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「だがまあ、綺麗さっぱり失敗したぞ」
「失敗に綺麗もなにも無いと思うんだけど、一応聞いておく」
どうぞと水を向けてやると、ラティスはしみじみと言った。
「封印を解いた瞬間に失敗した」
さくらの脳内で、グレミアがスキップしている。大きな扉の前で鍵を取り出し、開けた瞬間に吹き飛んで最後には星になって、きらっと光る。
「……ギャグマンガだよね、それもう、絶対」
「よくわからんが、考えたとおりでいい。しかし――困ったな」
「困ってる割には落ち着いちゃってるように見えるんだけど……」
もう少し狼狽えるような態度でもいいと思うのだが。それともまさか手遅れなのだろうかと、蒼くなっていると、ラティスは首を振った。
「いや、キメラ神の方は仮止めしておいたから、すぐに何か起こるってことは無い」
困っているのは別のことらしいが、何にしても時間の問題だ。放っておけば、せっかく復興しかけた人々の暮らしは死霊王が攻めてきたときと同じか、それ以上に酷いものになるだろう。
「でも急いだ方がいいよね?」
「まあ、そうなんだが……」
ラティスは煮え切らない態度で、さくらをちらちらと見ている。
「なに?」
「いや……このまま行っちまっていいのか?」
「何か忘れ物あったっけ?」
寝起きで出てきたままだったから、大層な準備をしているわけではないが、必要だと言われた記憶も無い。回収用の棒を腰に差してきたのは、条件反射だ。
「そうじゃなくて……お前、黙って出てきただろ?」
確かに早朝に目が覚めて、そのままラティスを追いかけてきてしまったので誰にも何も告げていない。
「あれ、ラティスと、砦に一度戻ったの?」
「ああ。いきなりいなくなったからな。一応、帰ってないか確かめに戻ったんだ」
案の定、さくらの姿が見えないと、みんな心配していたという。
「そっか。みんなまだ寝てたみたいだったからそのまま出てきちゃったんだよね。じゃ、はっちゃんが壁を壊す前に、さっさと済ませて帰ろう」
「そう、だな……」
まだ何か言いたげなラティスを、さくらは真正面から見据えた。
「さっきからなんなの。あ、もしかして、まだ準備が整ってない?」
「グレミアと一緒にするなよ。こっちの準備はお前が呼ばれてからずっと進めておいたんだからな」
にわか仕立ての術と一緒にするなと、一蹴された。そうなると、何を気にしているのか――ラティスの顔をじっと見て、さくらは気づいた。なるほど、そういうことか。
「あ、そ。なら、あとは、えーと、キメラ神を追い出して、鍵を閉めるだけでしょ?」
「そうなるな」
「じゃあ、早く行こう?」
じっと押し黙るラティスに、さくらは笑いかけた。
「大丈夫、信用してるよ。ラティスなら、グレミアみたいに失敗しないって。あたしまだ、お土産決めてないんだよね。砦に戻ってみんなに挨拶もしてないし、この後忙しいんだから早く行こうよ」
一息に言うと、ラティスはイモを丸ごと飲み込んだみたいに息を詰まらせた。
「……そうか。そうだな。ぐずぐずしてないで行くか」
咳払いしながらラティスが手を差し出した。さくらはその手を取った。
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
ネフィが全開の笑顔で手を振ってくる。
「行ってくるね」
ネフィに手を振り返すと、ラティスがつま先で地面を叩いた。叩いたところを中心に、青白く光る印が現れて、光に見とれているうちに景色が揺れた。
「……何度も聞くけど、なに、ここ」
光が消えると、景色が一転した。霧が消えて、代わりに現れたのは、一言で言うなら混沌。
さんざん揺らしたバケツの水の中に、絵の具を次々と流し込んだら、こんな感じになるかもしれない。バケツの中をのぞき込んでいるだけなら、目を逸らせば済むことだが、、周囲の景色がすべて、ぐるぐる回る絵の具の模様なので目の逸らしようが無い。しかも絵の具同士は混ざり合うことなく、不規則に収縮を繰り返しているので、見ているとくらくらしてくる。
「酔いそう」
「呑んでもいないのに器用だな」
「この景色に酔うんだってば」
「そりゃ我慢しろとしか言えないな」
さくらの手を引いたまま、ラティスは歩き出した。下を見ても同じようにぐにゃぐにゃしているので、歩けるようには見えない。が、引っ張られて足を踏み出せば、地面があった。感覚のギャップでまた酔いそうなので、ラティスの背中に視線を固定する。
「で、ここはどこなの」
「そうだな……封印空間の中、とでもいうか」
「封印て、グレミアが外しちゃったんじゃないの?」
「封印できる空間、の方がわかるか」
「それならなんとなく……って、え、ここ!?」
ぎょっとして立ち止まると、ラティスも驚いた顔で振り返る。
