14
それから色街でルナーリアさんに頼って何ヶ所かで施療を施した。
本当に病人が多くて、奇跡を乞い、祈りを重ねた負荷でけっこう頭がフラフラする。
《涙滴の都》は大都市だ。
僕一人いれば手が回り切る、人の疎らな《南辺境大陸》の果てとはまた違うのだと、実感させられた。
とはいえやることは変わらない。
神さまに代わって、神さまがしたいであろうことをするだけだ。
治療の合間に現状を聞き取り、経済や衛生の状態などについて確認をとって、問題点をメモして。
妓楼の一室で、あれこれと今後の方針を考えていると――
「……よくやるわね」
と、ルナーリアさんが言った。
「慣れてますから。ずーっと、やってきたことです」
笑って答える。
もう、この手の施療やらは何度も経験していることだ。
「…………」
ルナーリアさんはそんな僕を、色違いの瞳で、なんだか無表情に見つめて――
「ねえ」
「なんでしょう」
「あなた……生きてるの、楽しい?」
静かな問いだった。
どういう意図だろう、と小首を傾げてみると、彼女は言葉を続けた。
「何かの歌で聞いたけれど、貴方、神さまにかなり強い誓いを立てたのよね。それで、そうやって誓いに沿って生きてる」
「ええ」
その通りだ、と頷くと――彼女はやっぱりなんだか無表情に。
微かに紫苑と黄金の瞳を彷徨わせ、それから重ねて問うてきた。
「……誰かのために自分を切り売りする人生って、楽しいかしら?」
静かな声で。
静かな問いだった。
「なんだか貴方、すごく無欲で、平坦に見えるわ。……ともすると人を救って、神さまの威光を振りまく、カラクリ人形なんじゃないかって思える。
こんな仕事をしているから、欲望のくすぐり方、人をうまく煽てて気分よくさせる方法なんて、両手の指より多く知っているけれど」
貴方を舞い上がらせられる気はしないわね、と彼女は言った。
「貴方に我欲はあるの? 貴方の生は、喜ばしいものなの? ――貴方は、生きていて楽しいの?」
その目、その声音には、僕を貶めようという意図はなく。
――それどころか、何か切実なものがあるような気がして。
僕は、唇を引き結ぶと、表情を改めた。
「楽しいですよ。僕の生は、喜ばしいものです」
断言する。
「まぁ、そりゃ――戦うのは痛いし怖いし、命を奪うのは嫌な気分です。悪疫や汚濁の満ちる場所に行くのだって、愉快な気持ちにはならないです。
別に何かしたからって感謝されるとは限りませんし、有名になればそれだけで立場ができる、敵もできる。僕を懐柔しよう、利用しようって人もいる」
「そうね、私みたいなのが出てくるのだものね」
諧謔めいたルナーリアさんの言葉に、苦笑して肩をすくめる。
正直、不死神の立ち回りとかに比べれば、貴女は可愛いものですホント。
「でも、それでも、人を愛することは喜ばしいことです。善いことをすることは、楽しいことです」
俯いていた誰かが、上を向いてくれたら、僕も上を向けた気がする。
無念を抱えていた誰かが輪廻に還ることができた時、僕も救われた気がする。
うまくやれることばかりじゃない。
救えることばかりじゃない。
僕の手の及ばないこともある。
でも、それでも――
「あの物静かな神さまと一緒に、そうやってずっと歩いていけるなら……それはきっと、この力で色々な欲を満たすより、ずっと安らかで幸せなことだと、そう思うんです」
多分、今の僕ならその気になればけっこう色々なことができるだろう。
大抵の欲望なら満たせると思う。
……でも、僕は今のところ、あんまりそういうことに価値を感じない。
竜の因子にあまり惑わされていないのも、あるいはそのお陰かもしれない。
「まぁ、なんていうか……そんな感じです」
そう言うと、ルナーリアさんは――
「――……ああ、そっか」
ふと、納得したように頷いた。
「なんだかやけに平坦で、不思議で。でも貴方みたいな雰囲気の人、どこかで見たことあると思ったのよね」
色違いの目をした彼女は、趣深げに何度も頷き――
「そうよ、やっぱりそう。――貴方、あれに似てるのよ」
「? 何に似てるんでしょう」
ちょっと気になる。
僕が似てるって、一体……
「凄くいい結婚をして、いい家庭を築いてる人。……貴方、それよ!」
「……!?」
納得顔の彼女と対象的に、僕は随分ぎょっとした。
そんな僕の顔を見て、おかしそうに笑う彼女の顔は、ずいぶん晴れやかだった。
◆
「け、けけけ結婚!?」
「そうそう」
