39
薄暗い《大空洞》のなか。
【かぁッ!】
振るわれるヴァラキアカの爪に対して――
「《加速》ッ!」
僕は《ことば》とともに加速する。
邪竜に向けて、まっしぐらに。
剣のような爪、人間の胴のような指をかいくぐり、懐へ。
轟、と頭上を、木の幹のような腕が通過する。
下手をすれば、この一撃で首をもがれていた。
……巨体は動きが鈍い、なんてイメージは偽りだ。
大きい存在は、それだけで強いし速い。
一歩の長さが違う。腕のひと薙ぎの範囲が違う。
耐久力だってそうだ。
アリが画鋲で刺されれば致命傷だけれど、象が画鋲で刺されたところで皮を貫けるかも怪しい。
そういう意味で、ヴァラキアカはまず強い。
単純に、物理的に、どうしようもなく強いのだ。
そのうえ――
「《刃よ》!」
懐に飛び込み、《おぼろ月》の穂先からマナの刃を伸ばし、脇腹の古傷らしき跡を狙って刺突を繰り出すけれど――硬い手応え。
身を捩った竜の、鱗に阻まれた。
竜のうろこ。
――仮に戦うとすれば、古傷を狙うことじゃな。
――竜の鱗は強靭じゃ。仮にブラッドとて、竜鱗の上から肉までは断てぬ。
ガスの言葉が蘇る。
ブラッドでも不可能な、竜鱗断ち。
けれど。
けれど僕だってもう、ブラッドの背を追うばかりじゃない!
「ッ、ああああああああッ!!」
足先から膝、腿、腰の捻りから肩、腕、手首。
全身の動きを連動させて、技巧と筋力の限りを尽くし、止められた刃を更に押しこむ。
【グぅッ!?】
ヴァラキアカが呻きを上げる。
強靭で巨大な鱗を貫通した、確かな手応え。
そして更に、
「《加速》ッ!」
【ぉおおおおおおおッ!?】
叩きつけられる腕の一撃から逃れつつ、《おぼろ月》を刺したまま加速。
腕全体で槍を抱え込むようにして走り、ヴァラキアカの脇腹にマナの刃で一直線の傷を描く。
そのまま立ち並ぶ大型炉の隙間に逃れようとするけれど、それを見逃すヴァラキアカではない。
【っ、はははッ、竜鱗の護りを抜くか! ……眠気覚ましには程良い刺激よッ!】
叫び、息を大きく吸い込む気配が背後でする。
おそらく放たれようとしているのは、瘴気を帯びた酷熱の竜の吐息だろう。
いくら魔法と奇跡で幾重にも守られているとはいえ、直撃したら骨まで焼けて爛れても驚くには値しない。
「……ッ!」
けれど、死の吐息が僕の背に叩きつけられることはなかった。
「相手はウィルだけじゃねぇぜ!」
「しッ!」
見なくとも分かる、メネルとレイストフさんだ。
僕が真正面から突撃している間に、すでに彼らは散開して左右に回り込んでいる。
二人は竜に正面から突撃できるかと言えば難しいけれど、それでも竜に痛手を与えられるだけの使い手だ。
メネルの《テルペリオンの銀の弦》が幾度も流麗な弓音を鳴らし、ミスリルの矢は《大空洞》の暗闇をその輝きで切り裂いて走る。
レイストフさんの無銘の剣は神速の剣技とともに閃き、ガスの《しるし》が刻まれた斬撃は、くねる蛇のように伸長してヴァラキアカを襲う。
メネルの狙いは、ヴァラキアカの黄金の隻眼。
レイストフさんの狙いは、ヴァラキアカが重心をかけている足の、その指だ。
それぞれに眼球を射通す程度の弓勢がある、指を切り落とすだけの鋭い斬撃がある。
いかに太古の邪竜といえど、これは無視できない。
【ちぃッ!】
首をひねり、足を引き、回避せねばならない。
そうして姿勢を崩せば、今まで通りの狙いを保つことはできない。
大型炉の隙間に到達すると振り返り、首を振り回しながら乱雑に放たれた吐息の余波を、大盾で防御する。
「……ッ!」
吹きつけられる黒煙めいたブレスの余波は、人間一人を丸焦げにしてなお余る熱気を帯びていた。
けれど全身にかけた防御の魔法と各種の祝祷、そして熱と毒に対する防護の《しるし》の刻まれた、魔法の大盾によって耐え凌ぐ。
――余波でこれだ。
直撃したら即死どころの騒ぎではないだろう。
魂ごと灼かれて輪廻から消えてしまうというのも、ひょっとして本当のことなのかもしれない。
