未来からの贈り物
実験的に書いた作品ですので、よろしければ率直な感想を聞かせていただけると嬉しいです!
僕とリセの出会いは、僕が高校に入学する直前の頃だった。
僕たちが出会ったのは、小高い丘の頂に、まるでケーキにデコレーションされたチョコレートの飾りのようにちょんと乗せられた、小さな公園で、僕は、ちょうど母親が買い忘れた夕食の食材を買いに家を出たところだった。そのとき彼女が何をしていたのかは分からない。ただ、彼女は緑色のフェンスに寄りかかるようにして夕日を眺めていたように思う。その眼下に広がる景色を眺めていたのかもしれない。特に見るべきものの無い、ありふれた街の光景だと思うけれど、引っ越して来たばかりの彼女からすればそれは目新しく写ったのだろう。
そう。
思い出した。
確かあのとき彼女は、「前に住んでいた街にはこんな奇麗な景色が無かったから」と答えたのだ。
僕はそう答えた彼女の横で、同じように景色を眺めてみた。予想外に遠くまで見渡せることを除けば、やはりそれほど大した感動は無かったように思う。緩やかな稜線を描く山並みをなぞるように、青くくすんだ木々が地層のように堆積している。雄大な自然と言えば聞こえはいいが、つまるところ山の隙間を縫うように切り開かれた地方都市に見られる、よくある光景だ。
そんなものに目を輝かせるなんて、よほど都会から来たのだろう。僕は眼前の景色から、あっさりと興味を失った。そもそも、このベッドタウンが出来た時から僕はここに住んでいる。かれこれ、十年以上も昔から、住んでいるのだ。彼女のように十分も二十分も直立不動でつぶさに観察することなんてなかったけれど、小さい頃にこの公園で遊んだこともあるし、ここからの景色は見飽きるほど見ているといっても過言ではない。
じゃあどうしてその場をすぐに立ち去らなかったのかと問われれば、それは真っ赤な夕日に照らされた彼女の横顔に、不覚にも見とれてしまったからだった。
彼女の横顔は、
なんていうか、
そう、
月並みな表現だけれど、
天使のようだった。
もっと上手い表現がないか考えるけれど、語彙の少ない僕にはちょっと難しい相談だ。
とにかく、可愛かったってわけ。
ああ、むしろこういった直接的な表現の方が恥ずかしい。
太陽から届けられたいくらかの光線のうち、その上澄みだけを掬って閉じ込めたように、彼女の瞳がキラキラと輝いていて、まるでプリズムを閉じ込めたクリスタルのように輝いていた。
真っ赤に上塗りされた黒髪が、彼女の背中の低いところで、まるで映画のワンシーンのように揺れている。
僕たちの頭上高くを、飛行機の編隊が横切っていた。僕は昔話によくある、夕日の絵を思い浮かべる。山があって、小さな小川が草原の間を流れている。空には、カラスが飛んでいる。そんな風景。
カラスの代わりに、飛行機は長い飛行機雲を引きずるようにして飛んでいる。
雲ひとつない空に、少しくらい反抗したくなったのかも知れない。
それとも、サービスのつもりだろうか。
リセは夕日が完全に沈むまでたっぷりその景色を眺め続けてから、ようやく、僕の方を向き直って言った。
「あなた、名前はなんていうの?」
「僕? 僕はコウだけど」
僕は顔がこわばらないように、声が引きつらないよう気を付けながら言った。その目論みはどうやら上手くいったようだった。
「コウ、ね。わかった。わたしの名前は、リセ。引っ越して来たばかりなの。よろしくね」
幸運なことに、リセが引っ越して来たのは僕の隣の家で、高校も同じだった。彼女は出会ったその日、刺繍の入ったセーラー服にプリーツスカート、赤いネクタイという、僕と同じ高校の制服を着ていたのだけれど、うかつにも僕はそれに気づかなかったのだ。
