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僕は竜と、戦うつもりだった。
けれど竜は、僕に対して頭を垂れようとしている。
【ドワーフたちとの因縁が気になるか?
確かに悪魔を主と仰ぎ、ドワーフたちとは戦い、財宝も得たが、しかしこれは傭兵仕事の必然であろう?
新たな主どのが、瘴気があれば山を復興しかねるというならば、どこぞに居を移しても構わぬとも】
もちろん、策略込みで。
リスクやコストを語り、論理立て。そして、底意地の悪い笑みを浮かべて、
【さあ、英雄なのであろう? ――我を御すほどの器を見せてみよ】
などと、言ってくる。
予想外といえばあまりに予想外の展開に、僕の思考は混乱しかけていた。
確かに論理ではそうだ。
竜のいうことは、もっともだ。
効率やリスク管理の観点からして正しいように聞こえる。
竜との戦いを回避し、竜を傘下におけば、当面は安全だし戦力も増強できる。
でも何か嫌な予感がする。
何か、騙されている気がする。
でもそれが何かわからない。
なんだ? 僕は何を見落としている――?
【我はあまり気の長い方ではないぞ……? 疾く、選ぶが良い】
そこに急かすような言葉。
混乱が加速する。
竜の言葉を撥ねつけるべきなのか? けれどそうすれば絶望的な死闘が始まる。
ならば竜の言葉を受け入れるべき? けれどそれは相手の目論見通りで――
ぐるぐるぐるぐる、同じことばかりが思考をめぐる。
……どうしようもない堂々巡り。
どこかで覚えがある。……前世だ。
あの暗い部屋の中で蹲り、似たようなことをしていた気がする。
「う……」
呻きが漏れる。
記憶が、瞬くように脳裏によぎる。
薄暗い部屋。
モニターの明かり。
踏み出せない自分。
何をするべきかすらわからない。
胸を焼く焦燥。
時が無為に過ぎてゆく。
それでも、何をするべきか、もう分からない。
呻きをあげる。
涙を零す。
それでも時は、無為に過ぎてゆく。
僕は何をすれば、救われるのか。
僕は何を選び、どうすれば良いのか。
もうそれすらもわからない。
誰か。誰か。誰か、どうか……
その、何も選べず終わった記憶が、より焦りを加速させた。
黒っぽい、粘つく何かが心の奥底の泥沼から這い上がってくる。
どうする。どうすればいい。どうすれば――
息が浅くなる、手足が冷え、硬直する。
それなのにじっとりと、背中には汗が滲む。
僕は、混乱の極地に達していた。
その時だ。
――そっと頭に、ちいさな手を添えられた気がした。
はっと天を振り仰ぐ。
もちろん、何も見えない。
暗い天井があるばかりだ。
けれど偶然か、必然か。
上を見上げたことで呼吸が深くなった。
深い呼吸とともに体内に酸素が取り込まれ、血中を駆け巡る。
鈍麻していた脳に、さわやかな空気が吹きこまれ、再び動き出す感覚とともに――
彼女の言葉が、よみがえる。
――あの日の誓いは、わたしと、あなたのものだから。
ああ、そうだ。
僕はもう、彼女に救われたのだ。
そうして誓った。
何よりも大切な、誓いを立てたのだ。
――恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
どくん、と心臓が脈を打った。
――たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
ぼやけていた思考が鮮明になってゆく。
――わたしはあなたを強め、あなたを助け、わが灯火で、あなたを守る。
緊張と混乱で停滞し、冷めていた身体に、再び熱が湧き上がる。
温かい火が、胸に灯ったようだ。
……もしも、勇気というものが形を持つのなら。
あるいはそれは、こんな感覚なのかもしれない。
頭のなかで、幾度も火花のようなひらめき。
面白いように思考が巡る。論理が組み立てられてゆく。
ヴァラキアカの提案は、その威容と圧迫感で冷静さを奪い、判断力を欠かせることも戦略のうちだったのだろう。
精神さえ安定してしまえば。呑まれさえしなければ。……あとは簡単なことだ。
いちど、振り返る。
「メネル、ルゥ、レイストフさん、ゲルレイズさん」
メネルは既に、広間であらかた回収したミスリルの矢を弓に添えている。
ルゥもハルバードを手に、いつでも動ける姿勢だ。
レイストフさんの手は剣の柄にある、神速の抜剣は準備万端だ。
ゲルレイズさんのどっしりした身体と大盾も、実に頼もしい。
「この話し合いの結果次第で、全てが決まります。覚悟を」
そう言うと、皆、頷いた。
……覚悟の決まった、戦士の顔だ。
確認を終えると、振り返る。
【ほう……?】
ヴァラキアカが唸る。
竜から見ても、僕はずいぶん変化して見えたのかもしれない。
【決まったか。では、選ぶがよい、《最果ての聖騎士》よ。――平和か、死か】
面白がるように問われたその言葉を。
「選びません」
あっさりと切って捨てる。
「選ぶのはあなただ、ヴァラキアカよ」
◆
邪竜が、ぴくりと身を震わせた。
【ほう。――我が、何を選ぶと?】
問いかけに、一歩を踏み出し見上げる。
校舎のようだと思った竜は、今ではいくらか小さく見える。
圧迫感と威圧感によって、心が生み出した偽りのサイズ感だったのだろう。
「改心するか、否か」
まっすぐに問いかける。
邪竜がここにきてはじめて、ぎょっと目を剥いた。
……そうだ。
冷静に考えてみれば、簡単な話だ。
面従腹背の強力な邪竜を麾下におくなど、一見して論理的に見えても、やはり愚かな選択肢でしかない。
仮にヴァラキアカを自陣営に引き込んだとしよう。
その次にヴァラキアカは何をする?
