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不死神の《遣い鴉》が、導くように《大空洞》に飛ぶ。
高らかに、出陣の角笛が響く。
鼓動のように一定間隔で、腹に響く陣太鼓の重低音。
青白い魂のほむらが踊る。
何百人、何千人もが足並みを揃えて歩む音がする。
竜はそれを興がるように、あるいは懐かしむように。
目を細めて、静観している。
その光景を見る僕の背後に、足音がした。
四つだ。
「……まさかアンデッドになってないよね?」
気配でそうではないとはわかるけれど、冗談めかしてそう言いながら振り向いた。
「安心しろ、生きてるぜ」
「ええ、この通り」
「危ういところだったがな」
振り向けばメネルにルゥ、レイストフさんにゲルレイズさんが居た。
「お前の孤軍奮闘で、竜の注意が逸れた」
「それで、祖神の加護をもちまして――慣れぬゆえ、癒やしにも時間がかかりましたが」
そうか。
ルゥはあの悪魔との戦いの時、刃に神炎を纏わせていた。
――ブレイズの加護を得たのだ。
であれば僕同様に、とまではいかないだろうけれど、時間さえかければ傷を癒やして再び立ち上がれるのだ。
僕が、諦めなかったことに、意味はあった。
不死神が動いてくれた。
仲間が再び、立ち上がってくれた。
なら、僕はまだ、戦える。
「……ウィリアム、殿。これは、これは……」
ゲルレイズさんは軍勢を前に、呆然とした顔をしていた。
目の前の光景を信じて良いのか、迷っている様子だ。
「今は、彼らは味方です。――頼もしい援軍ですよ」
「お、おお……」
そう告げると、ゲルレイズさんははらはらと涙を流した。
かつて望み、そして得られなかった戦いの地へ。
――彼はようやく、辿り着いたのだ。
と、その時、足音がした。
重々しい足音だ。
きらびやかな真なる銀の鎧を身にまとった、けれど線が細くて優しそうな、一人のドワーフの霊。
その手には、輝く金色のつるぎがあった。
「……っ!」
ゲルレイズさんが、ほとんど反射とも言える動きで片膝をつく。
その動作で、理解した。
「お祖父さま……?」
ルゥが、呆然としたように言う。
「……――」
《くろがねの国》の最後の大君、アウルヴァングル王がそこに居た。
彼は無言のまま、ルゥの頭を撫でた。
よくやったと、そう言うように。
「……っ」
ルゥがくしゃりと顔を歪め、涙を滲ませる。
それから、アウルヴァングル王は僕に視線を向けると――
「……――」
やはり無言のままで、黄金の剣のその刃を篭手で握ると、僕に柄を差し出した。
「え」
あの。それは、僕に? ルゥに預けるべきでは――そんな思考や疑問が、過ぎらなかったわけではないのだけれど。
強い視線に押されて、柄を握り、剣を預かる。
《夜明け呼ぶもの》――かつてヴァラキアカの片目を奪った名剣。
ドワーフ伝来の、恐らくは神代の霊剣だ。
「灯火の英雄よ。……我が孫を、そして山を、どうか」
発された声は、灼けついた掠れ声だった。
アウルヴァングル王の霊体、その鎧が、肉が、ゆっくりと崩れてゆく。
「お祖父さま? そんな、お祖父さま……!?」
そうだ。
確かに、聞いた。
――ヴァラキアカの炎は、魂までも灼く。
恐らくは竜に灼かれたであろうアウルヴァングル王の魂は、とうに形を留められなくなっていたのだろう。
ここまで形を保つだけでも、限界だったのだろう。
ぐずぐずに溶けて、崩れてゆく。
無残にも。
無情にも。
その霊体は崩れ落ち――
【まだだ】
静かな声とともに、そよ風のように優しい力が伝わり、その崩壊が止まった。
【――まだであろう】
神さまが。
灯火の女神グレイスフィールの《遣い火》が、言葉を発していた。
◆
【聞け。その魂を保てぬものよ】
神さまの言葉は、アウルヴァングル王のみに向いたものではなかった。
見ればドワーフの軍勢には、幾百も、似たような状態になっているドワーフたちがいた。
灼け崩れ、溶け崩れ、霊体を半ば崩壊させながら。
それでもなお戦意を失わず――けれど恐らく、戦うことすら叶いそうにない、戦士たち。
