18
「なんですか! なんですか神殿のアレっ!」
叫びはかなり切迫したものだった。
こんなに動揺したのはいつぶりだろう。
「アレって……おいっ、まさかお前、真正面から遭遇――」
「してません、気づかれてませんっ!」
夜中に突然に訪問してきた僕に対して、居間でメイドさんと何やら話し込んでいたサミュエルさんは血相を変えた。
この人は風神の使徒で、悪神の眷属と戦っていた。
……知っていたはずなのだ、ヴォールト神殿に何が潜んでいるのかを。
「なんで神殿に、あんなものがっ!」
「待て、待てっ! 声がでかい!」
問い詰めようとする僕の肩をがしりと掴んで制止するサミュエルさん。
そこでやっと気づいた。
室内にまだ青髪のメイドさんがいる。
「あ……」
「いや、アイツは俺の活動を知っている。大丈夫だ」
だが、どこにどういう目と耳があるか分からんご時世だ、とサミュエルさんが言い、メイドさんに頷きかけた。
メイドさんが頷きを返すと、何か《しるし》の刻まれたプレートにマナを注ぎ、部屋の四方に配置していく。
ちらと見えた限りだと、結界系統の《しるし》だ。おそらくは防諜用途の。
……どうも随分、優秀というか、らしからぬ技能をお持ちのメイドさんらしい。
金髪の神官戦士の幼なじみ。助手役の青髪のメイドさん。
そして裏の顔は風の神の使徒、都の夜を駆ける義賊《空行くもの》か――なんというか、凄いな。
これが現実ではなく娯楽小説か何かだったら、主役になるのはきっと、彼のような人なのだろう。
「――お茶をお持ちします」
ぺこりと頭を下げて、メイドさんが退出していった。
扉が締まる音とともに、僕とサミュエルさんの肩から少しだけ力が抜けた。
示し合わせたように、長い吐息。
「なんつーか、見事な慌てぶりだったな……」
「そりゃ慌てますよ。管区長の心臓が脈打ってないんですから」
「鼓動の有無が分かるのか?」
「ええ」
サミュエルさんが苦笑した。
「正体も察しは?」
「奈落の悪魔でしょう」
彼らの体は仮初のもの、異界のそれの写しにすぎない。
一応多くの個体は心臓含めてそれらしい臓器はあり、急所も似通っているけれど、機能や動作まで完全に同一ではない。
「不死者だって可能性は考えないのか?」
「ありえません」
即答すると、目の前の風神の使徒たる義賊さんは怪訝そうに首をかしげた。
「断言したな」
「個別の不死者の怨念どうこうならともかく、神々が関わるレベルの案件で、スタグネイトがこんな手は打たないでしょう」
なんというか、彼女とは色々とあるけれど、そこは疑っていない。
それに邪竜討伐の一件で、スタグネイトも相当に力を使ったはずだし、しばらくはおとなしくしているはずだ。
「やけに親しげだな」
「親しくはないですが……何度かやりあって、共闘もしたので」
今さら彼女の手口を見誤るわけもない。
「……流石」
サミュエルさんの苦笑が濃くなる。
「俺は、うちの神さんの啓示で知ったよ」
そう言って彼は、人差し指と中指を己の額に当て――祈りの言葉を口ずさみながら、僕の額にその指を寄せた。
額に彼の指が当たると、そこを通して波紋のように何かのイメージが流れ込んでくる。
祝祷術のひとつ、《共感の祈り》だ。
自分が表層意識に持っているイメージを相手にそのまま伝達する。
あくまで表層的なイメージに限ること、術への抵抗が容易なこと、いろいろあって中々使いづらい術だけれど――
「……っ」
伝播してきたイメージは、強烈なものだった。
まず見えたのは紅蓮の炎。
柱が焼け、轟音とともに家が崩れ、火の粉が散る。
群衆の叫び声。
混乱する街々を、悪魔たちの影が跳梁する。
金属音。足音。
列を成す白銀の鎧。
展開される祈りの聖域――ヴォールト神官戦士隊だ。
彼らが悪魔たちの討伐に現れるも、苦戦を余儀なくされる。
悪魔は巧みに火災と群衆に紛れ、己の位置を掴ませない。
臨時の本陣に詰め、錯綜する情報を整理しながら指揮を行う上級の神官戦士たちの首が、背後から刎ね飛ばされた。
あの老人、メイナード管区長の細身の体が膨れ上がる。
……それはまるで、子供が捏ねた歪な粘土の像だった。
ひどく捻くれた鉤爪つきの手、歪に大きい頭部。それとはアンバランスに細く長い体。
本来、目鼻があるべき場所には虚ろな暗黒の楕円がひとつ開いているばかり。
