14
「ヴォオオオオオッッ!!」
それは、巨大な猿だった。
濃褐色の毛をしている。
2メートルを優に超えている。
体重は、250キログラムはあるだろう。
太い。
腕は太ければ、脚も太い。
胴も、首も、 唇も、目も、太い。
……思わず前世で読んだ、格闘小説の描写を連想してしまうような《巨人猿》だ。
「ひゃぁぁぁぁぁっ!!?」
バタバタと転げるように逃げているのは、2人。
荷を担いだ行商人風の痩せた男に、弦楽器を背負った少女……いや、
「小人族か」
と、メネルが呟いた。
確かに身長がえらく低い。
わりに足は早い。
木の葉のように尖った耳に、赤い巻き毛。
確かにあれは、本で読んだハーフリング族だろう。
歌と踊りと食事を好む、陽気な放浪の小人たちだっけ……って、そんなことを考えている場合ではなかった。
バタバタと駆けてくる2人。
小人の少女が荷の多いの男を追い抜きそうになり、
「わ、ちょっとっ! 捨て、捨てなさいっ! 馬鹿っ!」
「しかし……」
「しかしもカカシもねーわよああもうっ!!」
青ざめた顔で大汗をかいている行商人とぎゃあぎゃあ揉めているところに巨人猿が突っ込み、2人ともワァと叫んで分かれて逃げた。
そのまま枝の密集するあたりに、小さな身体を活かして転がり込んだ少女は、逃げきれるかと見えたけれど……
「…………」
今度は行商人の男が追われそうになるのを見ると、覚悟を決めた目をした。
適当な樹の枝を拾って、
「こっち、こっちよ!」
と、巨人猿に向かって投げつける。
どうやら囮になる構えらしい。
「こー……いッ? えっ、誰……えっ、ちょ、危な……っ!」
そこに、僕が間に合った。
小人の少女と大猿との間に、割って入る。
……巨人猿が、乱入者である僕に足を止め、目を剥いた。
「ヴォオオオオオッッ!!」
大口を開けて、太く長い犬歯を強調するように威嚇してくる。
びりびりと空気が震える。
僕は、じっと巨人猿の目を見つめる。
「ォ、ォオオオオ!!」
巨人猿が平手で胸を叩く。
大太鼓を乱打するようなものすごい音が響いた。
僕は、じっと巨人猿の目を見つめる。
「ォォォ…………」
視界の端。
メネルが行商人の男の人の方を助け起こしたようだけれど、猿から視線を切らない。
ひたすらじっと見つめる。巨人猿は、こちらを見ながら低く低く唸りをあげる。
ブラッドが言っていた。
野生動物と出会った時は、目を逸らしたら負けだと。
……さあ、やる気ならこい。レスリングでもしようか。相手になるよ、フォール負けとか初体験だよね?
「……ォ、ォ」
戦意を込めてじっと見つめ続けると、巨人猿が後退りを始める。
しばらくすると巨人猿のほうから視線を切り、踵を返して森の深くへと戻っていった。
「……ふう」
戦わずに済んだ。
良かった良かった。
「大丈夫ですか?」
そう思いながら振り返ると、
「なにあれっ! 何いまの、凄い凄い凄い!
ちょっとお兄さんお兄さん、あなた何者なのよ冒険者っ!?
興奮した巨人猿とか普通視線で止まらねーわよ凄いわ凄いわ!!」
ものすごい勢いで小人族の少女が駆け寄ってきた。
……目が、好奇心にきらきらしていた。
◆
「あたしはロビィナ! ロビィナ・グッドフェロー!
自由気ままな旅の空、歌い踊りの吟遊詩人よビィって呼んで頂戴!
で、そっちの冴えないのが行商人のアントニオ! 愛称はトニオ!
勤めてた商会の船が立て続けに沈んで破産して、今じゃ辺境田舎道の行商人に身をやつしってわけ!」
ビィさんは赤い巻き毛に子供みたいな体格のハーフリングの……少女、なのかな?
人間より長生きするそうだから、年齢はよくわからない。ただ物凄く、よく喋る人だ。
今まで会ったことがないタイプである。
「ハハハ、私がしゃべることがなくなってしまった。
どうも、アントニオと申します。お気軽にトニオと呼んで頂ければ。冒険者さまがた」
アントニオさんのほうは、顎鬚を生やした30~40代くらいの男の人だ。
穏やかそうで親しみやすそうだけど、ちょっとくたびれて覇気のない感じもあって……
うん。失礼ながら、ビィさんの言う「冴えない」って評は、分からないでもない。
「俺はメネルドール、元冒険者でこのへんの村の狩人だ。
街の方に買い出しにいくとこだったんだ。で、こっちが……」
と、メネルが僕の方を見る。
……自己紹介って前世からあんまり得意じゃなかったんだよなぁ。
こういう時って緊張する。
「ウィリアムです。ウィリアム・G・マリーブラッド。
いちおう冒険者で、灯火の神グレイスフィールさまに仕える神官をしています」
ウィルと呼んで下さい、と微笑みを作って言った。
うん、自分なりに及第点……
「うっわ凄い貴族的な名前ってグレイスフィール!? グレイスフィールってあれよね南大陸の!
