11
《涙滴の都》は、《グラスランド大陸》西部を流れる大河、サンセン河の河口付近に位置する水利の良い都だ。
このサンセン河は非常に穏やかな河で、ここ数百年、氾濫の記録もない。
けれど昔は、そうではなかったらしい。
今こうして、このサンセン河が穏やかなのには、一つの由来がある。
――昔、まだこの世界に色濃く神秘が根付いていた頃。
とある街に、イリアという名の物静かな娘がいた。
彼女の母は貧民街の娼婦、父親は誰とも知れなかった。
貧しく過酷な環境であったが、母の教えが良かったためか、本人の資質のためか、彼女は誰も恨まなかった。
しかしイリアが十になる頃、彼女の母は病に倒れて帰らぬ人となった。
唯一の身寄りを失った彼女は、洗濯婦として働くが、生活は立ち行かず、ついに身を売ることを考えだした時――彼女に神の声が聞こえた。
声をかけてきたのは、あらゆる精霊の祖、変化と奔放の女神レアシルウィアだった。
レアシルウィアは風神ワールと並び、使命でも資質でもなく、戯れとして人に祝祷を与える神として知られている。
――彼女は女神の声を受け入れ、娼婦ではなく神官となり、街の大神殿に引き取られた。
けれど神殿も、楽園ではなかった。
彼女に与えられた祝祷はわずかなものだったし、祈れど祝祷術を得られない神官たちは、妬心から彼女を下賤の出自、娼婦の娘として蔑んだ。
――彼女は神殿で、相変わらず洗濯をすることになった。
けれど彼女は誰も恨まなかった。
物静かに、ずっと洗濯をしていた。
日々、生きるのに不足のない食事が得られる。
貧民街での油断のならない生活に比べれば、周囲の悪意も穏やかなものだし、親切な人もいる。
洗濯は重労働だったけれど、晴れた日に、たくさんの洗濯物を干すのは、気持ちがよかった。
心穏やかに、静かに祈り、流れる時間はゆるやかで心地が良い。
祈ることも、洗濯することも、イリアは嫌いではなかった。
物静かな彼女は、ありのままに全てを受け入れていた。
……そんな彼女が、ある日、はじめて恋をした。
相手は神殿に礼拝に訪れた、隣国の王子さまだった。
彼は、そんなに冴えた外見というわけではなかったけれど、優しい目をしていて、洗濯をしていた彼女にも気遣いの言葉をかけてくれた。
気づけば彼女は、目を離せなくなっていた。……もちろん、叶うはずもない恋だった。
王子さまは、線も細く臆病な人だったけれど、心根が優しく、人を思いやれる人だった。
彼には愛する婚約者がいて、それはこの国の、優しく美しい評判のお姫さまだった。
少し祝祷術が使えるだけの、下っ端神官のイリアがでしゃばる隙など、どこにもなかった。
だからイリアは、いつも通り、ありのままに全てを受け入れた。
王子を想いながらも、彼女はいつも通りに祈り、いつも通りに洗濯をして、穏やかに日々を過ごしていく。
彼女は泣かなかったし、誰も恨まなかった。
――サンセン河の上流で、邪悪な《原初の巨人》が目覚めたのは、そんな時だった。
◆
サンセン河の上流には、かつて神々の争いにて、深手を負った凶猛な巨人が眠りについていた。
かつて神々の戦にて悪神の陣営に与し、善神の陣営の《瘴毒と硫黄の王》《溶岩の同胞》、《神々の鎌》たる邪竜ヴァラキアカと争い、その瘴熱の吐息に身を蝕まれ、倒れたるもの。
《禍を起こすもの》、《沸き返る波濤》――《灰色髭》のハールバルズ。
この巨人を敗走させたがため、かの邪竜は神々の財宝の一割をせしめたとも伝わる巨人族の大戦士だ。
ハールバルズが痛みに呻き、歯を軋れば、軋りとともに止まぬ豪雨が降る。
ハールバルズが狂熱の瘴毒に身悶えするとき、悶えとともに大河が荒れ狂う。
時にハールバルズは起き上がり、気を紛らわせるためだけに、辺りの小さきものどもの国々を滅ぼした。
その恐るべき《原初の巨人》、《灰色髭》のハールバルズが、百年ぶりに目覚めた。
巨人の不機嫌な歯軋りと呻きは辺りに豪雨をもたらし、人々は雨に煙る北の《氷の山脈》に吼える、邪悪な巨人の影を見た。
――イリアの街も、近隣の国々も、大混乱となった。
逃げ出せるものは逃げ出し、逃げ出せないものは怯え、祈り、震えて暮らした。
神々とすら争う、《原初の巨人》の勘気は、天災に等しかった。
イリアに、逃げてゆける場所はなかった。
だから彼女はいつも通り、全てを受け入れることにした。
泣かず、誰も恨まず、静かに祈って死の時を待つつもりだった。
自分の穏やかさは、どうにもならないことへの諦めの裏返しだったのだと、彼女はこの時、初めて自覚した。
けれどその時、神殿に王子が現れた。
こんな時だというのにイリアの胸は高鳴り、そして同時に驚いた。
――王子は、巨人討伐の兵を起こそうとしていた。
細い腕に剣を握り。
