12
そこに来た時、ふと思い浮かんだのは、前世の途上国の大通りだった。
漆喰の剥がれた、茶色がかった生活感のある壁。
目にも鮮やかな顔料で描かれた、看板や広告。あるいは落書き。
少し色褪せた布の張られた露天の籠には、果物や香辛料、野菜や装飾品が山積みだ。
通りを歩く人々の衣服は様々で、様々な層の人々が出入りしていることがわかる。
鼻をつく匂いも複雑だ。
あちこちの料理屋から漂ってくる焼かれた肉やらの良い匂い、行き交う多くの人々の体臭や香水、あるいは路地の隅に転がるゴミや汚物から漂う悪臭。
様々な香りが混ざりあった生ぬるい空気が鼻腔を刺激する。
あちこちから値切り交渉や雑談や、ちょっとした冗談、笑い声や怒鳴り声が聞こえてくる。
とかく雑多で、活動的で、エネルギッシュ。
「…………」
好みの分かれそうな場所だけれど、僕はこういう場所はそんなに嫌いではなかった。
ふっと前世の記憶が浮かぶあたり、前世でも、こういう場所をぶらついていた頃があったのかもしれない。意外な発見だ。
「ウィルさん、だいぶ混雑していますから、お互いはぐれた場合は無理に探そうとせず、お屋敷の方で合流でよろしいでしょうか?」
「分かりました。まぁ、お互い子供でもありませんしね」
肩を並べて歩くトニオさんに、頷く。
前世だったら携帯電話ひとつで解決することだけれど、即時連絡手段がない今生は、こういうことはあらかじめ決めておかないといけない。
「それと、この辺りの門は治安の関係上、夜の四点鐘のあと閉鎖されます」
「む」
そういえば渡ってきた運河にかかる橋には、いくつか門があった。
……確かに治安維持のために、深夜の人の往来を絞る、というのは分かる。
魔法の灯りがいくらか普及しているとはいえ、この時代はまだまだ暗がりが多い。
そんな深夜にこういう区画から別の区画にかけて、『闇に紛れて移動したい』人なんて、まずろくな目的じゃないのだから、往来を制限するというのは分かる話だけれど……
「見た感じ、飲み屋も多いみたいですけれど、酔って判断力落ちたまま、時を過ごしちゃった場合は……」
「泊まらざるを得なくなり、宿が潤いますね。まぁこの辺、宿は連れ込み宿や妓楼が過半なわけですが」
「なるほど」
規則を利用してしたたかに儲けてる感じだ。
「ともあれ、了解しました。迷ったら、時刻には注意ですね」
「妓楼で一泊お楽しみ……は、ウィルさんには難しいでしょうしね」
冗談めかして肩をすくめるトニオさん。
その言葉を受けて、少し考え……
「まあ、楽しむことは難しいでしょうね」
結論し、苦笑して肩をすくめた。
――売買春。とても古くからある商取引。
よく言うなら、うつつを離れた、一夜限りのいつわりの恋。
悪く言うなら、お金で女性を一晩買って、欲望の捌け口に。
その善悪なんてものを論じる気はないけれど、少なくとも僕は、そういうのは楽しめないだろう。
あの色違いの目をしたルナーリアさんと出会って、わかってる。
どんなに美しい人でも、まことのない言葉では響かないのだ。
そういえばガスも含め、魔法使いには独身者もけっこう多いそうだけれど……
それは恋愛事が「相手によりよく思われたい」という、見栄――つまりはある種の嘘の要素を含むから、というのもあるのかもしれない。
「そういえば、各神殿の位置とかって、トニオさんご存知です?」
「大雑把にはわかりますが、なにぶん私も都は久々で……」
路地の交差点で入り乱れる雑踏に、少しまごつきながら、そんな風に話していた時だ。
人混みに押されてか、ぶつかってくる人がいて――僕はふっと反射的に、伸ばされた手を掴んだ。
◆
手を伸ばしてきたのは、まだ十代も前半だろう日に焼けた少女だった。
灰色の髪。衣服はつぎあてが多い。
その手の狙いは、僕の懐。いくらかの硬貨を入れた袋――
「スリ?」
「な、なに触ってんだよ!」
少女はとっさに身を翻しつつ、僕が掴んだ手を振りほどこうとして、
「っ……!」
ぴくりとも動かないことに怯えの声を漏らす。
――あー、たしか盗みは重犯すると手首を落とされるんだっけ。
「入りが甘いよ」
そう告げて、手を離すと、少女は一瞬きょとんとして、
「入りだな、気をつける」
少しだけ笑みを浮かべて、人混みへと走り去っていった。
「……ウィルさん?」
「なんですか、トニオさん」
「よろしかったんですか?」
気遣わしげな様子に、苦笑して頷いた。
「……神さまも、分かってくださるでしょう」
僕は確かに邪悪を打ち払うと神さまに誓ったけれど、飢えて罪を犯す人を邪悪だとは思わない。
飢えや貧しさに迫られながらも罪を犯さないのは立派で善いことだと思うけれど、それができないのは悪いことではなく、普通のことだ。
