29
「……くだらん負けを喫したものよな」
僕の声で。
僕でないものが、ひどく、つまらなさそうにつぶやく。
瞳が爛々と輝き、瞳孔が爬虫類のような形へ変化しはじめていることが、なぜか、知覚できた。
「む……」
『それ』は一歩を踏み出そうとして――ふらり、とよろめいた。
あまりにも負傷しすぎている。
「■■■――」
応急処置とばかりに、幾らかの《ことば》で血だけは止めた様子だけれど、そもそもの話、血が足りないのだ。
そして。
加うるに、恐らく『それ』はもう――
「我が身はこれ泡沫の夢、かつて我を為した《ことば》の残響、か……」
少しだけ、幾つかの感情の篭った声で、そう呟いた後。
それ以上拘泥する様子もなく、『それ』は、フン、と鼻を鳴らす。
「……だが、良かろう」
ニタリと、粘つくような、ほの暗い感情の篭った嗤い。
「竜とは勝利者を呪い、破滅をもたらすものなれば」
呟きと同時。
『それ』は僕の体を荒っぽく操り、傷だらけの腕を振る。
背後から飛びかかってきた数体の悪魔を、『それ』は風の爪であっさりと引き裂いた。
あるものは首をもぎ取られ。
あるものは胴を裂き腸をえぐり出され。
あるものは股から頭頂部まで真っ二つに引き裂かれた。
「ハハ……クハハハ!」
悪魔たちが、まったく相手にもなっていない。
知覚が、動作が、異常なほどに冴えていた。
更に幾体かの悪魔が連携を取り、攻めかかってくる。
建物を遮蔽に、弩を放ち、前衛は撹乱に徹し――
「はッ!」
――嘲るように吐き捨てられた一息とともに、風の爪が伸び、奔った。
燃え上がる建物の二階から弩で僕を狙っていた悪魔が、建物ごと引き裂かれて崩れ落ちる。
周囲を巻き込む、耳を聾するような崩落音。
巻き込まれる悪魔たち。
そうだ、誓いを立てた僕ならばともかく。
『それ』が、無粋な襲撃者を撃退するのに、周囲のことなどいちいち考えるわけがない。
舞い上がる粉塵、そして火の粉。
視界を遮るそれらのすべてを一瞥し、『それ』は深く息を吸い――
「オオォオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
強烈な吠え声。
建物数軒がまとめて崩落したことにより生じた莫大な粉塵が、まるで巨大な掌にでも払われるように弾けた。
まるで水路に水を巡らせるように、風に乗って街路を駆け巡っては吹き飛んでゆく粉塵。
煉瓦や陶器の割れ砕ける音。
悲鳴と絶叫が、遠方より何重にも響き渡る。
「クハハ……!」
その叫びに気を良くしたのか――
「■■■■、■■■■――!」
周囲で燃え上がる炎を《ことば》一つで全て束ねて翼とし、『それ』は飛翔した。
瞬きの間に、夕暮れの街の上空へ。
宙に浮かぶ『それ』の姿は、人々の目にも明らかとなる。
――炎の翼を背に、風の爪を携えた、黄金の瞳の魔人。
目撃した、あるいは声や気配を感じた多くが、ただそれだけで恐慌に陥った。
狂乱するか、竦み上がるか、バタバタと不格好に手足を動かし逃げ出すか――あるいは意識を失ってゆく。
混乱は加速する。
何が起こっているのか理解も追いつかず、わめき、泣き叫ぶ人の声。
それら全てを睥睨しながら。
「クハハ、ハハハハハッッ!!」
『それ』は――邪竜ヴァラキアカは、哄笑した。
◆
半ば呆然としていた僕の意識も、この段に至っては事態の深刻さを十二分に認識する。
ヴァラキアカだ。
《喰らい尽くすもの》によって身の内に取り込んだ、邪竜の生命。
それがまだ、僕のどこかで、眠っていたのだ。
そして今になって――僕の生命の危機に、目を覚ました。
――こんなものが、町中で解き放たれて良いはずがない。
焦燥とともに動作を止めようとして……僕は、愕然とした。
止まらない。
足も、腕も、指も、何一つとして思いのままに動かない。
意識と、肉体の間の線が、すっかり断線してしまったかのように。
悪夢の中、ただただ展開するおぞましい光景を眺める時のように。
何も、できない。
何ひとつ。