震える足で立ち、裏返りそうな声を張り上げて、勇士を募っていた。
王子は。線も細く、臆病な王子は――誰もが諦めた巨人を相手に、諦めていなかった。
もちろん、成果は捗々しくなかった。神殿の有力な神官たちも、力なく首を横に振った。
恐るべき《原初の巨人》に挑もうとするものなど、多くはない。
それでも王子は諦めた様子もなく、僅かな伴を連れて去っていった。
力もなく、王子の求める戦力にはなれないイリアは、その背をただ見送り――
そうしてその日、彼女は諦めることをやめた。
イリアは祈った。
もはや人もずいぶん減り、閑散とした冷たい神殿で、ただひたすらに、一心に祈った。
祈り、祈り、祈り、半ば気絶するように眠り、起きれば再び祈り、ただひたすらに祈り続けた。
彼女の不断の祈りは、常軌を逸していた。
ついに根負けし、精霊神の《分霊》が降りるほどに。
「――きさま!」
そして現れた女神は、霜の衣をまとう老婆の姿をしていた。
老婆は、聞くものの魂を削るような、おそるべき声で叫んだ。
……精霊神レアシルウィアの《分霊》は、降臨する季節に応じてその姿を変じる。
春にはいとけなく愛らしい童女、夏には瑞々しく躍動する少女、秋には豊満な肢体の艶やかな美女となり、そして冬には霜の衣をまとう老婆となる。
女神レアシルウィアは、冬の己の姿を見られることを、何よりも嫌っていた。
山々や海に点在する精霊神の聖域に、冬に立ち入るものは多くが命を落とす。精霊神の怒りを買うためだ。
冬に、かの気まぐれな女神を執拗に呼びつけることは、信徒といえども自殺とほぼ同義であった。
「分かっていような」
底冷えのする、極寒の風が神殿内に吹き荒れた。
「覚悟はいたしております」
イリアは神を前に跪き、まっすぐに答えた。
「ですがどうか、王子の戦いに、ご加護を」
そうして彼女は滔々と、王子に対する想いを述べた。
元より神を前に隠し事はできない。
ずっと想いを秘めていたこと、何もかも諦めて生きてきたこと、王子を見送った日、諦めるのをやめたこと。
全てを神の前に明かし、ひれ伏して助力を乞うた。
「……ならぬなァ。そもそも妾は、いくさ神ではないのだぞ?」
けれど老婆の姿をした精霊神は、その懇願をせせら笑った。
イリアは再び加護を願い、不機嫌な女神は、悪意を隠そうともせずに再び断った。
「無理は承知でのお願いで御座います、ご加護を」
「だとしても、ならぬ。……その若々しき目が気に入らぬ、そのような目をした者の請願は受ける気になれぬな」
三度目に女神がそう断った時、イリアは顔を上げて、言った。
「では、この目を捧げます。どうか、ご加護を」
「ほう」
刹那、イリアの視界は闇に閉ざされた。
女神がイリアの瞳から、光を奪ったのだ。
次にイリアが加護を願うと、女神はイリアのしなやかな足が気に入らぬと言った。
イリアは足を捧げた。
次にイリアが加護を願うと、女神はイリアの張りのある声が気に入らぬと言った。
イリアは喉を捧げた。
――闇の中、足の力を失い、声も出せず、しかしイリアは女神に加護を祈り続けた。
ついに女神は問うた。
「王子が勝てば、王子は晴れて姫と結ばれよう。――汝は報われぬ恋に、目と、足と、喉を捧げたのだぞ?」
それで構いません、と声の出せないイリアは答えた。
結ばれることは諦められても、報われることは諦められても。
それでも、せめて力になりたいのです。
――この暖かな想いだけは、諦めたくないのです。
どうか、とイリアは女神の冷たい霜の衣の裾にすがった。
女神は、精霊神レアシルウィアは、しばし沈黙し――ふと、問うた。
「汝は、妾をどう思うておる? ……気まぐれに奇跡を与え、かと思えば渾身の願いを断り、目を、足を、喉を奪う妾を」
――誇り高き神です。
最も望まぬ呼ばれ方をしてお怒りであろう中、私の訴えに耳を貸して下さり、断りはすれ、ただの一度も遮ろうとはなさいませんでした。
何度、繰り返し加護を願っても、その口上を聞いて下さいました。
きっと己の在りように、強い誇りや信念を持っていらっしゃるのだと思います。
それは、色々なことを諦めてきた私には無いもので――
「とても、羨ましく、美しく見えた、だと? ふん」
老婆の姿をした精霊神は、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、苛立たしげに床を蹴り。
「だが、妾は、いくさ神ではない。悲恋も好かぬ、断じて好かぬ!」
女神は何度も何度も床を蹴り。
――そうして、目と、足と、喉を失ったイリアの前から去っていった。
◆
その日、《原初の巨人》たる《灰色髭》のハールバルズの住まう《氷の山脈》へ向かう旅の道中。