ことさら犯罪を擁護したり肯定したいわけでもないけれど、事情あってのことなら好んで剣を向けたくもない。
あの神官戦士のセシリアさんのように、秩序の神さまに仕えて治安維持に携わるともなれば、そんなことも言っていられないだろうけれど……
幸い、今の僕はぶらついているだけの一般市民だ。スリの一人二人、見逃しても問題はないだろう。
「…………」
トニオさんはいつもの穏やかな笑みを浮かべて、頷いてくれた。
が、その時だ。
「んだテメェ! 人にぶつかっといて詫びもなしか!」
怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから悪いって言ってんだろ!」
「ぁあン!? 違うだろ、誠意が足りねぇんだよ誠意が!」
……片方さっき逃がしたあの子の声だ。
逃した先で、またぞろ面倒なのにぶつかってしまったようだ。
「あの、これは、もう、流石に聞かなかったことにしてもいいのでは……」
トニオさんがぼやくけれど、流石にそういうわけにもいかない。
人混みをかき分けかき分け、騒ぎの中心に向かうと、
「っ、離せ、離せよっ!」
「いいからおとなしくしろってんだ! おらっ、こっち来い!」
お酒が入っているのか赤ら顔の、荒くれ者といった男たちが数人、さっきのスリの少女を腕ずくで抑えこもうとしていた。
……白昼堂々、よくやるなぁ。
「へへ、俺たちは《南辺境大陸》帰りだぞ!」
「うっかり殺されたくなけりゃ、素直にしてるんだなァ」
「や、やめろっ、変態っ!」
巻き込まれるのを恐れてか、辺りの人々は遠巻きに様子を見ているばかりだ。
「なぁに、おとなしくしてりゃテメーも気持よく」
「……あの、もしもし?」
なんとも陳腐な脅し文句に色々と思うところはあったのだけれど、とりあえず声をかけることにした。
流石に市街ということもあるし、そうそう暴力沙汰にはならないだろう。
まぁ、なんとか上手いこと言って――と思っていたら。
「ん?」
「…………あ、あれ?」
「いや、でもまさか」
彼らは僕の顔を見て、それぞれ何かに気づいたかのように、目を大きく見開いた。
「……?」
首を傾げる。
「パラデ、ィン?」
一人が、蚊の鳴くような小さな声。
「あ、はい。そうですよ」
《南辺境大陸》帰りってホントだったのか。
そう思って頷くと、
「…………」
彼らの赤ら顔から一気に血の気が引いた。
「ひっ! す、すんませんでした――!」
揃って慌てて踵を返して、逃げるように走り去ってゆく。
なんだかこう、クマにでも遭遇した時のような反応だった。
「…………」
なんとも微妙な顔をせざるをえない。
周囲の人々もざわめきを止めてびっくりした様子でこちらを見ているし、スリの少女も、ぽかんとした顔で僕を見上げている。
困ったところに、トニオさんが心持ち大きな声で、すっと割って入ってきた。
「やぁ! あれは酔っ払いすぎですね。いったいウィルさんのことを、何だと思ったんでしょう」
「化け物にでも見えたんでしょうか。そんなに怖いです? 僕」
そうおどけてみせると、周囲の空気が弛緩した。
遠巻きに立ち止まっていた人々も再び歩き出し、通りに流れが戻る。
「どうも南方開拓が進んでから、ああいうならず者、増えてるよなぁ」
「食い詰め者が南目指して流れてきてるんだろ?」
「ホント勘弁してほしいよなぁ……」
「物価も上がるし、物騒だし、ああ嫌だ嫌だ」
「昔は良かったよなぁ」
「景気がいくぶん良くなってるって言ってもね、実感がねぇ……」
聞き取れる範囲での人々の会話は、南方に対してあんまり好意的ではない。
南方開拓だなんだと言っても、そういうのに関わらない普通の市民の感情は、やっぱりこんな感じになるのか。
……まぁでも、至極妥当なものだな、とも思う。
前世だって様々な国策について、「なぜここに予算を割くのだ」と、国民の不満がわだかまっている国なんていっぱいあった。
むしろ皆が国家の方針を賞賛していたら、そのほうがよっぽど怖い。
「あ、あの……」
と、少し思考に浸っていると、くい、と袖を引っ張られた。
「……あ、ありがとな」
上目遣いに、伺うようにこちらを見てくるスリの少女。
「いえいえ、どういたしまして。……あ、そうだ」
ちょうどいい。これも何かの縁だろうし。
「この辺り、初めてなんだ。ちょっと案内してくれないかな? もちろんお礼はするよ」
そう言うと、少女は素直に頷いた。
◆
「あっちが共用の水場で、あのへんでよく炊き出しとかやってる。あ、あの飯屋、旨いんだぜ」
あちらこちらの広場や通りを、少女の案内で見て歩く。
灰色の髪の少女は、ディーと名乗った。