素直にいうことを聞く? おとなしく眠りを貪る? 馬鹿な。
呑気にそんなことをしていたら、いずれ竜を危険視する僕に殺されてしまう。
ならばどうするか。
暗躍するに決まっている。
己の存在価値を高めるため。
切り捨てられないようにするため。
邪竜は僕に対して乱を呼び込み、敵を増やし、争いを起こし続ける。
それも竜の力を必要とするような、大規模で過酷な戦いだ。
そうなれば僕は、ヴァラキアカを切り捨てられない。
……そうして僕が竜の力を求め、竜とともに戦っていけば、竜は僕にとって不可欠のシンボルマークとなってゆく。
そうなれば、もう、ますます切り捨てられない。
竜は僕の部下と名乗りながら、僕のもとから飛び立つ日までの安全を確保するため、僕とその周囲のすべてを謀略で食い荒らす。
神代から生きる竜の陰謀を、僕ごときが制せるとも思えない。
僕は暗躍を知りつつ、士気を保つためにも竜を抱え続けるほかはない。
まるで、タチの悪い麻薬だ。
「確認しましょう。あなたが提示する『平和』は、『僕とあなたの間の限定的な平和』だ。
けっして『僕の平和』ではないし、『無辜の人々の平和』でもない。――違いますか?」
その問いに、竜は笑った。
さも愉快そうに、痛快そうに。
【ハハハ! 然り、その通りよ】
神代より生きる真なる竜は、《創造のことば》にもっとも親しき生き物のうちのひとつ。
そして《ことば》は嘘偽りにより、その力を弱める。
竜は誤魔化しはしても、正面から問いかければ決して嘘をつかない。
「であれば、僕の条件はやはり一つだ。――改心を」
【クク……何を改めるというのだ?】
「その常に戦乱を求め、謀略を巡らす狂熱の性を」
まっすぐに。
黄金の隻眼を見つめる。
「あなたが改心し、誓い、真に僕に庇護を求めるというなら」
平和に生きるというのならば。
もはや必要なとき以外に血を求めず、善なる神のもとで、その狂乱の熱をおさめて生きるというのであれば。
「僕も灯火の神に誓って、あなたを護ります。この命の限り、あなたをあらゆる敵対者から守りましょう」
竜も人も、変わらない。
真に嘆くものがいれば、手を差し伸べる。
罪なきものを害する邪悪あらば、戦う。
――黒髪の、無口な神さまに立てた、あの日の誓いのとおりに。
「それが僕の生き方です」
そうすると、決めたのだ。
「さあ! 改心か、しからずんば戦いか! 返答を伺いましょう、竜よ!」
叫ぶような問いに、竜は翼を動かした。
ぶわり、と熱気と瘴気が吹き寄せる。
【――みごと!】
最初に発されたのは、称賛だった。
【よくぞ、《竜の謎掛け》に答えてのけた。《最果ての聖騎士》よ】
ぴんと張られた翼。
くい、と引かれた顎。
【徒に力を振りかざす無謀蛮勇の徒ではない。また命惜しさの小賢しき保身者でもない。
勇気と知恵を持ち、己が信ずる正道を征くその気構え、神妙なり! まさしく、かの英雄らの後継よ】
先程までの弛緩した怠惰な姿勢は、もはや見られない。
面白がるような空気など、欠片もない。
【――我は汝を、真の勇者と認めよう】
そこには、偉大なる神代の竜がいた。
【その上で、改心の選択、断じて無用!】
ごう、と竜が吼える。
【我はヴァラキアカ! 《神々の鎌》にして《災いの鎌》!
そして瘴毒と硫黄の王にして溶岩の同胞! 瘴毒は殺し、害し、溶岩は煮え、滾ってこその生よ!
戦乱! 災厄! 武勲! 財宝! 死! 贄の乙女! 英雄! それら無くして何が竜か?】
……不死神スタグネイトは邪竜ヴァラキアカを指して俗物といった。
確かに俗っぽくはあるのだろう。
現世に執着はしているし、金銭、闘争、安全、眠り。
ヴァラキアカが執着するそれは、いずれもいわゆる低次の欲求だ。
だけれど、その本質は――
【我はヴァラキアカ! 神々も恐れし、最強最古の竜、ヴァラキアカなり!】
自己実現。
竜としての己を、まっとうし続けること。
竜として、己が命を燃やし続けること、なのだ。
びりびりと肌が震えるほどの叫びにさらされながら、僕は場違いにもそんなことを考えていた。
【……英雄よ。英雄に率いられし戦士どもよ。
ここで貴様らを葬って、我が恐怖の来歴に一頁を加うるも良し。
ここで貴様らに討たれ、武勲として世の果てるまで語り継がれるも良し】
がちがちと牙がなる。
巨大で強靭な筋肉の塊が、動き始める。
交渉は決裂した。
竜は改心を拒んだ、もはや戦うほかない。
【さあ、竜の炎で魂まで焼かれ、輪廻より消え果てる覚悟あらば……許そうぞ! この我に、挑むが良い!】
そんな中で。
僕はなぜか、少しだけワクワクしていた。
竜退治だ。
恐るべき竜を相手に、己が手にした鋼を頼りに、挑みかかる。
……竜退治だ!
僕はブラッドのように、戦いに浪漫を求めない気質だと、そう思っていた。
それでも、この状況には、抗いがたい浪漫があった。
ヴァラキアカは間違いなく尊敬できる敵手であり、そしてこれまでで最強の敵だ。
挑む価値が、ある。戦う価値が、ある!
「《最果ての聖騎士》、ウィリアム・G・マリーブラッド! ――参るッ!」
古風な騎士道物語のように、名乗りを上げて。
僕は、神代の邪竜に挑みかかった。