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自宅アパートの玄関を開けて、靴を脱ぐ。
堂島さくら(どうじま さくら)の平均的な日常は、そこまでだった。
「あれ?」
靴を脱ぎながら電気をつけようとして伸ばした手が、スイッチに触らない。就職して一人暮らしを始めて一年と数ヶ月。いまさら位置を間違えるなんて、よほど疲れてるのだろうか。いらいらしながらさらに手を伸ばして――壁にも当たらない。両手を広げればぶつかる幅の玄関で、何の冗談か。
「――ようこそ、異界のお客人」
正面から声がした。顔を上げると、いつの間にか薄ぼんやりした光がいくつも並んでいる。ろうそくのように小さな光の群れの中に、一人の青年が立っていた。
(……誰?)
丁寧に切りそろえられた髪は、光の中で白く浮き上がって見えた。よく見ると、白と言うよりは銀のようだ。肌の色も白い。細い顎から続く首筋も白く、対照的に身につけている物は上着もズボンも黒ずくめなので、まるで生首が浮いているようだった。
さくらは脱ぎかけた靴を履き直した。全力疾走可能が謳い文句の通勤パンプスだ。
「すみません部屋を間違えました失礼します」
一息で吐き出すと、研修でたたき込まれた見事なお辞儀を披露して、回れ右をする。あれは絶対、ヤバい宗教にはまったヤバい人に違いない。
外に出たら警察に通報だ――バッグに手を入れたところで、さくらの動きは止まった。
「……玄関が無いんですけど……?」
ついさっき開けたはずの玄関ドアが、無い。暗くて見えないのかと手を伸ばしても、ドアノブは、どこにも無い。
さくらは、おそるおそる振り返った。
青年は同じ状態で佇んでいた。やや、首が傾いているようにも見える。
「扉はしばらく開きませんので、こちらにどうぞ、異界の人」
「……いや、あの、その前に扉がですね……」
開かないも何も、扉そのものが無いことに気づいていないのだろうか。さくらは半歩下がった。玄関ドアは無くなってしまったので、他の逃げ道を探さなくてはならない。背後には何も無かったから、在るとすれば、おそらく青年の後ろだろう。
(こっちに来いって言ってるし、まずはゆっくり歩いて近寄って、向こうが油断したところで走り抜ける。うん、これしかない……ってか、なんでこんなことに……玄関開けたら知らない場所だったとか、異世界トリップしたわけでもあるまいし――)
逃走ルート確保と悪態と愚痴を同時進行で並べ立てて、さくらは大きく瞬きをした。
「……トリップ?」
そういえば先ほどから青年はさくらのことを、『いかいのひと』と言っていたような。
「……」
玄関を開けたら知らない場所。
薄暗い遺跡めいた室内と、神秘的とも言えなく無い青年。
最後に『いかいのひと』が『異界の人』に変換されて、さくらの心は決まった。顎を引いて胸を張り、つかつかと青年に歩み寄った。
「すみません、もしかしてここって異世界ですか?」
「あなたから見れば、そうなりますね」
怪訝そうな顔をしながらも、青年は肯定した。確証は、得られた。
(ついに――ついに夢にまで見た異世界トリップがついに、このあたしのもとに!)
日常からの脱出に憧れて読み漁った異世界トリップ小説が次々と脳裏に蘇る。平凡な生活を繰り返していた主人公は、ある日異世界に入り込んで、なぜかすごい能力を身につけて大活躍するのだ。
「そっか……異世界……ふふ」
拳を握って感動を噛みしめながら、さくらは平凡な日常に心の中で別れを告げた。さようなら、ルーチンワークの日々。あたしは今日からここで、勇者として生きていきます。
「あのう……」
ひとりの世界に入り込んでしまったさくらに、青年が心配そうに声をかける。
「大丈夫ですよ? 別に家に帰れないわけじゃないですから」
「え、帰れるの!?」
異世界で大活躍し、時にはかつての故郷を思い出して涙するところまで妄想していたさくらは、いきなり現実に引き戻された。
「帰れないと困るでしょう、お互い」
「そりゃまあ……って、お互い?」
聞き返すと、青年は頷いた。
「ええ。こちらも用が済んだ相手にいつまでも居座られても困ります」
はっきりきっぱり言われて、さくらの心は少なからず傷ついた。
「居座るって……そういう言い方はないんじゃない? あれでしょ、困ってるんでしょ、魔王とか暴れちゃってて、異世界から勇者を呼んで退治してもらおうとか、そういう腹づもりだったんでしょ?」
「いえ?」
青年は、心底不思議そうにさくらを見つめ返した。
「どこでお聞きになったのか知りませんが、そういうのは全部片付きましたから」
「ええっ! もう魔王を倒しちゃったの?」
「そう言う呼び名もありましたが……正確には、死霊王ブループクレドです」
勇者物語はいきなりエンディングを迎えた。しかも用済みなのでもう家に帰されてしまうらしい。
「えええ……じゃ、あたし、何しにここに来たの……」
「平たく言ってしまうと、後始末ですね」
なにやら勇者らしくない響きがする。
呆然とするさくらを、青年はもう一度促した。
「明るいところで話しませんか? 私はここでも構いませんが、あなた方には少々暗いと思います。椅子くらいはお出しできますよ」
思ったとおり、青年の背後に開けっ放しの扉があった。青年は、さくらがのろのろと歩き出すと、先に立って扉をくぐった。緩やかな坂道を上った先に、もう一つ扉が現れて、青年が押し開くと柔らかな光が差し込んできた。外に出たのかと思ったが、振り仰いでも青空は見えなかった。
「うわ、なにこれ……霧?」
周囲は乳白色に染まっていた。深い霧が発生しているようだ。周囲の景色は数メートル先までしか見えない。景色と言っても、見える限りは草の一本も生えていない灰色の地面が広がっているだけなので、晴れていても期待はできなそうだ。
「こんなに深い霧なんて初めて見たかも」
振り返るとごつごつした岩山が見える。扉は、その岩山の下に張り付いていた。不思議なことに岩山の周囲はほとんど霧が無いようで、上の方までよく見える。視線を上げていくと、岩の色が途中から不透明に変わっていた。形も山と言うよりは、まっすぐな石柱のようだ。
(岩って言うか……ガラス?)