【なるほど、なかなかの連携よ、なぁッ!】
爪で床の石畳をあっさりと抉り出すヴァラキアカ。
腕を振る勢いのまま、無数のつぶての弾丸と化しレイストフさんへと迫るそれが、ゲルレイズさんの《つるぎ砕き》の盾と鎧に叩き落とされる。
構わず追撃しようとするヴァラキアカに、今度はなんと、《大空洞》内部に建てられた古い木造の櫓が崩れ落ちてきた。
【……!?】
誰かと思えばルゥだ。
《金剛力》のハルバードで、壊しやすそうな櫓の柱を叩き砕いて竜へと傾かせたのだ。
振り払うヴァラキアカだけれど、砕けて散乱した木片に視界を塞がれる。
――今だ、と思った。
長期戦は、どう考えても、不利なことにしかならない。
神話のドラゴンがスタミナ切れを起こす、なんて考えづらい。
ヴァラキアカの体力は無尽蔵と見積もったほうが良いだろう。
耐久力だってそうだ。
ヴァラキアカは何発だって、僕らの攻撃を食らう余裕があるだろう。
だからこそ今も、本気で暴れ回らず小手調べのように、愉しみながら戦っている。
対して僕らは、ヴァラキアカの攻撃が一発でも直撃すれば終わりだ。
相手は何発受けてもまだまだ攻撃のチャンスがあり、こちらは一撃いいのを喰らえば終わり。
そうと分かって挑んだにしろ、とんでもない条件の不公平さだ。
まっとうに押し合って勝とうと思えば、まず針の穴を通すような攻防を何度も何度も成功させ……
そうしてようやく本気になったヴァラキアカに対し、更に難度の上がった攻防を、何度も何度も成功させてようやく勝利がちらつくかどうか、といったところだ。
高難度とか、そういうレベルじゃない。無理だ、不可能だ。
体力がもたない。集中力がもたない。一生分の幸運を使い果たしても、なお届かないほどの幸運がいる。
だからこそ。
――ここで、これに賭ける。
僕は槍と盾を炉に立て掛け、両手を広げた。
「《縛り付け》、《結び目よ》――」
莫大量のマナが収束し、奔る。
極めて正確に、高速に詠唱した《ことば》は流星のようにヴァラキアカに向かう。
「《束縛し》、《結びつけ》っ!!」
櫓の倒壊で視界を塞がれた邪竜を、マナの鎖で縛り付ける。
幾重もの、強固な束縛の陣だ。
【《破壊よ在れ》!】
即座に竜より放たれた《破壊のことば》が渦を巻き、鎖をねじ切ろうとするその瞬間には、僕は対応を終えていた。
右手で描いた《守護》を意味する《ことば》で渦動を妨げる。
左手で描いた《消去》を意味する《ことば》が渦動を消し去る。
【……ッ!?】
――三重魔法行使。
《彷徨賢者》の十八番であり、ずっと鍛錬を繰り返してきた僕の技でもある。
特にこの連携は、不死神の《木霊》とガスの戦いを見たあの日、目に焼き付いた――奥の手中の奥の手だ。
「《青褪めた》《死は》《等しき足どりで蹴り叩く》……」
周囲を経巡る莫大量のマナを、大きく腕を広げ掻き寄せるイメージで、一点にかき集める。
それをするさなかにも、朗々と《ことば》を紡ぐ。
更に同時に、流れるように《しるし》を描く。
【よもやそれを、実戦で放つか!】
「《貧者の小屋も》……」
竜の叫びも気にならない。
ほとんど忘我の、極度の集中状態で、僕は繊細なマナの調整と、略式の儀式動作をやりとげる。
「《王者の尖塔も》!!」
【――■■■■!】
はじめて、ヴァラキアカが無駄口を叩かなくなった。
軋るような竜独特の発声で、何か《ことば》を猛烈な勢いで朗唱しはじめる。
けれど、もう遅い。
それは本来、数人がかりで息を合わせて行う儀式魔法。
一人ではまず行えないはずの、究極の魔法のうちの一つ。
「――――《全存在の抹消》ッッ!!!」
肉体、魂、現象。森羅万象ありとあらゆる《ことば》と《ことば》の連なりをずたずたに分断し、遊離させ、無意味化してマナに還す、無色透明の崩壊の波動。
《ことば》による破壊の極地。
……《存在抹消》の破壊の波動が、ヴァラキアカへと叩きつけられた。
◆
まるで巨大な獣の顎に噛みちぎられるように、クレーター状に抉られた床。