僕はその名を知っている――塑造の悪魔、スペキュラー。
己の姿形を自在に変化する、きわめて危険な《将軍級》の悪魔だ。
悪魔は一つ、不気味な咆哮を上げると、炎に包まれる街の闇へと飛び退ってゆく。
後に残されるのは、神官戦士たちの死体ばかり。
瓦礫の中。転がる死体のうちの一つに、視線が向く。
その金髪の、形の良い頭は――
◆
「っ、は……」
《共感の祈り》によって共有するイメージから、意識が戻る。
なかなか、悪夢めいて強烈な啓示だった。
しばらく息を整えていると、先ほどのメイドさんがお茶を淹れてきてくれた。
ありがたくいただき、一息つく。
「……これ見せて『もう何度も命を賭けてもらったし、好きにしなよ』ってんだから意地が悪い神さんだぜ、ったく」
一択じゃねぇか、と眉間にしわを寄せたサミュエルさんが呟いた。
……なるほどなんとも、癖のある神さまだ。
「ずいぶん詳細な啓示でしたね」
「まがりなりにも大神のひと柱――ってのもあるが、今回は特に詳細だったな」
まぁ、相手がこれとなりゃ無理もねぇが、という呟きに頷く。
「塑造の悪魔、スペキュラーですか」
「……悪魔どもの《上王》の大乱、《大崩壊》の時代、何よりも恐れられた《国崩し》の悪魔だ」
戦闘力が、ではない。
《忌みことば》をも使いこなす強力な魔法戦士であり、自身に対する魔法に対して強い耐性をもつ有角悪魔、ケルヌンノス。
極めて強靭な甲殻を有し、デーモンたちの神、次元神ディアリグマの厚い加護を得た神官戦士でもある甲虫悪魔、スカラバエウス。
これまで遭遇したあれらの《将軍級》たちのほうが、戦闘力という面では優位だろう。
スペキュラーも別に弱い悪魔では無く、高い格闘能力と怪力を誇るそうだけれど――この個体が危険なのは、そういう直接的な部分ではない。
ケルヌンノスやスカラバエウスは戦場に出れば千の雑兵を殺すかもしれないけれど、スペキュラーはただ生きているだけで万人を殺しかねない。
その変身能力と、人に化けるだけの知性には、それだけの危険性が存在するのだ。
「都市で暗躍を始めた一体のスペキュラーは、万の悪魔の軍勢よりもタチが悪い」
サミュエルさんの言葉に頷く。
想像して欲しい。変身能力を持つ悪魔が都市部に入り込み、それが大々的な放火事件とともに発覚した状況を。
ましてその悪魔が治安維持組織の頭目たちの首を物理的に刈り取り、都市のいずこに逃げ去ったとも分からない場合、何が起こるか。
統制を保てず、混乱を制しきれない治安維持組織。
疑心暗鬼にかられ、自身や家族の生命と財産を守るために『自警』を始める市民たち。
暴動を起こす市民に紛れ、さらなる暗躍と断続的な襲撃を行う下級の悪魔たち。
こうなってしまえば、もう混乱を収拾するまでにどれほどの時間と労力を吐き出せば良いのか想像もつかない。
ことによると、本当に都市ひとつ、国ひとつが崩れる可能性すらある。
――そういう悪魔なのだ。
「スペキュラー側の狙いは――」
「悪神信仰に転んだ邪教徒や、下位の悪魔を街の中に引き込んでいる。物資と人員を蓄えて、どこか決定的なタイミングで決起して啓示の光景、ってとこだろうな」
ここ最近、義賊騒ぎで耳目を逸らしつつ、何度か小拠点を潰した、と彼は言う。
「政治的な立ち回りとしては、《防衛派》べったりの言動が増えている。南方進出への危機感を煽る言動が特に多いが……」
「南は、悪魔たちの大拠点がいくつもありますから」
「ソイツに近づけたくない、ってとこか」
気軽に口にはできないけれど、《南辺境大陸》には悪魔たちの拠点に加えて、《上王》の封印地であるあの死者の街もある。
彼らの王の復活のためにも、人間の勢力圏を南下させたくない、というのは悪魔の陣営の総意なのだろう。
「……危険ですね」
「ああ」
「かといって、相手がヴォールト神殿の管区長ともなると……」
「公然と『悪魔だ』とは主張はできん。魔法で正体を暴こうにも、同意もなく呪文をかけようとすりゃ詠唱に入った時点で叩き切られても文句は言えんお偉いさんだ」
社会的な立場が彼を守っているのだ。
「…………」
「…………」
認識を共有する。
状況は深刻だ。
とすると、これは――
「今から二人でヴォールト神殿に忍び込んで、サクッと殺っちゃいませんか?」