「ハハハ……」
そんな僕の驚きを、焦りを。
そして足掻きを、あざ笑うように。
「とんだ結末になったものだなァ、《最果ての聖騎士》よ」
ヴァラキアカが、粘つくような声で呟いた。
「もはや貴様の肉の身は、貴様のものに非ず、というわけだ」
それは実に愉しげな声だった。
邪竜としての己を全うすることに、あれほどの意地と執着を見せたヴァラキアカだ。
……このような機会、見逃すことも、手を緩めることもありえない。
「どれ――」
だから邪竜が悪意をもって何かを始めることは予測はできていて。
それでも――
「血が、足りぬなァ……?」
その視線が。
その視線の先が、彼女の方を向いた瞬間、僕の意識は凍りついた。
ルナーリアが。
僕が――僕が、聖域のうちに閉ざしていってしまった、彼女が。
驚愕と、恐怖の表情で、僕を見ていた。
「贄の乙女、とはゆくまいが……なに、血肉であるには変わりあるまい」
ヴァラキアカがつぶやく。
肉体から切り離された、僕の意識へ。
「苦しみ、悶え、ついには途絶えるその声。その熱き血潮と、柔い肉の味わい……久方ぶりよなァ」
愉しげな声。
気づけば彼女は、結界越しにすぐ目の前に居て。
「っ、ウィル……?」
びくりと、怯え竦みながら。
竜の放つ瘴気の向こう、異形と化した僕を見る。
「ウィル、あなた……いえ、違う。ウィルじゃないのね?」
「クク……然り、然り」
恐怖の色も濃く。
けれど気丈に問いかける彼女に、ニタリと笑いかけながら、ヴァラキアカは結界に爪をかける。
莫大なマナの込められた風の爪が、祈りを込めた聖域を、ゆっくりと引き裂いてゆく。
「さて、どうしてくれようか。指からゆくか、腹からゆくか……それとも、足からか」
舌なめずりをするヴァラキアカに対し。
ルナーリアは、目を伏せ、震える体を押さえ込むように、胸の前でぎゅっと両手を重ね――
「……あの人を、どうしたの?」
確かな声で、問いかけた。
「ほう。我が身よりも、あの男の心配か?」
「そうね。私は、どうされたって仕方がないわ」
相応のことをしてきたもの、と彼女は呟いた。
「けれど、あの人は駄目よ。――ウィルは、ここで死んでいい人じゃ、ないもの」
そうして彼女は、ルナーリアは……黄金の瞳を、見据えた。
歴戦の勇姿たちでも怖気を催す竜眼を。
まっすぐに。
「私のことは、どうしてもいいわ。――済んだら、お願いよ。彼を返して」
それは、いかにも哀切を誘うような声音で――けれど嘘の気配のない、真実の言葉だった。
その嘆願を耳にして、
「ク、ククク……クハハハ!!」
ヴァラキアカは、笑いだした。
声高らかに、愉快げに。
「どうしてどうして、面白い! 素晴らしい! 贄の乙女にふさわしいではないか! よかろう――」
ルナーリアの瞳が、一瞬、輝き――
「それを無情に喰ろうてこその、竜よ」
そして、絶望に染まった。
「さぁ」
やめろ。
「聖騎士よ」
やめろ。
やめろ。
「ともに味わおうぞ、なァ――?」」
爪が、彼女に、かかってゆく。
肉体と断線したまま、僕は怒りと絶望と叫びをあげ――
そして、鮮血が噴き上がった。
◆
ぱっくりと切り裂かれた傷から、赤い血が吹き上がる。
ぼたぼたと辺りに撒き散らされる鮮血。
けれど、それは――
「ちッ!?」
それはついに邪竜の圧に耐えきれずに意識を失ったルナーリアのものではなく、ヴァラキアカの乗っ取った、僕の体から零れ落ちる血だ。
ヴァラキアカが乗っ取り、竜鱗なみとはいかないまでも更に固く、強くなったであろう僕の体を切り裂く、妙技の一閃。
ヴァラキアカが、迎え撃ち、風の爪を振り回す。
けれど、それが斬撃の主を捉えることはなかった。
「…………これでも急いで駆けつけたつもり、なんだが」
軽やかな、着地の靴音が響く。
目元を隠す覆面に、鍔広の帽子。
鍛えられた肉体に、動きやすそうな黒の上下に、魔獣の甲殻を使用した部分鎧。