と、彼女は頷いた。
謎が解けたことがよほど嬉しいのか、普段の口元を隠す上品な笑いとは違う、童女のように無邪気な笑顔だ。
「良い結婚をして、奥さんと過ごすだけで満たされる、みたいな人ってそんな感じなのよね」
「……い、いや、僕、独身で……」
「神さまと添い遂げるって誓ったようなもんでしょ?」
「…………」
そう言われると、ちょっと反論しがたい。
どうしてか妙に顔が火照る。
「ふふふ、照れてる照れてる」
「い、いや、別に」
結婚とか言われて、神さまの新妻姿とか想像したりはしてませ――いやちょっとしましたゴメンナサイ。
「なーるほどー、そうか、そうか、そりゃあどう手管を使っても無駄なわけだ、無敵だもん」
「無敵ですか」
「私の師匠とか、たくさんの貴族を翻弄する物凄く高い女だったんだけれどね。本気で恋した相手に、良い婚約者がいて……何をしても苦笑されて、通じなかったらしいわ。
なんだか飄々と受け流されて、最終的に『今度、結婚します』って言われたら、もうすっかり何も言えなくなっちゃって、『おめでとう』って言う他なかったって」
それで耳にタコができるほど言われたものよ。
狙うなら独身者か、政略と契約のために割り切って結婚してる男を狙いなさい、って。
「――できれば恋をするときも、ね」
彼女は、どこか遠くを見るようだった。
その師匠との日々を、思い返しているのだろうか。
「恋、か……」
どんな気持ちなんだろうか。
朧な前世の記憶は虫食いのように欠け落ちていて、もうその感情を思い出すことはできない。
「あら、聖騎士さまでも恋に興味が湧くことはあるの?」
「そりゃあまぁ、年頃ですから」
誰か可愛い女の子と出会って、とか。
ちょっとくらい夢想をしてみることが、無いとは言いませんよハイ。年頃ですから。
「……あら、年頃じゃなければ恋をしないとは限らないわよ? お年を召して、伴侶を失った貴族がたの御茶会での、ドロドロの鞘当てとか聞くし――」
こ、怖っ。
上品に口元を隠しながら笑ってるけど、怖いよ!
「まぁ、でも、そうね。……あんまり憧れは持たないほうがいいかもね」
彼女は肩をすくめて笑った。
「恋なんて案外、禍々しくて不吉で狂気じみたものよ」
年頃の女性が語るにしては、あまりにアッサリした声で。
彼女は恋を、そう評した。
「ずいぶんな評価だね」
「ええ。たとえば、そうね。……愛してくれなきゃ死ぬ、なんていう人を何人も見たけれど」
「何人も見るんだ……」
「見るのよ」
凄絶だな……
「でも、死を使って脅迫すれば愛が勝ち取れると思う? むしろ重くて面倒くさくて煩わしいと思うだけでしょ?」
「……まぁ、そりゃ」
「そんなことも分からなくなるのよ、恋に落ちた人というのは」
呆れと、微かな嫌悪のこもった声。
「……ああ、落ちるってのは良い言い回しね、そう。落ちてるのよ」
連中は落ちてる。
そう、彼女は繰り返した。
「――お客さんのこと、嫌いなの?」
「大好きよ。その時だけは、誰とだって本気。――嫌いな人でも好もしい人でも、会う時だけは、心底から『大好きだ』って思い込むの」
彼女は笑う。
口元をかくして、上品に。
「ま、貴方には通じないようですけれど」
「……幸いだった、かな」
「騙されずに済んで?」
「そうじゃなくて」
首をゆっくりと左右に振る。
「僕は、貴方のお客には向かないかもしれないけれど。……友だちには、なれそうじゃないですか?」
そう言うと、彼女は目をぱちくりと瞬かせた。
「とも、だち」
「ともだち」
ビックリした様子の彼女に、頷きかける。
「…………男の友だちなんて、考えてもみなかったわね」
「考えてもみなかったんですか……」
「男女間の友情が成立するとは考えない派なの、私」
まぁ、分からないでもない気がするけれど――
「けど、そうね。確かに貴方は私に恋とか色欲とか、そういうもの、感じないみたいだし」
案外、友だちになら、なれるかもしれないわね。
そう言って、彼女は笑った。とても好もしい笑みだった。
◆
涼やかな水音と共に、運河が流れる。
夏の夜。魔法の灯りの灯された川沿いの道に、涼やかな風が吹き抜ける。
「……夜の四点鐘には間に合ったかな?」
灯りの点った無数の楼閣から、笑い声や、歓声や、甲高い嬌声が聞こえてくる。
前世と違って、時計がない今生で、時間の把握はけっこう曖昧だ。
「大丈夫よ、鐘の音を聞き落としたりはしていないはずだし」
