28
ぱちぱちと、薪の爆ぜるような音がする。
燻る黒煙、家々を舐める火炎。「火事だ」とか「逃げろ」とか「悪魔だ」という叫び声。
――夕暮れの街の一画は、地獄めいた争乱の渦中になりつつあった。
「あ、あ……」
蒼白のルナーリアの顔を、揺らめく炎が照らす。
彼女が原因となったわけではないにしろ、関わった謀がこれだけの事態を招いたのだ。
思うところはあって当然だろうけれど――
「大丈夫」
僕は、つとめて笑って、そう言った。
「え……?」
「なんとかなるよ」
言いながら、抱えた彼女を下ろす。
そっと、傷つけないように。
「…………ウィル?」
ルナーリアの表情が、歪んでゆく。
怪訝そうに、そして何かに気づいたように口元を抑えて――
「ウィル」
「きっとなんとかなるから、大丈夫」
「駄目。……駄目よ」
不思議と、思考は落ち着いていた。
いつかこんな日が来るんだろうなとは、ずっと思っていた。
――こういう誓いを立てた以上、僕を殺すにはこういう手に限る。
僕が思いつくのだ。
僕を殺そうという敵だって、それは思いつくだろう。
だから僕は、多分こういうふうに死ぬのだと、心の何処かで分かっていた。
死ぬつもりで、戦うわけではない。
実際に――遠方、微かに戦いの気配がする。
誰かが悪魔の囲いを破り、こちらに接近してきているのだろう。
けれど、それも遠い。おそらくは間に合わないだろう。
だからここからはもう、生きる目はさほど多くはない。
この場で踏みとどまって戦う以上――相応の確率で、僕は死ぬ。
神さま……
「どうか、ご加護を」
祈りを捧げると、ルナーリアを囲うように淡い輝きの結界が生まれる。
高位の守りの祝祷、《聖域の祈り》だ。
――これで当面、彼女に危険は無い。
「ウィル……!」
けれど彼女の表情に、安堵の色はなかった。
彼女の白い手が、結界を何度も、何度も叩く。
「待ってよ……なんで……っ!?」
涙を浮かべ、
「私のせいなのよ!? 私が悪いの! なのになんで、あなたが、そこまでしなきゃならないのよ……!」
「悪いのは悪魔だよ」
叫ぶようなルナーリアの問いに、僕はつとめて落ち着いた声で言った。
それからゆっくりと、微笑みを浮かべる。
できればそれが、あんまり歪んでいないといいなと思いつつ。
「それに、聖騎士が、悪魔を前に引き下がれるわけが――」
「怖がってるじゃない!」
ああ、誤魔化せないか。
「痛いって、嫌だって、逃げたいって……思ってることくらい、分かるわよ! なのに、どうして……!」
言われて。
僕はふと、懐かしい言葉を思い出した。
――損をすることもあるでしょう。理不尽に責められることもあるでしょう。
――助けた人に裏切られ、行った善行は忘れ去られ、築いたものを失って、多くの敵ばかり残るかもしれません。
あの日の微笑みを。
――それでも、人を愛してください。
――善いことをしてください。
――損を恐れず、壊すより作り、罪には許しを、絶望には希望を、悲しみには喜びを与えてあげて下さい。
――そして、あらゆる暴威から弱い人たちを守ってあげて。
僕は、忘れない。
けして、忘れない。
だから――
「なんとかするよ」
と、僕は笑った。
多分まだ、表情はだいぶ歪んでいたのだろう。
そんな僕の顔を見て、何を思ったのか。
結界の隔て越し。ルナーリアが、壁にすがるように、力なく膝をつくのが、振り返る視界の端に見えた。
ちくりと、胸が痛む。
けれど、もう、戦う他はないのだ。
「――……」
最大の弱点であるクリプトナイト鉱石を相手取るスーパーマン。
幾重もの呪いや策略により衰弱しながらも、最後の戦いに挑むカルナやクー・フリン。
ああいう物語のヒーローというのは、本当に凄いことをしていたのだな、と思う。
――備えていたはずの力を、十全に発揮できない戦いに臨むのは、こんなにも怖いことなのだ。
触手を蠢かせる《隊長級》タルピダと、それが率いる幾体もの悪魔たちに向かい合い――そして、身構える。
悪魔たちは口々に、ノイズめいた叫びや唸りとともに、武器を構えつつ後退、散開を始めた。
恐らくまともに打ち合わず、散りながら火を巻き、遠巻きに僕を嬲る狙いだろう。
分は、たぶん相当に悪い。
3:7か、2:8か……多分、そんなところだ。