幾つもの《ことば》が編み込まれた様子の魔法のマントは、いったい幾体の立ちふさがる悪魔を切り捨ててきたのか、悪魔が還った塵の残骸や、鉤裂きや焼け焦げで汚れていた。
優雅な曲線を描く、抜き身のサーベルを携えた彼は――
「くそ……すまん」
《空ゆくもの》サミュエル・サンフォードは、僕の様子を見て、痛ましそうに口元を歪めた。
「ほう、風神の使徒か」
逆につり上がったのは、ヴァラキアカの口元だ。
万全とはいえない体調において現れた、突然の強敵にも、竜はまったく愉快げだった。
「――我が爪を阻むとは、覚悟あってのことか?」
「無いね、まったく無い。うちの神さんが大慌てで叫び散らして急げ言うもんだから、必死に走ってきたが――」
肩をすくめ。
「街のど真ん中で、人のナリした竜と出会うなんて、覚悟してるわけがねぇだろう」
そう呟くサミュエルさんの声音に、余裕はない。
足はいつでも跳躍できるように弛められ、探るように構えられたサーベルを握る手には、適度な緊張。
目は僕の全体をぼんやりと見据えるようにして、突進よりも左右への移動を意識した開き気味のスタンスで、重心は前がかり――完全に、絶対的な格上相手の身構えだった。
「や、しかし、ひと目で竜と分かったぜ。その黄金の瞳、その咆哮――いやはや、神話の竜ってのは実にスゲェな、思わず息を呑むっつーか」
「よく回る口だな?」
ヴァラキアカが笑った。
「――時を稼ぐか」
何気ないその一言に、サミュエルさんが硬直した。
「確かに、この騎士の身はこれ満身創痍。時を稼げば血が流れ、意識は遠のき動作は冴えを失う」
牙を剥くような笑み。
口元から、こふ、と硫黄の臭いの混じった瘴気が溢れ出た。
「我を破りし聖騎士には一枚劣ろうが、おぬしも卓抜の戦士。ゆえにこそ、理解しておるのだろうな」
炎の翼をはためかせ、一歩一歩、無造作に間を詰める。
それだけで――サミュエルさんは、三度も背後に跳躍し、大きく距離を取った。
それを臆病だとは、誰も言うまい。
「こんなものを相手に、勝機なぞあるものか、と。……カハハ! それが理解できるだけでも、悪魔どもよりも上等よな!」
ヴァラキアカは嗤いながら、無造作に風の爪を振るう。
その余波だけで、辺りの建物が三、四軒、轟音とともに倒壊する。
「さあ、付き合うのは終わりだ。戦いが始まるぞ? どうする? 何を見せる?」
単純な攻撃に見えるけれど、破壊の範囲も威力もヴァラキアカ本来の爪なみだ、冗談にならない。
必死の形相で回避し、倒壊する壁を避けて後退するサミュエルさん。
「っ、我が神に願い奉る――」
跳躍を繰り返し、退き、次々に繰り出される風の爪をかわし、瓦礫をサーベルで捌きながら。
彼が早口で、何かの言葉を唱え始める。
「奇びなるかなや風神の御手! 幸いなるかなや風神の息吹!」
それは《創造のことば》ではなく、神を称える言祝ぎの言葉。
祝祷術の、その応用のひとつ。
世に己が守護神の威光を顕現させるための、略式の儀式。
「六つ風八つ風七つ風! 綾なし結び、来たりて穿け!」
その声に応じるように、ヴァラキアカが深く息を吸う。
サミュエルさんが、足を止め、サーベルを構え。
「――風神の鋒よ!」
その瞬間、光が溢れた。
凄絶を極める市街の戦場にあって、一瞬、妙なる風の調べが辺りを満たし、薄く輝く美しい、巨大な光の刃が彼のサーベルへと重なる。
祝祷により顕現した神の刃、その切っ先が、ヴァラキアカへと迅雷の速度で突き出され――
「《破壊よ在れ》」
たった一言。
たった一言、ヴァラキアカが口にした《ことば》。
その理不尽なまでに強力な渦動に巻き込まれ、捻じ折られ、あっさりと砕けた。
光の刃が、雪華のように煌めきながら舞い散り、瓦礫の上へ溶けるように消えてゆく。
「奥の手はそれか?」
首を傾げるヴァラキアカ。
「風神の刃であれば、上古に実物と相対したものよ」
神々すらもその威を怖れた、神代の邪竜。
その顕現を前にして――
「……神よ救い給え、としか言いようがねぇなこりゃ」
サミュエルさんが、苦々しげに顔をしかめた。