27
気づけば日も傾いて、空は赤く染まりはじめていた。
夕日を反射するオレンジ色の煉瓦屋根の無数の連なりが、まるで海原のようだ。
そしてその橙の海原の向こう、突き出す巨岩のように、遠く白亜の城が見える。
風の中、外界の血なまぐさい騒動など知らぬとばかりに漂う雲に、僅かに羨望めいた感情を抱きつつ空中で姿勢を制御。
屋根瓦になんとか着地するけれど、
「~~っ、ぅ!」
ずきん、と激痛。
衝撃が、弩の矢を二本も撃ち込まれた右腕に響く。
「ウィル……」
傷を確認し、泣きそうな顔になるルナーリアに、
「平気、大丈夫。――これでも僕、歴戦だよ?」
などと強がってみるけれど、こういう負傷は、本当にいつまでも慣れないし、痛いものは痛い。
純粋に痛みもきついし、自分の腕から金属の棒が生えている、という絵面はなかなか精神的にもくるものがある。
正直、僕も泣きそうだ。
けれど泣いていても仕方がないので、状況確認に移る。
「怪我はない?」
「ええ。大丈夫よ――ものすごくびっくりはしたけれど」
こわばった表情で、けれど微笑んで見せるルナーリア。
かなり刺激の強い状況で、これだけ言えるなら大したものだ。
「もう少し我慢して」
「そんな怪我をしながらよく言えるわね……」
「歴戦ですから」
つとめて明るい声音を作り、会話をしながらも、手早く自分の負傷を確認する。
弩の矢は二本が、右腕の肩と前腕に着弾している。
現状すごく痛いし、動かしたり掌の開閉を試みると、耐え難い激痛が襲ってくる――ほぼ使用不能と見るべきだろう。
できれば祝祷で治癒したいけれど、しかしこの場で力任せにこの弩の矢を引き抜くのは、悪手と言わざるをえない。
鏃の返しもエグいのがついてる様子だから、引き抜くとなれば相当の激痛を覚悟しないといけないだろうし、下手をすると体内で鏃だけが外れてしまう。
加えて、複数の凶悪な呪いを打ち込まれた以上、抜いても祝祷で即座に完全回復とはいかない。
強引に切開するなりいっそ貫通させるなりすれば、抜けないこともないだろうけれど、それで大量に出血しながら大立ち回りをするよりは、刺さったまま動いて戦闘後に治したほうがいい。
ただ、鏃に塗り込まれていた猛毒に関してだけ、深く祈って解毒はする。
……けれど幾分、抵抗された感触がある。完全には消し飛ばせていないのだろう、若干のしびれも感じる。
コンマ数秒以下の反応を問われる状況下で、体が思い通りに動かないのは厳しいけれど、幸い竜の因子を帯びたこの体の耐毒性はかなりのものだ。
もう少しは、このまま無茶も通るだろう。
――つまり結論、まだいける!
僕の脳裏にあの神殿の丘が蘇り、ブラッドが叫ぶ。
好調なとき、万全のときの戦士が強いのは当たり前のことだ、と。
実戦では、「好調」や「万全」なんてものは刃や拳をやりとりするたび、恐ろしい勢いで遠ざかっていく。
付き合うべきは「不調」であり「不全」であり、そしてそれに伴う弱気だ。
疲弊を重ね、傷を負い、怯みや竦みの精霊が心を侵してくる中でこそ奮い立つのが真の戦士だと、僕はもうちゃんと分かっている。
「っ、ウィル……!」
翼のはためく音がする。
有翼の悪魔たちが、周囲の建物の合間から飛び上がってきたかと思うと、辺りを見回し、僕たちを捕捉する。
奇怪な形をした悪魔の口元――ニタリと、三日月のように歪んだ。
逃さぬ、とでも言うような。
喜悦と、嗜虐に歪んだ笑い。
「……っ」
怖気を感じるその表情に、ルナーリアが無言で僕に身を寄せる。
回された腕が、ぎゅっと僕を締め付けた。
「…………」
ああ、悪魔たちは今、僕を追い込んだと思っているだろう。
勝てると思っているのだろう。
僕が苦し紛れに、無様に逃げ出したと、そう思っているのだろう。
「……舐めないでもらおうかな?」
牙を剥く。
僕が無策で上に逃れたとでも、思うのか。
思うのだとしたら、それがお前たちの敗因だ。
悪魔たちが剣を、弩を構え――
「――《雷条の》、《蜘蛛網》ッッ!!」
その瞬間、破れ鐘を思い切り鳴らしたような、あるいは大砲のような大音が響き渡った。
マナを束ねて《ことば》は変じ、空間を雷光が幾重にも枝分かれし駆け巡る。