今じゃほとんど神官もいないっていうあの神さま!
うわあ、うわあ、まだ居たんだ! しかも腕利きの神官戦士よね!?
巨人猿相手に堂々割って入るってことはそうよねそうよね!」
「まぁな。コイツ、ポヤっとしてるが馬鹿みたいに腕は立つぞ。
なにせ《獣の森》を歩いてて、ろくに獣に遭遇したことがねぇとかほざきやがる」
「それって獣も実力差理解して避けるってこと!? うっわ、なにそれ、凄い!」
…………あれ?
「普通もっと出会うの……?」
「出会いますよ? だから《獣の森》なんです」
アントニオさんにまで、何言ってんだこいつという視線を向けられた。
「つーか、アンタらは2人か? 護衛は? 殺されたか?」
メネルがあたりを見回す。
「いやそれが、さっきそこで巨人猿と出会った際に、お恥ずかしながら逃げられまして……」
「オマケにアイツらが大騒ぎして逃げるもんだから、巨人猿が興奮してもう大変よ!」
ホントはあいつ人間襲わないのに! っていうかむしろ見た目怖いだけで優しいのに! と憤慨するビィさん。
それを聞くとメネルが大笑いした。
「ぶはは、虚仮威しの装備で、前金だけボられて逃げられたか!
もっと目を磨かなきゃいけねーぜ商人さんよ、ひっひっひ……!」
恥ずかしそうに恐縮するアントニオさんと、ばしばし肩を叩いて慰めるメネル。
どうやら、これ冒険者あるあるネタみたいなんだけど、これがあるあるネタなんだ……
って、
「あ……これからどうされるんですか? よかったら」
「よかったら道連れくらいにはなってもいいぜ、貸し一つってことで」
すっとメネルが割って入った。
お前は商談すんな! と目が全力で語っていたので押し黙らざるをえない。
「ふむ。貸し一つ……というと?」
「《白帆の街》で、役畜買い込みたいんだよ。
俺がコイツの遺跡漁りに協力して、そこそこ実入りがあってさ。
だもんで、村の連中にも楽させてやろうかな、と」
「ああ、なるほど! そういうことでしたら勿論構いません。ツテのある商人をご紹介させて頂きます」
「よろしく頼むわ。……割り込んで悪ぃな、コイツちょっと世間知らずなとこがあるもんでよ」
「あ、やっぱりお貴族さま出身とか? なんかそんな雰囲気よね! 純粋培養っていうか、世間知らずっていうか」
「い、いや、出自に関しては……ちょっと口にしても信じてもらえないだろうっていうか、あんまり言いふらせないっていうか」
「つまり家の事情であれこれ話せない高貴な出身の冒険者なのね!! しかも知られざる神の神官!
わはー! 素敵素敵! 詩人的に、ちょー構想が広がるわっ!」
あれ? 何言っても誤解しか発生しそうに無いぞ? あっれ…………
◆
それから僕たちは代わり映えのしない、晩冬の《獣の森》の踏み分け道を何日も歩き続けた。
ビィさんとアントニオさんは、すぐにビィとトニオさんになった。
トニオさんは物腰柔らかで人との距離を詰めるのが巧みだったし、ビィに至ってはそもそも人との距離感なんて概念が頭にあるのか怪しくなるほど明け透けだった。
「わはー! あたしが来たぜー!!」
と底抜けに陽気な笑い声で、村につくたび皆を騒ぎに巻き込んで、大騒ぎ。
歌い踊って盛り上げて、おひねりも投げられた後で、トニオさんが商売を始めると、みな陽気になっていて財布の紐も緩くなる、という具合だ。
なかなか有効な組み合わせで、メネルでさえ、上手い商売してるなと感心していた。
メネルによると行商人というのもピンキリで、トニオさんみたいなのばかりではなく、こそ泥まがいのとか押し売りまがいのとかも多いのだそうだ。
……多分、元はちゃんとした商会の出身というのも本当なのだろう。
そして新たに加わった僕という要素も、トニオさんは見事に活用してくれた。
ビィが人を集めて、それから僕が病人や怪我人の有無を尋ねて施療して、快気祝いから宴会に持ち込む、という流れを組んだのだ。
ますます盛り上がるようになったらしい。
「はい。それじゃあ病状を見せて――」
と、片っ端から《病癒やし》やら《傷癒やし》の奇跡をかけてゆく。
……魔法の本質が《ことば》による混沌からの創造にあるように。
祝祷術の本質は、この世界における上位存在たる神の威光と慈悲による、現実の「書き換え」だ。
本当にそら恐ろしいくらい、「何事もなかったかのように」治ってしまう。
ちょっとした鉛筆書きのイラストの一部分を、消しゴムで消してさらさらと書き直すような。
人の魔法では届かない、神の高み。
一定の方向性を持つ神格に従属する融通のきかなさがあるから、魔法の上位互換でもないし住み分けはあるけれど、改めて見ても凄い力だと思う。
神さまからの借り物の力。これが自分の力だなんて、勘違いしないようにしないといけない。
もし、そうしてしまったら、きっとロクなことにはならないだろう。
「あ、あの。お幾らくらいお包みすれば……?」
腕の火傷痕を直したご婦人から、そう聞かれた。
「ああ、結構ですよ。お礼は、どうか灯火の神さまに。
それでも何か気になるのでしたら、トニオさんから何か買ってあげて下さい。
今の僕は、修行中の身なので」
そう言うとご婦人は何度も頭を下げて、トニオさんが商品を広げる方に向かっていった。
メネルは僕が修行中などと言ったことに白い目を向けている。
いや三味線とかじゃなくて、ほんとに修行中なんだよ?