【竜の吐息に灼け落ち、もはや輪廻へと還らぬものよ】
淡々と告げるようでいて。
けれど一抹の、悲しみを帯びた声。
そして、
【――この世に生まれ落ち、よく生きたものよ! 生き抜いたものよ!】
あの神さまが。
ずっと淡々としゃべり、寡黙な神さまが。
はじめて大声を発した。
その声は、彼らの生へのまぎれもない称賛だった。
優しいねぎらいであり、賛美であり、祝福であり、真っ向からの義認だった。
霊体でありながら、身を震わせ、泣き崩れるドワーフもいる。
その生き様を神に認められる。
人として、戦士として、それはどれほどの栄誉だろうか。
【我より、最後の加護を授けよう! 死してなお、魂滅びてなお、善と正義を貫かんと欲するならば――】
灯火が舞う。
美しくも、儚く、夜闇を舞う蛍火のように。
【我が騎士のもとへ、集うが良い!】
神火が舞う。
魂を導く灯火が。
崩れようとする魂をとどめ、崩れかけた魂をいざない、次々に僕の元へと導いてくる。
それらは次々に、僕のうちへと飛び込んできた。
思わず身構えたけれど、衝撃も、苦痛もなかった。
けれど、彼らの想いが伝わってくる。
彼らの無念が、慟哭が、未練が。
そして、成し遂げられなかった戦いへの滾りが、伝わってくる。
行こう、と彼らは言っていた。
共に行こうと。共に戦ってくれと。
胸の内に響く言葉とともに、不思議と力が湧いてきた。
全身に、鉛のようにのしかかっていた疲労が消えてゆく。
霞がかかったような意識が、すっきりと冴えてくる。
今すぐにでも走り出せそうで。
何もかもが鮮明に見えた。
竜に滅ぼされた山々に彷徨う、失われかけた戦士たちの魂が、僕に力を与えてくれていた。
全ての灼かれた魂が僕のもとに集ったことを確認してから。
崩れかけたアウルヴァングル王の魂も、僕へと手を伸ばした。
僕は彼の手を取る。
……握った手に感じた熱は、腕を伝い、胸に宿った。
ルゥとゲルレイズさんは、涙を浮かべてそれを見ていた。
【やれやれ。美味しいところをすべて取る、とはいかないか】
不死神の《遣い》がそうぼやき――
【ふむ。準備は良いようだな、《最果ての聖騎士》よ】
邪竜が、厳かにそう告げた。
ヴァラキアカはこのような事態になって、なお焦って僕たちを攻撃しようとなどしなかった。
悠然と、僕たちが何もかもを終えるのを待っていた。
「優しいんですね」
【まさか】
傷を負った竜は、翼を広げ、《大空洞》に身構える。
【酒を寝かすようなものよ。すべての準備を整え、要素を揃え。希望に満ち満ちて向かってくる英雄どもを圧し潰し、その顔が絶望に歪む瞬間こそが――】
牙を剥き。
【我にとって、最高の悦びよ】
そう告げたヴァラキアカの声に、嘘はない。
実際に、幾度も幾度も。
もう数えきれないほど多くの英雄を、そうして退け、魂まで灼き滅ぼしてきたのだろう。
【さあ、今一度挑むが良い。《最果ての聖騎士》よ。
ここで貴様らを葬り、我が恐怖の来歴に一頁が加わるか。
ここで貴様らに討たれ、武勲として世の果てるまで語り継がれるか】
竜の全身に瘴気が満ちる。
【――今ぞ、決着の時よ】
その声に、僕はすぐには答えなかった。
神さまを仰ぐ。
「征きます」
【ええ。……再び、あなたに命じます】
女神の《遣い火》が、ひときわ大きく燃え上がり、輝きを発する。
そして彼女は、流転の女神は――
【ゆけ。竜を討ち、誓いを果たせ。わたしの騎士よ】
厳かに、僕に命を下した。
その言葉に、僕は仲間たちと、そしてドワーフの霊の戦列を見回し――
「――剣にかけて! 灯火にかけて! この胸に宿る、戦士たちの魂にかけて!」
黄金のつるぎを掲げ、
「邪悪なる竜を、討ち果たさん!!」
声をあげ、叫んだ。
「「「「オオオオオオオオオォォォッッ!!」」」」
応じるように、山をどよもすような、鬨の声。
「勇気の炎よ、燃え上がれ!」
「我らが敵よ、邪悪の終わりだ!」
「応報の時が来た! 正義が果たされる時が!」
「《戦士よ》! 《戦士よ》!」
「《運命は勇者を助く!》」
地をどよもす無数の叫びに応じるように、邪竜が大きく咆哮し――
最後の決戦が、始まった。