僕はその日からわざと早めに準備をして、二階にある自分の部屋の窓から、彼女が出てくるタイミングを見計らい、偶然を装って一緒に登校するようにした。我ながら少し気持ち悪いと思うけれど、まぁ、ギリギリ、許容範囲内だと思うことにする。聞いたことはないけれど、クラスメイトだって、好きな女の子にアタックするのに、これくらいのことはしているのではないか、と自分に言い聞かせた。
なんという幸運の巡り合わせか、僕とリセは同じクラスになった。正直なところ、思い通りにことが運びすぎて、僕は今後の人生の運をほとんど使い果たしたのではないかと、少しだけ不安になった。普段は神の存在も、占いも、全く信じないのに、現金なものだ、と自嘲する。
案の定、彼女の転校は滅多に無いセンセーショナルな話題となってクラスに迎え入れられた。退屈な地方都市の、どこにでもあるような学校の出来事としては、たったひとりの生徒の転入でも、それなりに話題になるものだ。それが美少女ともなればなおさらである。
リセは容姿だけでなく、頭も良かった。外国語など、ネイティブの講師と普通に日常会話ができるくらいで、これには僕も驚いた。
さらに驚いたのは、運動も得意ということだった。彼女は天然なところが少しあって、頭が良いのに言い回しを間違ったり、変な四文字熟語を使って周囲を笑わせていた。これは僕の勝手な思い込み、もしかしたら偏見なのかも知れないけれど、そういう、少し抜けた子はなんとなく運動ができないイメージがあったのだけれど、彼女は全く逆もいいところだった。
まったくの蛇足だけれど、どうして天然の子が運動ができないと思うのか、ということに答えておくと、これはいくらかの経験則から導かれたものなのだけれど、そういった子は得てして自分の中のイメージを膨らませすぎる嫌いがあるように感じるからだ。言葉を間違える、というのはつまり、自分の中にある言語を自分だけの用法で使ってしまうということ。なんとなくのニュアンス、自分だけのイメージだけで話しているから、細かい文法とか、そういうことをすっ飛ばして話してしまう。その人の中にある言葉のイメージが、現実を塗り替えてしまうのだ。
そういう子は、身体を動かすことも苦手だ。自分の中にある動きのイメージに、筋力や稼働域といった現実的な要素をまったく考慮しないから、イメージだけが膨らんで、自分の身体が実際にどう動いているのか、ということを考えられない。というのはまぁ、僕の素人考えであって、決して褒められたものじゃないのだろうけれど。あながち、間違っていないんじゃないかと、僕は勝手に思っている。
ともかく、走る、跳ぶ、投げるという基本動作に関して、彼女は陸上部と同じか、もしかしたらそれ以上のポテンシャルを発揮した。ポニーテールを揺らしながらトラックを疾走する彼女を眺めながら、野郎どもが口笛を吹き鳴らした。それは何かを揶揄するのではなく、多分、正真正銘の感嘆からくるものだ。なぜなら彼女の運動能力は、下手をするとその辺の野郎どもに肉薄しており、気を抜くとあっさり抜きかねられないものだったからだ。
面白かったのは、基礎能力だけは優れていた彼女が、こと球技になると途端に駄目になることだった。
正確にいうと苦手なわけではない。キャッチボール程度の運動や遠投ならば、むしろ得意だ。ただ、彼女はバスケットボールやソフトボールといった球技のルールをこれっぽっちも知らなかったのである。
「リセ、ソフトボールはわかる?」
「柔らかいボールでしょう?」
万事が万事、この通りなのである。これには、同じチームになったクラスメイトの女子たちも苦笑するしかなかった。
「このボールをね、そのバットで打つの」
「バットっていうのは、この棒のことね? それで、どこに入れたら点になるの?」
「違う、違う。それは、前にやった、バスケとサッカーの話ね。ソフトボールは、打ったら走るんだよ。ダイヤモンドを一周したら、一点」
「ダイヤモンド? ダイヤモンドって宝石……じゃないわよね?」