「なんだよ、いきなり」
「だってそれって、キメラ神がいる所じゃないの!?」
「他にどこに行くと思ってたんだ。玄関ノックして、お邪魔しますとでも言うと思ってたのか」
思ってた。
いつもそうなのだが、どうして心の準備とかそういう時間をくれないのだ、この男は。
「だってグレミアが……封印を解いた瞬間に……」
ごくりと唾を飲み込んで言えば、ラティスは軽く頷いた。
「ああ。なんつーか、一薙ぎだったろうよ」
「……見てたの?」
「そんわけかあるか。俺が来たときには全部終わってた。仮止めするのに忙しかったし、残留思念をかき集めてもその程度しかわからなかった」
「寝起きの悪い神様なんだね……」
「眠っていたわけじゃないと思うがな。もがいてたら急に動けるようになって、そのままうっかりグレミアに当たっちまったってのが近いか?」
無意識の事故というわけだろうか。自信満々に封印を解き放ったグレミアは、見向きもされずに吹き飛ばされたのだというのなら、憐れすぎる。
「なんていうか……ろくな死に方しないなって思ってたけどさ……」
「死んだのかどうかも怪しいぞ」
「え」
どういう意味かと聞き返せば、
「言っただろ。俺はキメラ神を他の世界に追い落とす準備をしてたんだ。ここには異界に繋がる道をいくつか用意してある」
「えーと……他の世界に吹き飛ばされた可能性があるってこと?」
「ああ。しかしそうすると、死ぬより大変だぞ。キメラ神が多少無茶やっても問題無さそうな世界を選んでたしな」
「それってどんな……」
「快適な生活にはほど遠いってことだな」
ラティスは正面を向いてしまったので、どんな顔をしていたのか見えなかった。
「そっか……」
それがいいとも悪いとも、さくらには判断が付かない。さくらにはグレミアを裁く権利がない。例えばリンナーリシュなら、相応の罰だというのだろうか。セザは、生ぬるいと言うだろうか。ハーティーアはどうだろう。ガセンやルコーやナルバクは、キューディスやマリオーシュの村の人たちは――次々と知り合った人たちの顔を思い出しても、誰も笑っていないように思えた。たぶん、それでいいのだろうと思う。
ラティスが立ち止まった。滅多にない真剣な顔で、振り返る。
「用意はいいか?」
「え、ここ?」
辺りを見回しても、相変わらずぐにゃぐにゃした景色が広がっているだけだ。
「この先だ。ここに仮止めがある。準備がいいなら始めるぞ」
珍しく、心の準備をする時間をくれた。さくらは、深呼吸して、頷いた。
「いつでもどうぞ。と言っても、あたしがすることなんて何も無いだろうけど」
「そうだな。手を掴んでられないから、適当にどこかに掴まっててくれ」
さくらはラティスの手を離して、服の裾を掴んだ。少々頼りない気もするが、大丈夫だと言われたので覚悟を決める。
「始めるぞ」
ラティスは片手をかざして、足下をつま先で叩いた。
コ――――ン――――……
光ではなく、音が、響いた。
ぐにゃぐにゃしていた景色が、いきなりぴたりと止まる。大勢の何かが一斉にこちらを見たような気がして、さくらは身体を硬くした。
ミシリ、ときしむような音がした。
「な、に……?」
ミシ、ミシ、ピシ、ミシ、ピシミシ――音は絶え間なく続いて広がっていく。
ラティスは振り返らない。服を掴む手に力を込めて、さくらは音の出所を探した。一番大きな音は、足下からも聞こえた。視線を落とせば、絵の具の筋のような模様は、いつのまにかヒビにに変わっていた。氷が割れるように、ミシミシと音を立ててて、ヒビは徐々に大きくなっている。
(これ、床が抜けちゃうんじゃ――)
ラティスに向かって叫ぶ前に、パリンと大きな音がして、すべてが弾けた――!
(落ちる!?)
床が抜けたのなら、残っているのは落下だ。
さくらはとっさに目を閉じて、全身に力を込めた。
「……」
何も起こらない。
そっと目を開けてみる。目の前にラティスの背中がある。握っている服の裾も、ちゃんとある。
「……ラティス……」
「静かにしてろ」
鋭く言われて、さくらは口を閉じた。
(うう……気持ち悪いんだけど……)
周囲の景色がまた変わっていた。混沌から、虚無へ移行した。詩的に表現するならこうだろう。
濃い灰色一色に塗り尽くされた周囲は、全くもって距離が掴めない空間になっている。
とん、とラティスがまた、つま先で地面を叩く。乾いた音と同時に、光が、真っ直ぐ正面に向かって走る。数メートル先で、光は何かにぶつかって、仕掛花火のように上に広がった。
「……あ」
巨大な柱だ――光に沿って見上げたそれは、霧の中にあった〈柱〉と同じか、それ以上に大きい。
「あれは……」
「あれが、キメラ神だ」
ラティスが呟いた。
ハーティーアが心配すると壁を壊すのがデフォルトになってきました……いや、まだ壊してないですよ?
今回もありがとうございました!




