メイシン湖の謎
「どうやら追いついたみたいだな」
耳元で聞こえるか聞こえないかの小さな声で囁かれて、シンは何故か気恥ずかしくなった。レイアからは柑橘系の甘い匂いがした。何か香水をつけているらしい。彼ほど美人なら不自然さは感じないが、シンは謎の敗北感を味わった。アニマを筆頭にして、自分の周りには美形の男が多過ぎると思う。深みにはまる前に危うい考えを断ち切った。詮無いことだった。
「しっかし、腹立つー。なんであんな奴らの言いなりになっているんだ」
「そう思うなら助けに行っても」
「ダメだ! 話がややこしくなる。この前は我慢しきれなかったが、私は見守ることに決めたのだ」
そう言って尾行を再開する。
三兄弟は基本的に何もしないようだ。先頭のクリスが一人で切り開いた道を、ピクニック感覚で楽しそうについていく。追跡を開始してから化け物には一度も遭遇していない。道中は平穏そのものだ。
「あれはなんだったんだろうな」
「あれとはなんだ?」
「俺たちが最初に出会ったときは豚の化け物に襲われただろ?」
レイアは少し考える素振りを見せたが「たまたまだろ?」とあっさり結論づけた。
突然クリスがぴたりと足を止めた。
シンたちが隠れている茂みの方を、首を傾げながら見ている。
身を潜め、息を殺し、存在を自然に溶け込ませる。三兄弟の緩い雰囲気に流されかけていた。呑気にレイアと無駄話に花を咲かせている場合では無かった。あくまで尾行中。当の本人にばれてしまっては苦労が全て水の泡だ。冷や汗がしたたり落ちた。
「おい! 誰が止まっていいと言った!」
「……すみません」
トォンに叱責されて、身を縮ませる。シンはそんなクリスの姿に胸を締め付けられた。
あの様子では、クリス以外の誰一人として、シンたちの気配を感じ取れてはいないだろう。やきもきしているのは、どうやらレイアも同じらしい。何度も勇み足を踏んでいた。
レイアの我慢が限界突破する前に、目的地へ到着できたのは僥倖だった。
樹冠に覆われ、遮られていた青空がぽっかりと素顔を覗かせていた。
気の短いレイアのことだ。あと少しでも遅れていたら、成金三兄弟に見るも悲惨な整形手術を半強制的に施していたに違いない。
エメラルドグリーンの湖面に陽光が降り注ぎ、きらきらと反射している。湖畔には開いた白い花弁の中心に黄色の蕾をつけた野生のマーガレットが群生していた。
エルフが水浴びしているという噂が立つのにも納得だ。場合が場合で無ければ、シンもひと泳ぎしたいくらいだ。森の中で汚れた体を洗い流せば、さぞ気持ちが良いだろう。
そぞろな思考を断ち切り、メイシン湖に視線を戻した。待てど暮らせど、一向にエルフが現れそうな気配は無い。それどころか、動物の気配すら感じられない。不気味に静まり返っている。
メイシン湖の謎を解明する。その謎とは、噂は眉唾だと証明することだろうか。それは何か違うような気がする。何しろ、千ポイントのクエストだ。解決すれば、一気に予選突破が見えてくる。謎と呼ばれるにふさわしい秘密が隠されているに違いないとシンはある種の確信を抱いていた。
辺りに霧が立ち込め、急激に視界が悪くなってきた。足元から冷気が忍び寄ってくる。不穏な空気。ぞくぞくと体が震えるのは寒さだけのせいではないとシンは思う。
「来ないじゃねーか。これだから、コイツに任せるのは反対だったんだよなぁ」
「そもそも、メイシン湖に行こうと言い出したのは誰でしたっけ?」
「俺、覚えてる」
三人が抜群のチームワークで好き勝手なことを喚きだした。標的にされたクリスは、小動物のように震えている。
「そろそろ頃合いだろう。変な意地張ってる場合じゃない。助けよう」
「いや、ダメだ! クリスは一人でも立ち向かえるはずなんだ。あんなやつら束になったところで本当は屁でもない。だから」