鼻腔を刺激する、大気の焦げるような匂い。
「ギィィィィッ!?」
悪魔たちの甲高い悲鳴。
放射状に広がる雷光の網は、有翼の悪魔たちを捕らえ、焼き、撃ち落とした。
◆
屋根の上まで逃れれば、射角の関係で弩持ちも多くは僕たちを狙えない。
有翼の個体は追いかけてくるだろうけれど、飛行能力を有する個体はそもそも数が少ないし、遮蔽になるような物体がほぼ存在しない空中だ。
出た時点で、範囲の広い魔法の餌食にできる。
更に《雷のことば》による強烈な雷音と、天に駆け上がる雷光によって、ここで強力な魔法を発動するほどの、大きな戦闘が行われているとすぐに伝わるはずだ。
神官戦士や騎士、衛視も、十分に装備を整えて参集してくるだろう。
あとは――
「時間を稼ぐ、だけっ!」
耳に、轟々と風の音。
屋根の上を駆ける。
通りの上、断崖絶壁めいた数メートルをルナーリアを抱えて思い切り跳躍。
着地と同時に、
「《結びつき》、《追尾せよ》……」
追尾のちからを持つ《ことば》を唱え、
「《氷結の矢》!」
背後に氷の矢を撃ち放つ。
放たれた矢はきらきらと雪華の尾を引きながら弧を描き、屋根によじのぼり、僕たちを追いかけようとした落とし仔の一体に直撃した。
炸裂音。矢の形を取った氷の結晶が弾け、場違いに澄んだ音とともに散る。
その一撃にもんどりうって、悪魔は後続を巻き込んで屋根の端から転げ落ちた。
僕はそれをちらりと確認しつつ、屋根の上を駆ける。
必要なのは時間だ。
ある程度、屋根の上を逃げ回れば、すぐに増援が見込める。
けれど、悪魔たちも必死だ。
有翼の個体はほとんど先程の《雷のことば》にやられたようだけれど、それでも次々と屋根に這い登り、近隣の屋根を並走して追いかけてくる。
「シャァッ!」
一体が隣の屋根から剣を振り上げ飛び込んできたのを、
「せッ!」
足先をコンパクトにしならせて、柄を握る指を蹴り潰す。
激痛に顔を歪める悪魔、その潰れた手からすっぽぬけ、宙を飛ぶ剣。
その一瞬で更に軸足を捻り、同じ蹴り足で追い打ちの横蹴り。
悪魔はそのまま屋根から転落し、通りに落下。
ぐしゃりと肉が潰れる音がした。
下方から、通行者の悲鳴があがる。
「逃げて! 悪魔です!」
呼びかけながら、僕は思い切り踏み切って、少し背の高い建物の屋根に飛び移る。
そのまま屋根の頂部――棟を飛び越え、向かいの平部へ。
そこでしゃがみ、
「ギッ!?」
追いかけてきた悪魔数体を待ち伏せて、体当たりを食らわせた。
また数体が転げ落ち、かなり強烈な落下音。
再び走り出すと、今度は行く手に立ちふさがるように悪魔が三体。
いびつに膨れ上がった筋肉質のそれらは、重厚な円盾と、短めの袖搦のような棘だらけの棍棒を手にしている。
「…………」
円盾で受けた上で、僕かルナーリアの衣服にあの棘をひっかけて巻き込み、足止めをするつもりなのだろう。
片手に傷を負い、もう片手にルナーリアを抱えた状態では、あれは捌ききれない。少し危ない。
僕は一瞬、考えを巡らせ――
「ごめん投げる」
と抱えるルナーリアに謝った。
「え? なげ――?」
そして僕は彼女を投げた。
竜の剛力を込めて、思い切り、空高く。
――絹を裂くような悲鳴が響いた。
そのまま円盾と袖搦の悪魔三体に向けてに突進する。
悪魔たちは僕の行動にギョッとしたようだけれど、それでも屋根上で深く腰を落とし、一体を先頭に二者がそれを支えるように円盾を構える。
僕の一撃を盾で受けるか反らし、返しの一撃で袖搦を叩き込む狙いだろう。
円盾の構えはなかなか堂に入ったものだ。
手先足先、あるいは頭、どこを狙おうとあの円盾でカバーしてくるだろう。
それに対して僕は、疾走のまま脇に掌底を構え――
構えた盾に、真っ向から一撃をぶちこんだ。
轟音。
まさか三人がかりで最も固く守っている箇所を、わざわざ狙ってくるとは思わなかったのだろう。
目を剥いた悪魔たちは、たたらを踏んで後退――したところを、
「やああああああああッ!!」
僕は更に力任せに押し込む。
悪魔たちは抵抗するけれど、ずるずると後退し――そのまま、屋根から足を踏み外した。
