メイシン湖の謎2
「レイア、逃げろ!」
「何を言う。あと一息だろう。バカを言うなよ」
レイアは不敵に笑うが、まさか見えていないのだろうか。追い詰められた竜の周囲の空間が歪み、途方もない威力の魔術が急速に練り上げられていく様子が!
竜は意味も無くつららを打ち出していたわけでは無かった。己の魔術を増幅させる魔法陣を作り上げるため。決戦の時へ向け、虎視眈々と好機をうかがっていたのだ。迂闊だった。
今からでは、シンの干渉はとても間に合わない。
「レイアさん、逃げてください! 早く!」
それまで応援に専念していたクリスが悲鳴にも似た叫び声を上げた。
尋常ではないクリスの様子に、レイアはようやく動きを止めた。しかし、不思議そうに竜を見上げるだけで依然として動き出そうとしない。
やはりレイアには見えていないのだ。魔法使いなら誰でも見て取れるレベルの不吉さを秘めた魔法の前兆にすら。
「レイアーーーーーっ!!」
シンは無我夢中でレイアを突き飛ばした。気づけば竜に正面から相対していた。
「貴様、なにを!」
「があああああああああああああああああああああ!」
レイアの抗議を無視するように、首長竜の魔術が完成した。
シンは通常指向性をもたせ、相手に干渉し、打ち消すために使う魔法を自分の前面に全力展開した。五層重ねの魔術結界。絶望的な力比べの開始だった。
すさまじい冷気の波動が打ちつけられ、三層までが一瞬で消し飛んだ。シンは消し飛ばされるそばから、結界を重ね張りしていく。彼我の速度差はほぼ無し。ならば魔法陣の恩恵分だけ首長竜が有利だ。持久戦になればそう遠くない未来、シンは敗れる。一瞬で悟った。
「レイア、クリス。逃げるなら逃げろ。二人が逃げる時間くらいなら稼げる」
憎悪に赤く染まった竜の両目はシンを捕らえて離そうとしない。
シンが足止めされている限り、他の二人の安全は担保されているも同然だ。ならば、取るべき選択肢は一つだ。考えるまでもない。
「……わたしのせいだ。私が魔法を使えないばかりに」
「いや、俺も悪かった。ちょっと調子に乗り過ぎた」
レイアが魔法を使えないことはなんとなく予想できていたのだ。彼ばかりを責められない。自分の危機管理能力の欠如が招いた結果だ。敗北を受け入れるしかないのは悔しいが、三人全員が予選敗退するよりは少しでも望みを繋ぎたい。シンは二人のことが好きになりかけてきていた。自分は無理でも、他の二人には予選を突破して本戦に出場して欲しいと思う。
「があああああああああ! ぐああああああああ!」
竜はますます猛り狂う。魔法の威力もうなぎ上りだ。勝利の味に酔いしれるように長い尾を振った。
「ダメだ! もたない!」
シンの粘りはあっさりと限界を迎えた。
最後の盾が無残に砕け散った。
これにて三人とも仲良く予選敗退だ。アニマの期待には応えられそうにない。
シンは全てを諦め、目をつぶった。
だが、どれだけ待ってみても残酷な結末は訪れなかった。
「……逃げるのは、イヤです」
おそるおそる目を開けると、砕け散ったはずの魔術結界が復活していた。それは儚げで、いまにも竜の魔法に押しつぶされそうになりながらも、首の皮一枚で繋がっていた。
「もう逃げるのは、イヤなんです」
クリスがシンの魔術結界を切れ間無く引き継いでいた。
「シンさん、諦めないでください。レイアさんも。僕はレイアさんに会場で助けられなかったら、シンさんに後押しされなかったら、結局大会には出なかったと思うんです」
クリスは片膝をつき、歯を食いしばり、それでも両手はしっかりと竜の方へ向けて、魔法を相殺していた。
「二人なら、きっとやれるはずです。だから、もう少しだけ、夢を見続けさせてください」
折れかけていたシンの心には活力が、陰りがさしていたレイアの瞳には光が戻ってきた。
「レイア、もう一度だけ跳べるか?」
