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朧な前世の記憶のことだ。
ホシバナモグラという動物の写真を見たとき、僕は「うぇ」と呻いた記憶がある。
その可愛らしい名前のモグラを正面から捉えた写真は、しかしずいぶんとグロテスクな印象を僕に与えたのだ。
そのモグラはモグラらしく大きな鉤爪をもっていて、鼻先が星型――というよりはイソギンチャクのような形をしていて。
いわゆるシミュラクラ現象というやつだろう。
肉肉しいピンク色の突起がびっしりと生えたその鼻の鼻腔は、錯視によって、不気味に凹んだ眼窩を持つ怪物の顔面に見えた。
巨大な体に巨大な鉤爪、不釣り合いに小さな顔、ピンク色の触手がうごめく顔、ぽかりと空いた眼窩。
恐ろしくグロテスクなそのモンスターは、けれど見る角度を変えれば、ただちょっと変わった鼻をしたモグラだった。
――前世では。
「…………」
今生で出会ったそいつは、違う。
周囲に幾体もの落とし仔を率い、正面路地にゆらりと現れたそれは、あのホシバナモグラの写真を思い出すような何かだった。
びっしりと体を覆う獣毛、腕には大振りの鉤爪。
奇妙に小さな顔面に、いくつもの肉色の触手を蠢かせた、人型の悪魔。
脳裏、何度も読み返した悪魔関連の書物からその名を引っ張り出す。
たしかあの形状は、《隊長級》、タルピダ。
身軽で、接近戦に秀でるとされるその悪魔は、落とし仔たちとともに、ゆらゆらと不気味に身構えながらにじり寄ってくる。
「っ……」
ルナーリアがそのグロテスクな姿に息を呑み、たじろいだ瞬間。
ぞくりと、僕のうなじに悪寒が走った。
ただ危機感に突き動かされつつ短剣を抜き身を翻し、タルピダに背を向けながら振り上げる。
ギンッ! と、激しい金属音が響き、柄を握る手に異様な手応え。
次の瞬間、石畳の上に落下し跳ねたのは、あっさりとへし折れた短剣の刃と、先端が禍々しい形状の……弩の矢!
「!」
即座に襲来する二射目、三射目を見越し、加護を祈る。
《聖なる盾》の祝祷。
空間に輝くラインが走り、幾重にも半透明の盾が形成され、弩の矢を弾き返す。
矢柄に複数の《呪いのことば》が刻まれていたのか、放たれた呪詛が紫暗の霧になって盾を侵そうとするけれど、出力差で耐えきる。
かなりの密度の《しるし》だ。
……手先足先にかすめただけでも、麻痺や衰弱、意識の混乱といった諸症状が襲い掛かってくるであろう構成。
複数あった狙撃の、射手の位置が掴みきれない。
窓や屋根からの狙撃――だけではない。
おそらく壁などにも《惑わしのことば》で外からは目立たぬようにした、銃眼、矢狭間的な穴があるのだろう。
僕でもそれくらいは思いつくのだ、悪魔が考えないはずがない。
いくつもの、突き刺さるような敵意。
周辺の建物の中に、幾体も幾体も、そんな飛び道具を構えた悪魔が、気配を殺すのをやめ、殺意を剥き出しにしていた。
状況を把握する。
背筋に冷たい怖気が走る。
……これは、死ぬかもしれない。
弱気ではなく、ごく冷静な分析の結果として、そんな言葉が浮かんだ。
◆
今、何より厄介なのは、大した装備もないまま町中で戦闘になったことではない。
間違いなく、この涸れた小さな噴水広場が、悪魔たちが念入りに構築した殺傷領域だということだ。
普段使いの品とはいえ、たった一発で短剣をへし折られたということは、相手の射手たちは専門の巻き上げ機などが必要な引き分け重量の弩を用意してきている。
たいした音も立てずに発射できる割に、板金鎧だろうと巨獣だろうと、問答無用で貫通するような凶悪な代物だ。
連射性能が低いという欠点はあるけれど、そこは数で補えばいい。
矢柄には濃密な呪詛が仕込まれている以上、間違いなく鏃に毒も塗ってあるだろうから、僕を殺傷するに足るだろう。
……この世界に、無敵の者なんていない。
悪魔たちの《上王》は英雄たちに封じられ、邪竜ヴァラキアカもまた討たれた。
――相手が名だたる霊剣、魔剣を持っている?
人らしい生活を営んでいるなら、剣を帯びていない瞬間などいくらもある。
――竜の血を浴び、頑強で怪力でよく鍛えている?
頑強な力自慢など、歯車仕掛けで高めた弩の貫通力で四方からハリネズミにしてしまえばいい。
――相手が神に愛され、奇跡を授けられている?
祈りによって傷を癒し毒を和らげるならば、その祈りすら困難になるほど呪いを、毒を打ち込めばいい。
つまりは、そういうことだ。
彼らは僕の能力を理解して、そのうえで殺しに来ている。
生あることは、即ち死あること。
皮肉にも神さまの教えの通り――生きている相手ならば、殺せるのだ。
基礎能力に違いがあったって。
きちんと戦略を練って。
人員を用意し。
道具を揃え。
主導権を握れば、殺せる。
僕だって、その例外ではない。
油断したとは思わないけれど、想定以上に悪魔たちの手が長かった。
人の領域、都会のど真ん中に、ここまで多くの悪魔たちが入り込み、周到に準備を凝らして襲撃を行ってくるとは。
これまで大筋、僕は戦いにおいては主導権を握る側だったけれど、ついにそれが逆転した形だ。
――今、僕は狩られる側、引きずり落とされる側にいる。
どう切り抜ける?