雨の中、王子の一行の前に、幾人かの精強な放浪戦士や、流浪の魔法使いが現れた。
驚き構える王子たちだが、彼らに敵意はなかった。
彼らは風神ワールの啓示を受け、その先駆けとして馳せ参じたのだという。
風神ワールは、己の加護を与えた使徒たちのうち、参集可能な全ての者たちへ《氷の山脈》の巨人退治への協力を願ったという。
その加護に心当たりのなかった王子は、首を傾げてその所以を問うた。
使徒たちは、風神は精霊神より懇請を受けたのだと答えた。
春の童女の精霊神と、童子姿の風神は、ともに歌い、踊り、世界を駆けて春を振りまく。
大神のうちでも奔放不羈の双璧をなす二神は親友ともいえる間柄である。
その浅からぬ仲の友が、冬の姿で己を訪い、膝をついてきたゆえ、風神は一も二もなく協力したのだ、と。
王子には精霊神の加護にも心当たりはなく、やはり首を傾げた。
そうして《氷の山脈》に辿り着いた王子一行だったが、辺りには巨人の咆哮でマナが荒れ狂い、雨と風で巨人の居場所もわからぬ有様。
けれどどこからか、知識神エンライトの厚き加護を得た隠者たちが現れて道を示した。
その加護に心当たりのなかった王子は、首を傾げてその所以を問うた。
隠者たちは、知識神は精霊神より懇請を受けたのだと答えた。
奔放な精霊神はしかし、知識神とは遥かいにしえよりの友であり、俗世を離れ探求に没頭する隠者の多くは精霊神の懐に依り頼む。
対価として知識神は、その奔放さゆえ神々の間で騒動を起こしやすい精霊神の後見を、その穏やかな隻眼でつとめ続けてきた。
娘のような神が、冬の姿で己を訪い、膝をついてきたゆえ、知識神は一も二もなく協力したのだ、と。
しかし、やはり王子には精霊神の加護を受ける心当たりはなく、彼は再び首を傾げた。
その後も、幾柱もの神の使徒が現れて、王子の一行に加わっていった。
中には、けして精霊神と良好な仲ではない神の使徒もいた。
夫神たる雷神ヴォールトを誘惑されたため、秩序の街を農地で囲い、精霊神の宿る自然を遠のけたと伝わる、地母神マーテル。
かの女神の使徒も、精霊神が冬の姿で己を訪い、膝をついてきたゆえ、地母神は一も二もなく協力したのだと同様に答えた。
――多くの神々の使徒と、多くの神々の加護を得て、激烈な《原初の巨人》討伐が始まった。
《灰色髭》のハールバルズは、《禍を起こすもの》、《沸き返る波濤》の二つ名通りに荒れ狂った。
天は荒れ、大地は震え、轟音が三日三晩、断続的に鳴り響いた。
そして、ついに……犠牲を払いつつも、大いなる巨人の心臓に戦士たちの槍が突き立てられた。
王子は英雄となり、凱旋し、姫と結ばれた。
目と、足と、喉を神に捧げ、しかし精霊神の加護厚き大神官となったイリアは、その歓声を耳にして、涙を一滴だけ零した。
いかなる奇跡か涙は輝く真珠となり、大河の流れに乗って河口に流れて沈み――
「……そうしてサンセン河はもはや荒れず、精霊神の愛子たる聖イリアの涙沈むこの河口は繁栄を約束された」
ゆえに《中つ海の真珠》。
ゆえに《聖イリアの涙のきらめき》。
「《涙滴の都》、というわけです」
鮮やかなオレンジの屋根瓦に彩られた、やわらかな白い壁の家々が続く。
小舟の行き交う運河にかけられた、橋の一つを渡りながら、トニオさんはそう語った。
ビィと旅をしていたこともあってか、ずいぶん上手な語りだった。
「……聖イリアは、その後どうなったんですか?」
「長く生きたとも、短命だったとも、ある時ふと精霊神が迎えに来て神々の世界へ迎えられたとも、色々言いますね」
なにぶん昔のことで、吟遊詩人も色々話を改変するため、諸説があるのだそうだ。
「あとは王子の側室になった、とも」
「詩人さんもなんとか、幸せな結末にしたかったんでしょうね……」
物悲しさは台無しだけれど、そういう類話があってもいいと思う。
現実の苦難には終わりがないけれど、物語は「めでたしめでたし」と寿ぐ言葉で締めくくることができる。
それはきっと、そうあれかしという、一つの祈りのようなものなのだ。
「さて、そろそろですね」
サミュエルさん宅からの帰り道、僕たちは寄り道をしていた。
辺りの家々が段々とケバケバしい感じになり、料理油や脂粉の濃厚な匂いが漂ってくる。
「この辺りからが繁華街――色街や貧民街とも隣接する区画です」
頼まれた救貧事業への援助の下見を兼ねてのことだ。
今までずっと、この都のきらびやかな場所を見ていたけれど……その栄華の裏側はさて、どうなっているだろうか。
ブックマーク、感想、評価、レビュー等の応援、いつもありがとうございます。
皆さまの応援のおかげもあり、なんとか筆も続き、『最果てのパラディン』は、初投稿から一年を迎えることができました。心よりの感謝を。