ふらりふらりと、微妙な感覚を空けて、共に歩く。
なんとなく、穏やかな気持ちだった。
「ねぇ、ウィリアム。……そういえば、神さまとの馴れ初めって聞いていい?」
「奥さまじゃありません。あと、馴れ初めって――」
「ふふ、いいじゃない。案外、灯火の神さまもそう言われて喜んでるかもしれないわよ?」
「いやいやいや……」
まさか、まさか。
……まさかですよね、神さま。
「ま、そこはいいけどね。……あなたはどうして神様に生涯を捧げると決めたの?」
「それは――」
思い返す。
あの、数え十四歳の最後の日。
――冬至の前日の、絶望を。
「成人する前の日、知ったんだ。――育ててくれた両親が、不死なる神に魅入られている、って」
「…………」
「僕を愛してくれた、大切な両親だった。だから守りたくて、剣と魔法を武器に、悪神の木霊に挑むことにした」
あの日のことは、忘れない。
「もちろん、勝ち目なんて無いに等しかった。……あっという間にやられて、死にかけた僕に、神さまは声をかけてくれた」
忘れない。
絶対に忘れない。
「命の重み。死の絶望。消え行くすべての命への慈しみ。戦う覚悟。――そういうものを忘れない限りは、資格があるって。共にゆこう、って」
この生が終わり、再び彼女に導かれるまで。
僕は決して、あの光景を忘れることはないだろう。
「――だから、僕も共に歩んで下さいって願ったんだ。僕の生涯をもって、あなたの剣となり、手となります、って」
あの瞬間に、契約は成ったのだ。
流転の女神の、その灯火にかけて。
「そう。……それで、勝てたの?」
「勝ったよ。ちゃんと両親の魂は、その、正しく輪廻に還った。今思い返しても、ギリギリだったし――すっかり目をつけられてしまったけれど」
「不死神に?」
「不死神に」
彼女は顔をしかめた。
「まるで神話の英雄譚ね……大丈夫なの? それ」
「大丈夫じゃないです」
「貴方、実は結婚相手としてはとんでもない事故物件なんじゃ……」
「言わないで」
分かってる、分かってるんだ。
分かってるけどどうしようもないことはあるんだ……!
「まぁ、いいわ。私が貴方と結婚するわけじゃないしね。……貴方と結ばれる誰かに同情するわ」
「やめて、へこむ」
「それとも神さまに操を立てて、生涯、清い身のままかしら」
「最近それもアリかなってちょっと思い始めてきました」
ひ孫の顔見られないから、ガスは嘆くかなぁ。
よ、養子とかでワンチャンあるかなぁ……!?
「……一晩相手してくれる、気立ての良い子とか、紹介する?」
「そういう気の回し方、ホントやめてください」
別に童貞であることを気にしてるわけじゃないのです。
いや、ホントに。
「……それで神様の加護を得て、辺境で頭角を現して、聖騎士に?」
「そんな感じ。あー……」
ちょっと聞いていいのか迷うのだけれど。
「ルナーリアさんは、今の立場に至るまで、どんな感じで?」
「そんなに恐る恐る聞かないでいいわ。――あと、呼び捨てでいいわよもう」
「いや、でも……」
「そこで遠慮するあたりホント童貞臭いわよね……」
「う、うっさい! そ、それでルナーリアはどうなのさ!」
だんだんこの人、歯に衣着せなくなってきてるな!
「別に、そんなに面白い話でもないわよ」
彼女――ルナーリアは苦笑して、肩を竦めた。
「貧しい農家の幼い娘が、人買いに買われて、色街に売られて、育って……そのまま売春婦として生きて死ぬだろうところ。たまたま師匠に目をつけられたのよ」
「師匠って言うと――」
「そ。歳をとって引退して、妓楼の娘に楽器なんて教えていた、先代の『ルナーリア』ね。……ほら、私の瞳、色が違うでしょう?」
――虹彩異色症。
謎めいた紫苑と、艶やかな黄金。
「ハッタリが効くし、面白そうだって。師匠は私を買い取って、手管を色々教えてくれた。それが面白くて……気づけば、高級娼婦になってた。でも」
肩を竦める。
「……結局、変わらないのかもね。何も」
諧謔と、哀しみの篭った声だった。
「ふふ。こんなこと、誰かに話すの、はじめてよ」
ん?
「――今の、嘘じゃない?」
「あ、やっぱり分かるのね、凄い」
彼女は悪びれることなく、肩を竦めた。
「ちょっと哀れっぽく振る舞って、『こんなのはじめて』っていうと男って入れ込んでくれるから、癖でつい」
「…………ワー、怖イ癖ダナー……」
そんな風に、半ばじゃれるように語り合いながら。
僕たちは夏の夜の道を、並んで歩いていった。