「誰にものを言っている。何度だって跳んでみせるさ」
二人は一度だけうなずきあった。それで十分だった。するべきことは二人ともわかりきっていた。
「いくぞ!」
自らを鼓舞するように雄々しく吠えると、レイアは結界から抜け出した。
竜の横手から回り込み、湖の岸辺から跳び上がる。
狙いは竜の首ただひとつ。だが、いかに運動神経抜群のレイアといえども、己の身長の三倍以上の高さにある竜の首元までは届かない。そのせいで、これまで致命傷を与えられなかった。
しかし、今回は違う。そのためにシンがいる。
レイアが飛び出すと同時にシンはレイアの身体能力を魔法でブースト。
下手を打てば、限界以上の負荷がレイアの肉体にかかり、その体を内側から破壊してしまう。
細心の注意を払い、しかし大胆に魔法を解き放つ。
シン自身は攻撃も防御も既に眼中にない。レイアに全てを託した。
「頼む。一撃で決めてくれ!」
シンは正真正銘、最後の力を振り絞った。反撃の余力はもはや残されていない。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
レイアが雄叫びとともに大上段から長剣を振り下ろした。
一瞬遅れて赤い三日月が竜の首に浮かび上がり、鮮血が噴きだした。レイアの渾身の一振りが竜の首筋を断ち切った証だった。
「ギィャアアアアアアアアア!」
断末魔の悲鳴とともに、竜の巨体がぐらりと揺れた。
シンは祈るような気持ちで竜の最期を見届ける。
そのまま力を失い、湖に倒れ込んだ。
しばらくの間、ぴくぴくと痙攣していたが、やがて動かなくなった。
「やった、のか?」
誰とはなしにシンは呟いた。
信じられないという思いとありえないほどの達成感がドクドクと心臓を脈打たせる。溜まった熱が体から引いていかない。興奮が津波のようにあとからあとから押し寄せてくる。
「やった! やったぞ! 私たちの勝利だ! 勝ったんだ!」
レイアは両手を上げ、何度も何度も跳び上がって喜びの舞を披露している。その横で、クリスはぺたんと尻餅をついて放心状態だ。
「クリス、勝ったぞ。少しは喜べよ」
シンが肩を叩いてやっても、クリスはまだ事態が呑み込めていないのか、不思議そうな顔をするばかりだ。
「そうだぞ、クリス! 私たちはやったんだ」
レイアはクリスを無理やり立ち上がらせて、背中をバシンと一発する。
クリスはバランスが取れず、また尻餅をついたが、その顔は笑っていた。
「お二人とも凄かったです。やっぱり二人とも凄いです。あんな怪物をたった二人でやっつけてしまうなんて」
きらきらした目をして褒めちぎってくれるクリスには悪いが、シンはレイアと顔を見合わせて苦笑した。
「クリス、この勝利は三人の勝利なんだ。クリスがどうしても二人だと言い張るなら、誰かが抜けなければならないが……残念ながら俺かな。止めをさしたレイアは差し置けないし」
「悔しいが、私は役立たずだった。あそこまでお膳立てされれば、誰でも倒せるさ。抜けるべきは私だろう」
二人で調子を合わせると、クリスは目に見えてうろたえだした。そんなクリスに、シンは心の中で「ありがとう。きみのおかげだ」と付け加えた。
「俺はクリスも凄かったと思う。レイアはどうだ?」
「私も同感だ。最初から言っているだろう。これは私たちの勝利だ。私たち、とは私、シン、クリス。この三人のことだ」
「そういうことだな」
シンがレイアの言葉を引き継ぐと、クリスはもう何も言わなかったが、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまった。
「勝って泣くなよ。クリスは本当に泣き虫だなぁ」
「ふふ。いいじゃないか。それもクリスらしいさ」
霧が晴れたあとの群青色の空には、綺麗な半月が浮かんでいた。