……そんな調子であちこちの村を渡り歩いては、歌を奏で、施療し、物を売ったり買ったりして、十数日かけて北上した。
何キロくらい北上したのかはわからない。
森の道はぐねぐねと曲がっていたし、トニオさんが知っている村を経由するために、けっこう遠回りもしたためだ。
感覚的にはかなり歩いたけれど、地を這う人の視点から、これを直線距離に直すことは容易じゃないだろう。
そういうわけで今日も、薄暗い森のなか。
ひたすら機械的に、足を右、左と運んでいると、前の方から、
「わっはーっ!」
とびきりの歓声が聞こえてきた、ビィだ。
何かと思って駆けてゆくと徐々に光量が増し……途端、視界が開けた。
左右に木々が無い。薄暗がりがない。
見上げれば、西の空に傾きかけた太陽から、いっぱいの光が降り注いできた。
春を目前にした冴え渡る青空が、頭上一面に広がっている。
視線を下ろせば道はゆるやかに蛇行しながら地平線に向けて続き、その左右には区切りのある畑が連なって、美しい自然色のパッチワークを描いている。
……一陣の風が吹き渡り、青い麦穂がざぁぁ、と揺れた。
寒くもないのに、思わず鳥肌が立った。
「《小麦街道》に、でたーッッ!!!」
ひゃっほう!! とビィが踊りまわり、トニオさんの手をとってぐるぐる回り出した。
メネルも感慨深げになびく麦穂を眺めている。
僕も、雄大な平原地帯に、しばらく言葉を失って――それからビィに手を取られて、僕もぐるぐる踊ることになった。
思わず笑いがこぼれて、ビィと一緒にはしゃぎながら踊った。
ただ、あんまりはしゃぎすぎて、すぐに日が暮れてしまい、近場の村にまでは辿りつけなかった。
夜遅くに訪って強盗と間違われても馬鹿らしいし、ちょっとした社を見つけたこともあって、そこで宿営することにした。
「ふふん、今日のあたしはゴキゲンじゃぞよ。なんぞロハで演奏して差し上げようか……!」
ビィが洋ナシみたいな形をした小さな三弦の弦楽器――レベックというらしい――を取り出すと、大仰な動作で弦に弓をあてた。
「おっ、太っ腹だな!」
「へへーん! って、何がいいかしらね。
最近の武勲詩じゃ《つらぬき》のレイストフとか定番すぎるし、かといってバークリー剛勇伝みたいなのは古めかしいし……」
んー、とちょっと考えて。
「じゃあそう、かの《上王殺し》の《三英傑》!
《彷徨賢者》と《戦鬼》、それに《マーテルの愛娘》の武勲詩でいきましょうか」
――心臓が、止まるかと思った。
「ああ、いいですね」
「手頃な演目だな」
「そういや最近、演奏してなかったしねー。って、どしたのウィル?」
「い、いや、何でもないよっ! 聞かせて、是非聞かせてっ!」
「おっ! いいねいいね、食いつきいいね! それじゃあはじめましょう!」
弦が鳴り始める。
遠い故郷を思わせる、空気を震わす切ない響き。
僕の心臓も、どくどくと鳴っていた。
「時はゆく……否、過ぎゆくは我らかな」
普段は陽気なビィの声が。
深みと哀切を帯びて、夜気の中に朗々と流れだす。
「さても腕強き強者も、鬼謀の賢者や聖女とて、月巡り、残れるは、いささかの灰と名のみなる……」
弦の音が響く。
……残っていたんだ。
「なればこそ、調べも高く、かなでいでん。
武勲よ不朽なれ、英傑の名よ、世々に響けと祈りつつ」
声の響きにつれて、僕の中でも言い知れない興奮が高まる。
……残っていたんだ。
「今宵語るは飛竜殺し。《三英傑》の数多の武勲、その一つ……」
ビィが、僕に、笑いかけた。
「――どうか皆さま、ご清聴の程を」
残っていた! 3人の名前は、残っていたんだ……!