単純極まる暗殺で良いのではないか。
◆
「……やはり、お前もそれを考えるか」
その提案に、サミュエルさんは笑って頷いた。
「お前もってことは、やっぱりサミュエルさんもお考えになったんですよね、この手」
「ああ」
複雑で要素の多い策ほど破綻しやすいものだ。
即効性が高くて、単純なものほど検討する価値がある。
「俺も、それができれば最善だとは思った」
彼は帝都に暗躍する義賊、《空行くもの》なのだ。
忍び込んでの暗殺ともなれば、むしろ技能的に彼のほうが向いている。
「だがヴォールト神殿の警備は厳重だ。特に今は、領地持ちの貴族も入都してくる夏季だしな。……抜けると思うか?」
「隠密活動は、正直あまり詳しくないのですが」
いくら竜の力を得たとはいっても、僕は隠密型の軽妙な戦士ではなく、どちらかというと装備を固めて戦う重戦士タイプだ。
スニーキングミッションは正直、専門外だけれど――
「サミュエルさんほどの腕前でも?」
「俺でも厳しい。諸々考えて、せいぜい侵入の成功率は七割程度だと判断した」
七割。三回に一回くらいは失敗する計算。
微妙な数字だ。
「侵入して、下手に発見されればヴォールト神官戦士団に囲まれる。捕縛されたら終わりだ」
管区長が悪魔なんだ! と主張しても、武装して神殿に押し入るなどという蛮行に及んだ時点で説得力がない。
武装を解かれて拘束されてしまえば、悪魔の側もこちらをどさくさで殺す手は片手に余るほどあるだろうし。
そうなったら公平な場での審議以前に、「錯乱して捕縛されて突然死」エンドだろう。
「そうだな。逆にこっちからも聞きたいんだが、あの神官戦士団を無力化して突破できるか?」
「無理ですね。……彼らを相手に実戦なら、命の取り合いです」
魔法も加護も竜の力も解禁して挑めば、彼らに負けることはまずないだろう。
でも、今日、身をもって経験した彼らの練度。その守りの硬さ。
殺さず、迅速に無力化してあっさりと突破して管区長に化けた悪魔のもとへ――なんて、許してもらえるとはとても思えない。
彼らは信仰と矜持にかけて、手足がもげようが胴をえぐられようが僕に食らいついてくるだろう。そうなればもう、命を奪うほかない。
そして重要な治安維持戦力である神官戦士隊を殺戮してしまったら、スペキュラーを討ち取れても数多の問題が尾を引いてしまう。
……それ以前にそもそも、罪もない人を大義のために殺すなど論外だ。
「それなら……やや搦手で、僕が酔った振りか何かで、神殿近辺で神官戦士さんたちを引き回して喧嘩騒ぎ、サミュエルさんが突入では」
「待て待て。侵入の成功率っつったろ、《将軍級》の悪魔をあっさり殺せるお前基準で考えるな」
あ、そうか。
……当たり前だけれど、相当の達人でも、一対一で《将軍級》の悪魔を瞬殺となると困難だ。
潜入向けのサミュエルさんのみ突入してもらっても、戦闘が長期化して騒ぎになれば元の木阿弥だし、ことによると返り討ちの危険すらある。
「運良く奇襲からの一発目が急所に入れば分からんが……」
微妙な確率の侵入から、更に微妙な確率の奇襲。
これではためらうのも当たり前だ。
「……セシリアさんにすべての事情を打ち明けて、密かに侵入の手引をしてもらうというのは?」
「アイツ、そういう芸ができるタイプだと思うか?」
「…………」
良い人なのだけれど、そういう腹芸には向かない、だろうなぁ。
これがバグリー神殿長なら悠々こなしてくれそうだけれど、いない人は頼りにできない。
「お前さんか、エセル殿下の名義で面談を申し込んで一対一の状況を……ってのも考えたが」
「僕がスペキュラーならそういう申し出の類は極力回避しますね。ご老人ですから、言い訳の捻出も難しくないでしょうし」
「だよなぁ」
その後もいくつかの手を検討してみたけれど、やはり現時点での暗殺決行は無理攻めになる可能性が高い、という結論に落ち着かざるを得なかった。
「無論のこと、いつまでも管区長の座に塑造の悪魔なんぞを居座らせておくわけにもいかん」
「ええ」
いつ爆発するか分からない爆弾が国の要所に置かれているようなものなのだ。
放置は完全に論外だった。
「……ここまで踏み込んできた以上は、協力してもらうぞ」
「もとより、そのつもりです」
導き出される手は、一つだ。
「囲いの外から、締めあげましょう」