「わかった。わかったよ。もう少しだけ様子を見よう」
レイアは我を忘れるほど焦っていた。焦り過ぎて、うっかり口を滑らせるほどだ。シンは一度もクリスの名前を口にしていない。三兄弟はクリスをクリスとは呼ばない。ならば、答えはおのずから知れる。レイアは決して認めないだろうが。
「エルフのかわりにお前が水浴びして楽しませろ」
「いいっすねー。さっすが兄者! 男が違う!」
「脱―げ! 脱―げ!」
逃げられないようにクリスを取り囲み、脱げ脱げと大合唱だ。わきわきと両手の指をいやらしく動かし、クリスに迫る。
シンはいつでも魔法を放てるように準備だけは整えておくことにした。レイアにはレイアの考えがあるように、シンにはシンの考えがある。クリスに指一本触れようものなら、それが戦闘開始のゴングだ。今回ばかりは、引くつもりは無かった。
「貴様ら! いい加減にしろ!」
すっくと立ち上がり、抜き放った剣の切っ先を突きつけ、レイアが叫んだ。
なんとなくこうなる予感はしていたが、先陣を切って飛び出してくれて助かった。シンもとっくの昔に我慢は限界に達していた。
「ま、そういうわけだ。戦うもよし。引くもよし。クリスさえこちらに渡してもらえれば、あとはお好きに」
恭しく一礼してみせる。
「ま、またお前か! いったいぜんたい何者だ!」
「悪人に名乗る名など持ち合わせていない! 問答無用!」
レイアが剣を一振りすると、トォンのズボンが足元までずり下がった。的確に衣服だけを切り裂く狙いすました美技に惚れ惚れする。
三兄弟は早くも戦意喪失、顔を赤、青、白の三色に振り分け、荷物をまとめて逃げ出した。
「お、覚えてやがれー!」
威勢良くお決まりの台詞を吐き捨てたが、シンは三兄弟の存在に脳の容量を最小限割り当てるのすらもったいないと感じている。二度と関わり合いになりたくなかった。
剣を鞘に戻すレイアをクリスは不安そうに見ているが、レイアは目を合わせようとしない。
「あの、ありがとうございました」
小さな声で礼を言い、勢いよく頭を下げた。
レイアはクリスの方を見ようとしない。あくまで無視を決め込む腹積もりのようだが、そのせいで、クリスはおろおろしてしまっている。
やはり二人の間には何かあるらしい。アニマがいれば、ド直球を放り込むだろうが、あれはアニマだから許される所業のような気がする。
「シンさんも、その、ありがとうございました」
「実は何もしてない。レイアが『どうしても』と言うからついてきただけだ」
「そんなことは言ってないだろ! ねつ造するな!」
むきになって大声で否定する。レイアはばつの悪そうな顔をした。
「二人は知り合いか?」
「そうです」「違う!」
意見が真っ向から対立する。
「ち・が・う・よ・な?」
クリスの両肩を押さえ、一音一音はっきり区切って発声する。クリスはこくこくと首を縦に振ったが、答えは丸わかりだった。
「まぁ二人が知り合いでも、そうでなくても、俺にとってはどっちでもいいよ。それより、メイシン湖の謎の方が気にかかる。異常だ、これは」
一連のいざこざの間にも、状況は進行を続けていた。
多量に水分を含んだ空気が急激な温度低下により、霧を発生させている。現象としては理解できる。しかし、霧はどんどん深く重たくなり、それにつれて辺りは真夜中のように暗くなってきた。濃霧に遮られ、日光は届かない。いかにも何か出そうな雰囲気になってきた。
レイアは姿勢を正し、帯剣に手を伸ばした。
「引くならいまのうちだぞ。きみが逃げても笑わない。むしろ報酬が独り占めできておいしいくらいだ」
「ジョーダン。俺だって本選に出場するためにここにいる。こういうクエストなら願ったりかなったりだ」
軽口を叩きあうが、武者震いは止まらない。
確実に何かいる!