波動により何もかもが消滅した空白を埋めようとするかのように、《大空洞》内部に風が吹き荒れた。
竜の姿は、ない。
波動に呑まれて消滅したように、見えたけれど――
「……や、った?」
ルゥが、きょろきょろと辺りを見回しながら言う。
「っぽい、な……」
「勝つ時は案外、あっけないもの……ですな」
メネルがそう言い、ゲルレイズさんも同意する。
レイストフさんは、辺りを慎重に見回してから、頷いた。
荒れ狂う風に、ばたばたと外套の裾がはためく。
「…………」
竜は消滅した。
相手が遊び気分でいるうちに。ルゥが作り出した隙をついて、極大の破壊魔法で存在ごと消し飛ばした。
そのはずだ。
――そのはずなのに、どうしてか勝利を確信できないのは、あまりにあっけなく、唐突だからだろうか。
戦いの全てが、魂を賭けた死闘で決着がつくわけではない。
格下のはずの相手にあっさりと刺されてしまうこともあるように。
格上の相手に、ひょんなことから安く勝ちが転がり込んでくることだってある。
……ある、はずなのに。どうにも、実感が湧かない。
果たして本当に勝ったのか。
あまりにもあっさりと転がり込んだ勝利に、誰しもが未だに実感が湧かない様子だった。
不思議と空虚で、手応えのない皆の間を、風が吹き抜ける。
びょうびょうと、吹き渡っている――
風が、吹いている?
それに気づいた瞬間、背筋にぞっと極寒の冷気が走る。
とっさに槍と大盾を構えると同時に、叫ぼうとした。
「駄目だッ、まだ――」
けれど、遅かった。
「が……ッ!?」
「……ぐあッ!?」
「ごふっ」
「ぐぅぅ……ッ」
四人分の鮮血が舞った。
そして同時に、構えた大盾に猛烈な衝撃が走り、吹き飛ばされる。
瓦礫の転がる床を何度も跳ねるように転げる。
――風から、爪が生えていた。
わけがわからない形容だけれど、そう表現するほかない。
吹き渡る風が、一瞬、鋭い爪に変化したのだ。
ふと。子供の頃、ガスから聞いた昔話が、脳裏をよぎった。
――動物に変身したものの、動物の思考に染まりきって獣と成り果ててしまった魔法使いの話。
「《変化》の、《ことば》……?」
愕然と、つぶやく。
【クハハ、ご名答】
四人の血を吸った禍つ風が渦を巻き。
再びクレーター上に、竜の姿が形成される。
《変化のことば》。
……人間はまず使わない。というか、使えない《ことば》だ。
動物に短時間変身するだけでも、思考が動物にひっぱられて帰ってこられなくなるリスクが高い。
まして無機物に変化するなど、もう一生、人には戻れなくなる覚悟がいる。
よほどの事情がない限り、弾丸がランダムに数発入ったリボルバーをこめかみに当てて、引き金を引くに等しい《ことば》なのだ。
けれど、そうだ。
そもそもヴァラキアカは、どうやってあの巨体で――この、地下の王国に侵入した?
【気づいたか。そうだ――】
邪竜が笑う。
愉しさをこらえ切れないとでもいうように、哄笑する。
【――我らは、ことばに親しきものなれば】
……上古の竜は神話の住人。
《創造のことば》に最も親しき存在。
【なるほど《存在抹消》であれば、我をも消し飛ばせような】
黄金の瞳が、僕を射抜く。
強靭な顎から、瘴熱の吐息が漏れいでる。
【――当てられれば、の話ではあるが】
《存在抹消》のことばの軌道を、完全に見切られた。
見切ったうえで、直後に強風が発生することも熟知し、《変化のことば》で消滅したように見せつつ風に変化。
炸裂後に吹き荒れる風に紛れて、爪で全員を薙ぎ倒す。
――究極の破壊魔法に対してさえ、対処法を熟知している。
いや。それどころか恐らく、他のどんな《ことば》を選択していたとしても、同じだ。
過去に遺失した《ことば》や《しるし》も含め、この竜はあらゆる戦場で、あらゆる《ことば》と戦い、その全てを把握し、打ち破ってきたのだ。
「…………」
これが、竜。
これが神代の、邪竜なのか。
心のなかに、冷たい気配が、じっとりと染みこんでくる。
僕は、それを知っていた。
――そいつの名は、絶望という。