本名なのかイニシャルなのかは知らないし、僕も追求しようとは思わない。
ちなみにトニオさんは普通に名乗り、僕はフルネームではなくウィルと名乗った。
特にわざわざ、聖騎士であることを喧伝するつもりもない。
「んで、あのへんの街区はウィル兄ちゃんたちみたいな人は入り込まないほうがいいな。ガラ悪い連中の縄張りだし」
「あー、さっきみたいな。多いの?」
「最近はなー……ヴォールト神殿が最近冷淡でさ。神官がこの辺あんまり出入りしなくなっちまって。自然、色街のねーちゃん達とかあっちに頼るしかなくなるんだよな」
「……む」
前世の知識から言って、性産業に対して管理が行き届いていないのは、危険な兆候だ。
基本ああいう仕事は密室で行うものなので、何か――暴力とか、契約外の性行為の強要とか、踏み倒しとか――があった時に、頼る先が必要になる。
それをちゃんとした治安機関が担当していれば、何も問題は起こらないのだけれど、多くはそう上手くはいかない。
性産業に従事する彼ら彼女らが社会的に蔑視されていて立場が弱かったり、後ろ暗い部分があったり、様々な事情で通常の治安機関の庇護が期待できない場合……
生計のかかった彼ら彼女らは次善の策として、反社会的な暴力組織に頼る。
……つまりは、「風俗店で無体な行いをしたら怖いお兄さんが出てきた」というアレだ。
すると性産業に流れるお金が暴力組織の資金源となり、暴力組織はより多くの構成員を抱えられるようになり、一帯の治安が悪化する。
治安が悪化した地域では、まともな産業は展開しづらくなるから、結局、貧しい人が性産業に従事するしかない流れになってループし、ますます治安は悪化――
と、なることくらいは分かっているはずなのに。
「ヴォールト神殿が冷淡って、どういうこと?」
セシリアさんの件で出会った神官さんたちは、みな仕える神に相応して規律正しく真面目で寛容だった。
彼らが冷淡な態度を取る、というのは少し違和感があるのだけれど――
「いや、オレも詳しくはしらねーけど、神殿の方針がどうこうとかで、突っぱねられたとかでさ。ひっでーよな」
「方針が変わった?」
「ん、いや、だからよくしらねーって」
「ああ、ごめんごめん」
ちょっと臭い気がする。
ひょっとしてヴォールト神殿でも何か起こっているのだろうか。
苦笑して見せつつ、僕は頭のなかの棚に今のディーの発言を放り込んだ。
……あとでヴォールト神殿も訪ねてみないと。
「んで、あっちが色街な。兄ちゃんたちみたいな男二人連れってことは、やっぱあっち目的?」
ディーがその、なんと表現したものか、男女の交合を示すハンドサインを作る。
「…………」
「ハハハ、それもあるかもしれませんね」
思わずなんと反応したものか困ってしまった僕をフォローするように、トニオさんが穏やかに笑って答えた。
日に焼けた少女は僕たちの反応を見て、分かってるって、と笑う。
「男は皆スケベだもんな。……あ、色街いくなら、あそこ、レアシルウィアさまの神殿な。金あるならビョーキよけの祝祷とかしてもらえるぜ」
ディーの指す先を見れば、礼拝堂と神殿の間くらいの建物。
その扉には、妖精を囲う蔓草の文様――精霊神レアシルウィアの聖印が刻まれている。
……地母神マーテルが夫婦の守護神なら、精霊神レアシルウィアは恋の守護神だ。
その恋には、金銭のやり取り込みの一夜の恋も含まれる。
その奔放さゆえ、割り切った関係とか、一晩の楽しみとか、そういうものに対して精霊神はとても理解がある。
地母神の与える祝祷には妊娠、出産や子育てに関する加護が多いのに対して、精霊神は妊娠しないための加護とか性病よけの加護があるといった要領で、違いは明らかだ。
そういう気質が行き過ぎて、浮気とか乱れた性関係についても寛容すぎるところがあり、精霊神信仰は一部、厳格な人にはちょっと眉をひそめられたりする。
なんというか、地母神マーテルは母で、精霊神は女なのだ。
――あんまり仲が良くない、と言われるのも納得のゆくところではある。
「最近あんま儲かってねーみたいだからさ、よかったらお金落としてやってってくれよ」
確かにディーの言うとおり、神殿はところどころ、修繕が行き届いていない感じだ。
照明もかなり節約している感がある。
正直ちょっと、薄暗くて入りづらい雰囲気さえ醸し出されてしまうほどに。
――と、その薄暗い神殿から、人が出てきた。
ローブを目深に被った女性だ。
視線を向けると、彼女もこちらに視線を返す。
フードの影から黒髪と、どこか見覚えのある、妖しさを感じる黄金と紫苑の瞳が覗き――
「…………」
「…………」
僕は思わず、硬直した。
どうやら、彼女も同じ反応だった。