ヴァラキアカとの戦いほど絶望的な分の悪さではないけれど、逆にそれが現実的な恐怖と危機感を煽る。
竜のように圧倒的な絶望へ、すべての力を投じて正面から挑みかかるのではない。
悪意と苦痛を煮詰めた釜へと、手足を縛られながら、じりじりと引きずり込まれてしまうような。
そんな感覚のなか。
「――流転の女神の、灯火にかけて!」
僕は再び、戦いへと身を投じた。
◆
……粘つくタールの沼でもがくような、悪夢めいた戦いだった。
状況は、刻一刻と悪くなっていく。
屋根の上を駆け、壁を蹴飛ばして路地に飛び降り、
「■■■――!!」
「ひぃ……っ!」
市民を襲う悪魔を蹴り倒し、
「逃げてっ! 風上へ!」
避難を呼びかける間にも、
「《火炎の矢》ッ!」
あちこちの屋根で、悪魔たちが火矢の呪文を唱え、あたりに火矢をばらまく。
「《氷結の矢》!」
とっさの応手で、幾条も放たれるそれに、追尾の《しるし》を加えた氷結の矢をぶつけて相殺。
夕暮れの中空で、燃え盛る赤と澄んだ青の軌跡が衝突し、弾けた。
けれど《ことば》を唱え、《しるし》を描けば、どうしてもそこで動作が停滞する。
そしてその瞬間を狙って、
「シャアァッ!!」
白刃をきらめかせ、あるいは鉤爪を構え、屋根や路地の影から襲いかかる複数の《兵士級》悪魔。
躱しきれず、捌ききれない。
竜の因子の頑強さに任せて、いくらかを強引に腕や胴で受ける。
「ぐ……」
食い込む刃に呻きつつ、捌き、剣を奪い、切り返す。
けれどその間にも、また。
「ギヒヒ……! 《火炎の矢》ッ!」
めらめらと火が燃え広がり、街に燃え広がった火勢が拡大してゆく。
飛び火が始まれば、もう手に負えない。
悪魔たちを捌く。
焦りながら屋根に駆け上がる。
両手を広げ――
「《火は風に養われ》、《風によって消える》……ッ!!」
喉も枯れよと、《火伏せのことば》を叫ぶ。
轟々と風が渦を巻き、周囲に燃え上がろうとしていた火炎が火勢を減じる。
けれど、
「っ……!」
この《ことば》を唱える代償として、僕の脇腹に弩の矢が深々と突き立った。
最初、痛みはなかった。衝撃と、奇妙な異物感。
そして、腹部から生えるようにして突き立つその矢柄を見た瞬間――
「う゛、ぐッ!!」
灼けるような、強烈な痛みが来た。
奥歯を噛み締め、必死に堪える。
涙が滲む。
だって――
「う゛、ううう……ッ!」
まだ、走らなければならない。
お腹から弩の矢が生えていようが、呪いが体を蝕もうが。
悪魔たちの注意をひきつけ、戦わなければならない。
剣を振る。
悪魔の腕を、足を、切り飛ばす。
奇跡を盾に、魔法を矛に。
街路を駆け回り、跳び回り、悪魔たちと戦い続ける。
ズキズキと、腕や腹に太い釘を叩き込まれて掻き回されるような激痛。
刺さった弩の矢から、失血が続く。
――もう十分やっただろう。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
――もう膝を折ってもいいはずだ。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
――ほら、もう走れないだろう?
そんな言葉が幾度も脳裏をよぎるのを、「走れる」と頭のなかで繰り返し自分に言い聞かせ、無理矢理にねじふせる。
跳躍。散った悪魔を追う。
《隊長級》タルピダが、屋根の一つに立ち、鉤爪を構えている。
――あれを仕留めれば。
「っ、あ゛あああああああああッッ!!」
全身の余力を絞り上げるようにして、矢のように突進。
悪魔から奪った剣で、タルピダに斬りかかろうとした、その瞬間。
どッ、と太腿に衝撃が走った。
覚えのある感覚だった。
……弩の矢。
誘い込み、視野が狭くなった瞬間、横合いからの一撃。
完璧にやられた。
足が言うことを効かず、姿勢を崩す。
屋根を滑り落ち、真っ逆さまに転落し――衝撃。
かろうじて受け身は取ったものの、全身に衝撃。
更に脇腹に刺さった弩の矢の端が石畳に当たり、体内で鏃が捻じれる。
体内を、内蔵をかき回す矢の異様な感覚。
「――――…………ッッッ!!」
もう悲鳴も出なかった。
石畳の上で悶え苦しむ。
傾いた視界の中、人々を襲う悪魔の姿が見えるけれど……もう、体が動いてくれない。
口の端から血泡をこぼしつつ、それでも、立ち上がろうとするけれど。