遺伝子に刻み込まれた危険察知本能が告げている。その本能は訴えかけている。逃げろ、逃げろ、逃げろ、と。竦む足と震える体を抑えつけて、シンは魔法使いとしての自分を呼び起こす。理性で本能を拘束する。震えは止まった。
「きます! 左右に跳んでください!」
クリスの小さな体からは想像できないほど大きく明瞭な声。
それが開戦の合図だった。湖面から砲弾のような何かが打ち出された。
シンは命じられるままに右に跳んだ。レイアは左に、クリスは後ろに、それぞれ散開した。三人が元いた場所に着弾したのは、ひと一人など容易に押し潰してしまうであろう巨大な氷球だ。無数のつららが放射上に突きだし、標的を串刺しにする。シンには「いつ」来るか、正確なタイミングは計れなかった。クリスの合図が無ければ初撃で全てが終わっていたかもしれない。
「クリス、ナイスだ」
「いいぞクリス。その調子でやってくれ」
二人の声に、クリスは生真面目にうなずいた。
湖面が盛り上がり、水中から異形の化け物が姿を表した。
ぬらりとした体表を持つ首長竜が、その長い首をもたげ、シンたちを見下ろし、威嚇するように叫び声を浴びせかけた。
大気が怯え、草木が震える。
だが、臆して逃げ出すような人間など一人もいない。それはクリスとて例外では無い。しっかりと相手を見据えている。
首長竜が吼えた。
その威声に呼応するかのように、湖から大小さまざま何本ものつららが出現し、浮かび上がった。大きなものはシンの体ほどもある。
黒天から怒濤の勢いで降り注ぐ。
魔法に対抗するには魔法しかない。だが、全てを防ぎきる必要は無いし、またできそうもない。シンは致命的な軌道を描くものを瞬時に見極め、干渉分解を試みる。私生活で毎日のように大天才さま――アニマのことだ――のタコ殴りに苦渋を舐めさせられてきたシンにとって、首長竜の魔法はそれほど驚異では無かった。打ち消し、軌道に干渉し、無力化する。
「本当に凄いな、きみは」
「シンさん、かっこいいです」
脇の二人から賞賛の声が上がった。
「いいから、やつをやってくれ!」
レイアやクリスには他意が無い。
だからこそシンは嬉しい反面、それ以上に気恥ずかしかった。
アニマはよく褒めてくれるが、魔法使いとして二人は対等ではない。だが、レイアやクリスは同じ土俵の上にいる。初めての経験だった。
「任せろ! きみにだけいい格好をさせておくのはつまらん!」
裂帛の気合とともにレイアが地を翔ける。振り下ろされた首長竜の前肢を軽やかに避け、駆け抜けざまに、その指先を切り落とした。
レイアの身のこなしは、完全に首長竜の動きを上回っていた。敵の攻撃はかすりもせず、レイアの剣は次々とその肉を切り裂いていく。まさに接近戦のスペシャリスト。シンはレイアの動きを目で追うのがやっとだ。
シンも負けてはいられない。首長竜の放つ魔法を打消し、レイアを全力でサポートするのに徹する。レイアはシンの意図を察し、攻撃の手を緩めない。さらに激しく接近する。
レイアとはまるで旧知の仲のように息が合う。二人のコンビネーションの前では首長竜を倒すことなど赤子の手をひねるようなものだとさえ感じられた。
残念ながらクリスの出る幕は無さそうだ。もっとはっきり言ってしまうと戦力外だった。魔法を放つそぶりは見せるが、首長竜の方へ手を伸ばすだけで最後の一歩が踏み切れていない。そのせいで、両手を振ってレイアを応援しているような感じになってしまっている。その方が良いかもしれない。子どもが相手をするには、少々手強すぎる相手だ。
首長竜の動きが鈍くなってきた。打ち出されるつららも、シンが干渉するまでもなく、まるで的外れの方角へ飛んでいく。
首長竜の体に傷が増え、流れだした血液が湖を赤く染めだしたころ。
「があああああああああ!」
怒りに打ち震える竜が鋭い牙の並ぶ大口を開いた。
断末魔の雄叫びにしては力強く長い。竜の目は爛々と輝き、むしろ嗤っているようにさえ見える。
竜の叫びに応えるように、湖の周囲に散らばり、地面に突き立った氷柱の数々が輝きを増した。
シンは言いようのない恐怖を感じ叫んだ。