数枚外れた瓦とともに、落下してゆく悪魔たち。
地面は武器だ、と言ったのは誰だっけか。
高所での戦闘というのは、高さそれそのものが相手を仕留めてくれる。
別に相手の守りを抜けなくても、鍛えた筋肉で突き飛ばしてしまえばいい。
だから必要なのは、重厚さよりも身軽さと平衡感覚だ。
地上戦の感覚でどっしり構えたのは大悪手だったな――と思いつつ、
「きゃああああああああああああああ――――!」
跳躍。
悲鳴とともに落下してきたルナーリアを空中で受け止めて、落下の慣性を散らすために振り回すようにしてから抱き止める。
着地し、追走してくる、残りもだいぶ少なくなった悪魔たちを確認しつつ、疾走を再開。
微妙に色の違う屋根瓦をいくつも踏みしめ、跳躍。
身を捻りつつ、斜め下、違う通りの少し低い建物の屋根へ飛び移る。
ルナーリアはと見れば、
「ぁ……ひ、あ……」
未だに、涙目で口をぱくぱくと開閉させていた。
「……ごめん。怖がらせちゃったよね」
心から申し訳ないと思いつつ一言。
とっさのこととは言え、彼女がああも絶叫し、これだけ放心するというのは相当だ。
そう思ったのだけれど――
「っ、~~~っ!」
ルナーリアは思わず口元を抑え、真っ赤になって、
「ば、馬鹿! この馬鹿! 信じられない!」
思い切り僕の脇腹をつねってきた。
痛い。
◆
風が巻く。
疾走し、跳躍し、時に魔法を放ち、時に近づいてくる悪魔を蹴り飛ばし。
僕はルナーリアを抱えたまま、屋根の上での逃走劇を続ける。
――竜の因子のために拡張された感覚に、訴えかけるものがある。
恐らくそろそろ、援軍も到着するだろう。
そうすれば悪魔たちも一掃されて、この件は終わりだ。
そう、思った時だ。
「――……!」
向かう先の屋根。
あの《隊長級》タルピダが、幾体かの悪魔を率い、僕たちの前に立ち塞がった。
指揮官自らの足止め。
いよいよ追い込まれたか――? と、一瞬考えた瞬間だ。
奇妙に小さな顔に触手を蠢かせたタルピダが、手を挙げ――
「「「《火炎の矢》ッ!」」」
悪魔たちが、火の矢の魔法を放つ。
けれど、その程度の掃射なら問題はない。
《聖なる盾》の祝祷で、守りを固め――
「…………え?」
その刹那、僕は目を見開いた。
火の矢の狙いは、僕たちではなかった。
顕現した盾の奇跡を避けるように弧を描いた火炎の魔法は、次々に、周囲の建物に着弾。
密集した高層家屋の上部は、荷重の問題で木造のものも多い。
加えてあらかじめ油でも撒いてあったのか、それとも延焼用の《ことば》でも事前に詠唱してあったのか、かなりの勢いで燃え広がりはじめる。
通りの下から、悲鳴や、叫び声が聞こえた。
「な……正気なの!?」
ルナーリアが叫んだのも無理はない。
この密集した大都市で、放火。
それが何をもたらすかは、明白だ。
しかし悪魔たちを率いるタルピダは、周囲の叫喚など知らぬげに、ぎちぎちと牙を蠢かせ――
「貴様ガ逃ゲレバ、火ヲ広ゲ、民ヲ殺ス」
ノイズめいた声で、そう告げた。
「サア、聖騎士ヨ。――誓イヲ守ルカ?」
まるで人間とは、似ても似つかぬイソギンチャクのような顔。
けれど僕はそこに、確かに奸策を成し遂げた者特有の、どす黒い達成感を見て取った。
「…………」
――やられた、と思った。
悪魔たちの策は、おそらくここまで込みだったのだ。
招き寄せ、待ち伏せ、包囲する。その包囲で殺せればよし、殺せずとも徹底して負傷をさせ、力を削ぐ。
そして傷を負いつつ逃げた場合、人家のある通りまで逃げ込んだ辺りで、火を使い――
無辜の市民を、盛大に巻き込む。
なにせ相手は聖騎士だ。
嘆くものを見捨てない誓いを立てている。
この状況で、そうと分かっていながら市民を見捨てれば、神々への強い誓いを破った僕への加護は、大いに減じるだろう。
しかし見捨てず、足を止めて悪魔たちと戦うということは――
片腕をやられ、いくらか毒も回り、武装もなく、ルナーリアを抱えた状態で。
火を消し止め、市民を守りながら、僕を殺す準備を十分に整えた悪魔たちと戦う、ということだ。
――本格的に詰んだかもしれないな、と、僕の頭の片隅、ひどく冷静な部分が、そう呟いた。