落ちた僕を追って、周囲に着地したタルピダを始めとする悪魔たちが、武器を振り上げる。
四方から振り下ろされる、竜殺しの呪いの篭った鋼の刃。
「…………ぁ」
駄目だ、詰んだな、と。
頭の中の冷静な部分が、そう呟いた。
……奇襲され包囲され、立てた誓いを利用されて、実力を発揮することなく袋叩きにされて、殺される。
ふと、不死神が知ったら悲憤しそうな状況だな、と思った。
彼女は案じてくれていたのに、悪いことをしてしまった。
でも、それでも。
同じ状況になったら、何度でも僕はこうするだろう。
あの優しい神さまに、誓ったとおりに。
走馬灯めいてよぎる、そんなとりとめもない思考。
その間にも、自らの流す血だまりの中、鍛え抜かれた体は足掻く。
たとえもう、生存の目が残っていなくても。
数秒後には殺されるのだとしても。
それでも、振り下ろされる刃をかわし、あるいは捌き、生きる目を探そうとして――けれど、振り下ろされる刃をどうにかする余力なんて、僕には一欠片もなく。
悪魔たちが呪詛めいた叫びとともに、僕に向けて刃を叩きつけ――
そして――どくん、と心臓が強く脈を打った。
気づけば、僕の意識はどこか、闇の中にいて。
そして爬虫類めいた黄金の隻眼が……ゆっくりと、目を見開くのが、確かに見えた。
◆
刃が煮え立つ。
比喩ではない。
倒れた僕の体に向けて振り下ろされ、その身を切り刻むはずだった呪いの刃が、沸騰し、見るも無残に溶け落ちていた。
まるで――まるで、溶岩か何かにでも、突っ込んだように。
「ナ――!?」
「――ギィイイイッ!?」
混乱し、叫ぶ悪魔たちを、僕の意識はどこか遠くから眺めていた。
――僕の体が、僕を無視して動く。
動けないはずの傷であるにもかかわらず、発条仕掛けのからくりのような動作で、恐ろしく俊敏に跳ね起きる。
体が瘴気をまとい、瞳が怪しい輝きを帯びた。
「■■■■■――ッ!!」
涸れた喉が、知らない《ことば》を叫ぶ。
腕を一振りすると、間合いの外にもかかわらず、周囲の悪魔の頭があっさりと弾けた。
マナが凝り、凝集した風の爪が悪魔たちの頭部を薙ぎ飛ばしたのだ。
「キ、サマ――!?」
かろうじて回避したタルピダが叫ぶ間にも、変貌は進む。
「■■、■■■■」
また、幾つかの知らない《ことば》。
それだけで、あれほど厄介だった弩の矢の呪いが、引き毟るように剥ぎ取られる。
しゅぅぅぅ、と口の端から漏れる呼気は灼けるような熱気を孕み、濃い硫黄と、瘴毒の臭いがした。
「マサカ……マサカ! 貴様――」
悪魔が呻く。
僕の顔を歪め、僕の声で、何かが愉快げに笑う。
「クク……クハハ……」
どこか覚えがある、その声。
その存在の、名は――
「ヴァラ――……」
タルピダがその名を叫ぼうとした瞬間。
「■■■……」
その右腕が一瞬で赤熱し、弾けた。
あまりにも、あっさりと。
「ガァアアアアアアアッッ!!?」
炭化した腕をおさえ、苦悶のうちに後方へ跳ぼうとするタルピダ。
しかし、僕の中で荒ぶる『それ』は、そんな月並みの逃走を許さない。
息を吸う。
肺に呼気を貯める、いずこかから湧き上がる瘴熱が体の内で渦を巻く。
「オオオオオオオオオオオオオ――――ッッ!!」
次の瞬間、巻き起こったのは、咆哮というのも生易しい何かだった。
僕の肉体を中心に、石畳が捲れ上がる。
周囲の建物が巨人の拳を受けたかのように大きく揺れ、ぼろぼろと漆喰が剥がれ落ち、鎧戸が外れて落ちる。
「ガ、ヒ……」
真正面から咆哮を受けたタルピダが、必死に逃げようとする姿のまま硬直し――
「ふん……」
歩み寄った僕の肉体が、その胸を貫き、五指で心臓を掴み取ると、あっさりと塵に還った。
遠く、人々の恐慌の絶叫が聞こえる。
この叫びを、僕は知っていた。
それは本能に根ざした恐怖。
それは生きとし生けるものを狂奔させる、絶対者の咆哮。
――《竜の吠え声》。
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。
色々と文章や展開に悩み、更新だいぶ遅れてしまいまして申し訳ありません。
ゆっくりとでも、確実に進めてゆきたいと思います。
また宣伝を一つ。
書籍版の『最果てのパラディン』三巻、鉄錆の山の王が上下巻で発売中です。
どうかよろしくお願いいたします。