「ええ」
頷いた。
「――だって貴方は、堕ちる英雄を見たくないのでしょう?」
そう言った瞬間、《遣い鴉》が、動きを止めていた。
不思議と、色々なことが思い出せた。
「僕がグレイスフィールへの信仰を失い、あなたのものになったとしたら。
――きっと僕は、あなたが求めたままの存在ではいられない」
【……っ】
かつて不死神スタグネイトは言っていた。
永遠に優しい世界を作りたいと。
引きずり降ろされ、陥れられ、苦渋と後悔の内に輝きを失う魂など見るに堪えないと。
「不死神スタグネイト。あなたは尊敬すべき敵手であり、偉大な神格です」
心からそう思っているから。だから、
「僕はあなたの誘いに靡きません。あなたの敵であり続けます。――あなたを、尊敬しているから」
僕はあなたに共感できないけれど。
出会った時から敵だったけれど。
あなたが偉大なことは分かるし、あなたなりに慈悲深いことも分かります。
だからこそ、最大限の敬意を払いたい。
――あなたのものにならないことで。あなたの敵であり続けることで。
【…………参ったな】
不死神は、しばらく沈黙すると、それからぼそりとそう言った。
【人の子にそこまで見通されたのは、初めてだ。
……直情的に見えて、意外と敏いのだな、君は。神意を見通したのだ、賢者を名乗れるぞ】
「恐縮です」
率直な褒め言葉に、なんと答えていいか分からなくて、そう返す。
【だが惜しいかな、君は死ぬ。竜に裂かれて死ぬ】
皮肉げに、不死神の《遣い鴉》は笑った。
【心変わりするようなら、いつでも私を呼んで良いのだぞ、ン? 瞬く間に最高位の不死者としてやろう。
死ぬ瞬間でも、首が飛んだ後でも構わん。そうだな――首が飛んだあとなら、首無しの騎士王あたりでどうかね?】
それともやはり、不死なる王がお好みかな、などという不死神に対して。
僕は肩をすくめて言った。
「竜が相手ですよ。負ければ全身消し飛びます」
【ハハハ、違いない!】
そしてお互いに笑い合うと――
【では、もうゆこう。いい加減、グレイスフィールもお冠だろう】
確かに鳴り響く警告の啓示は止んでいたけれど、なんだかふつふつとストレスを溜め込んでいるような気配がする。
神さまは神さまらしいけれど、不死神が絡むとどうも、稚気を感じるというか人間臭い。
【では、さらばだ。――愚かで賢い私の敵よ、灯火の聖騎士よ!】
そう言い残し、《遣い鴉》は、夜闇に紛れてどこかへ飛んでいった。
それを見送って、ふと、少し笑みが浮かんだ瞬間――
「っ、アイタタ!?」
つねるような痛みのイメージを送り込まれた。
……ひ、ひどいです、神さま!