準備時間は相手にあった。
生半可な応手は、相手も想定している可能性が高い。
どうすれば相手の想定を上回れる?
こういう場合の定石は、なりふり構わず全力で離脱して仕切り直すことだ。
相手の殺傷領域のど真ん中で踏みとどまれば、絶対的に不利。
けれど、今は傍らにルナーリアがいる。
彼女を庇いながら、何が仕込まれているかも分からない路地を離脱しきれるか――?
思考の火花が弾け、ほんの刹那にそんな考えが脳裏をよぎる。
その時だ。
「…………あーあ、失敗しちゃった」
傍らから、淡々とした声が聞こえた。
彼女は、なんでもないことのように、苦笑をしていた。
その滑らかな頬に指先を当て、小首をかしげて。
「やっぱり悪魔って野蛮ね。人を利用するだけ利用して、そのまま巻き添えも躊躇わないだなんて」
ばちり、とまた《聖なる盾》に弩の矢が直撃。
盾の耐久が徐々に削られていく気配がする。
祈りを深める。盾を重ね、ルナーリアを庇う位置を取る。
「ま、私が言えることでもない、か。貰うものは貰ったしね。――ほら、何しているの?」
「何って?」
盾を削る攻撃を強めつつ、包囲を狭めてくる悪魔たちを見据えながら、僕は静かに問い返した。
「さっさと行って、ってことよ。あいつらが狙ってるのはあなたで、私じゃないんだから」
冷たい、なじるような語調。
「流れ矢が当たっちゃったらどうするのよ。お人よしの聖騎士さまなら、さっさと私を守るために行動を起こすべきじゃない?」
潜められた眉。
蔑むような目。
虚言の気配はなかった。
なかった、けれど――
「…………」
彼女は、かすかに震えていた。
それだけで十分だった。
「大丈夫、安心して」
「はぁ、何言ってるの? 私は――」
この状況で僕の表情を見て、だいたいの有利不利を察して。
明確な虚言にならない範囲で、突き放すような言葉を捻り出す。
戦う力はなくて。
この状況を覆す何かを持っているわけではなくて。
僕を狙うついでで、状況次第であっさりと死んでしまうかもしれないのに……それなのに、そういうことをしてくれる彼女に対して、温かい感情が込み上げる。
気遣いを蹴ってしまって、ごめん。
でも大丈夫。
「――君は、僕が守るよ」
そう言い切ると、彼女は口を噤んだ。
それから口の中で、何かもごもごと言葉を捻ろうとして、やめて。
「……ねぇ」
「うん」
「…………そういうの、私、本気にしちゃうわよ?」
「構わないよ」
上目遣いに問われた言葉に、即答する。
もとより、この疑い深くて本音を隠すのが上手なひとに、嘘などつく気はない。
「……馬鹿ね」
彼女は目尻を下げて、呟いた。
「私はね、あなたを嵌めようとしたのよ?」
「知ってる」
「あなたのこと売ってたのよ?」
「それも知ってる」
「敵って言っていいんじゃない?」
「そうは思わないよ」
「報酬がもらえるなら、誰にだって尻尾を振る女を?」
「何度でも言うけど、そうやって自分を卑しむのはやめよう」
「……もう。本当に、もう」
放たれる弩の矢の矢が。
幾つもの《ことば》が、呪詛が。
《聖なる盾》を削り取る中――潤んだ瞳で、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「まるで、口説き文句みたい。――いけない人ね」
やわらかな声で、慈しむように。
いつものように、からかいの文句を投げられるのは、なんだか悪い気分ではなかった。
「本気にさせて裏切ったりしたら、私、怖いわよ?」
「はは。じゃ、怖い目に合わないように頑張らないとね」
油断ならない鉄火場の中。
――けれど、なんだか彼女と、初めて心が通じた気がした。
「…………」
敵は悪魔が幾十体。
守るべき女性を傍らに、まごうことなき危機、窮地。
――ブラッドならば、きっとニヤリと笑うだろう。
これこそ男の戦場。
これぞまさに戦士の本懐だ、相手にとって不足はねぇ、と。
だから、僕もそうした。
ルナーリアの腰に手を回して、抱き寄せて――迫ってくる悪魔たちに対して、不慣れのせいで少し不格好に、でも牙を剥くように笑いかける。
――さぁ、殺したいんだろ? 来なよ。
その笑みに誘われるように、祝祷の結界が破れる。
硝子の砕けるような音とともに、きらきらと輝く粒子が散り――おぞましい悪魔たちが、突っ込んでくる。
長らく更新が途絶してしまい、まことに申し訳ありませんでした。
本業の繁忙および、書籍化作業が完了いたしました。更新を再開させて頂きます。
(※書籍版『最果てのパラディン』三巻は、12月25日発売となります。そちらの詳細は活動報告をご参照下さい)
このように長い更新途絶のなか、待ってくださった読者の皆さまに、心よりの感謝を。
本当にありがとうございます。
どうかまた、ウィルの冒険におつきあい頂ければ幸いです。