巨大な岩の台座に巨大なガラス柱を差し込んだ、そんなふうにも見える。
「ねえ、あれって何――」
呼びかけると、青年は「少し待ってください」と言い残して今出てきた扉の中に戻っていった。それならと、さくらはバッグを開けた。スマホを取り出して、カメラを起動。
「あれ?」
いくらスイッチを押しても、画面は真っ暗のままだ。何度押しても、何の反応も無い。
(まだ電池残ってたと思うけど……電波が届かないとかは、関係ないよねえ)
予備バッテリーは持ってなかったので、諦めてスマホをバッグに戻す。ふと目に付いた腕時計の秒針も止まっていた。
「あれ、こっちも止まってる?」
「どうしました?」
青年が椅子を二脚引きずって戻ってきた。古ぼけた木の椅子だ。向かい合わせに置くと、どうぞと勧めてくる。本当に椅子だけしか無いらしい。
「うん、スマホが……って、何でもないから気にしないで」
予備バッテリーの話をしても、きっと分からないだろう。さくらは片方の椅子に腰を下ろした。少し迷って、バッグは膝の上に置いたままにする。
残った椅子に腰掛けて、まず青年が名乗った。
「さてと、私はディアンと言います。あなたのことは何とお呼びしたらいいですか?」
明るい光の中で改めて見ると、ディアンと名乗った青年ははさくらと同じくらいの年齢のように見えた。髪は、やはり銀だった。周囲の霧に反射して、キラキラしている。どうみても日本人には見えないが、言葉が通じるくらいで驚かない。
(なんといっても異世界なんだし)
すべてがこの一言で解決する、便利な言葉である。
「あたしは、堂島さくら」
「ドージマサクラ?」
「うーん、それだと木の種類みたいなんで……じゃ、さくらでよろしく」
「わかりました」
青年の方も、さくらを上から下まで眺め回していた。こちらは、例えるなら就職面接官の視線だ。使えるかどうかだけを判断している、事務的な視線である。
「ではサクラ、先ほどこちらの事情にずいぶん詳しいような話しぶりでしたが」
「詳しくはないと思う。さっきのあれって、異世界トリップ物のテンプレだし」
「とりっぷ……の、てんぷれ、ですか?」
「うん、そう。なんていうのかな、要するに、よくある話ってやつ?」
「よくある……」
しばしの間が空いて、青年は深刻な表情になった。
「……つまりサクラのいたところでは日常的に魔王が降臨していると? それともこうして召喚されることに慣れているんでしょうか?」
「だったら面白いけど、どっちも外れ。よくある作り話ってことだから。だいたい魔王と戦わなくていいってところで、すでにテンプレからずれてるんだけど、いったいどういうこと?」
最後はつい詰問口調になってしまったが、ディアンは気にしていないようだ。
「てんぷれがよく分かりませんが、先ほども言ったとおり、死霊王ブループクレドとの闘いは終了しました」
「で、その後始末してこいってってことは……まさか、死体を埋めてこいとか……?」
引きつりながら尋ねると、ありがたいことにディアンは首を横に振った。
「いえ、彼のものは死体も残りませんでしたので、その必要はありません。彼のものが操っていた死霊たちも同様に。残っているのは――剣です」
「その死霊王とやらの?」
「いいえ」
本当にさくらが何も知らないのだと悟ったディアンは、少し考え込んでから死霊王との闘いの始まりからを簡単に話してくれた。