体育の授業前に、一生懸命ルールを教えるクラスメイトたちの会話に、僕も笑ってしまった。この頃から、リセはどこかの金持ちのご令嬢なのでは、という噂がまことしやかに囁かれるようになった。ずっと大事に育てられてきたせいで、常識を知らない、というわけだ。
その頃には、僕もなるほど、そうかも知れないと思うようになっていた。確かに僕の隣に建っている彼女の家は大きい。僕の家の四倍くらいはある。どうも、彼女と、彼女の両親以外にも沢山の人が住み込んでいるらしい。メイドや執事とは言わなかったけれど、多分、似たようなポストの人たちが何人かいるのだろう。
彼女の家をぐるりと囲む鉄柵越しに、彼女が何人かのスーツ姿の女性たちと話をしているところを見たことがあった。彼女が話し終えると、女性たちはみんな頭を下げて屋敷に戻っていった。
またリセの不思議な一面は、それだけに収まらなかった。
彼女は何故か、いつもラジオを通学鞄のベルトに括り付けて持ち歩いていた。銀色の、小さな、古いヤツだ。まるで、ひいおじいさんから受け継いだような、おんぼろラジオで彼女はいつも何かを聞いている。ただ、お金持ちだったら、どうしてあんな骨董品みたいなものを大事にしているのだろう、という疑問は残る。例えば、形見だろうか。大事なものだったらいけないので、僕はそれを極力口にしないことにしている。
ただ、僕は登校中に一度だけ、聞いたことがあった。
「何か、面白いものが聞こえる?」
彼女はただ微笑んで、イヤホンジャックからケーブルを引き抜いた。スピーカーから、音が漏れる。それは、僕の予想を裏切って、ほとんど意味の無い言葉──いや、ノイズにしか聞こえない雑音だった。ブツブツと音が切れて、不快な不協和音が鳴り響く。僕は眉を寄せて、スピーカーから彼女の顔へと視線を上げた。
「えっと、これは、何?」
「何に聞こえる?」
彼女は微笑みながら、首を傾げる。
僕はしばらく考えてから、正直に言った。
「ただの雑音にしか聞こえないけれど」
彼女はただ微笑んで、僕を見つめていた。
そう。その時は、笑っているように見えた。でも、もしかしたら悲しんでいたのかも知れないと、あとになってから考えた。どうしてそう思ったのか。なんとなく、そんな予感があった。卵を割る前に、その中がどうなっているのか、僕は知っている。それと同じような、感覚。きっと、割れば、それが溢れ出す。僕はそれを割るべきか、そっとしておくべきか。気づくべきだったのだ。そして、考えるべきだった。気づいた時には全部、遅かったけれど。そういうものなのかも知れない。全部、手遅れになる呪いが、僕にはかけられていたってこと。誰がかけたのかは、わからないけれど……。
真っ青な空を見上げると、やっぱり飛行機が飛んでいた。
けれど、今日はたった一機だけ。珍しい。他に影は見えない。まるで群れからはぐれてしまったカモメみたいに、翼を広げて、ゆらゆらと揺れている。
僕たちは人気の無い、まるで熱された鉄板のようにじゅうじゅうと音を立てているアスファルトの道を黙って歩いた。
「こういう暑い日は、海に行きたいね」
と、僕は言った。
「海? 海って、もしかして、あの海かしら」
彼女が不思議そうに言ったので、僕は思わず吹き出してしまう。
「まさか、海を見たことが無いとか、言うつもり?」
「え? ううん、そんなことはないけれど」
彼女は少しだけ、頬を膨らませるようにして言った。それが明らかに対抗心から来ているのが分かったので、僕は胸中で苦笑する。きっと、表情に出してしまったら、ロクなことにはならないのが分かっていた。でも、そっぽを向いた彼女の顔は、あと少しのところで口から出てしまうくらい可愛かった。
しばらく歩いていたら、彼女が唐突に口を開いた。
「海に行って、泳ぐのね?」
その言い回しがあまりにも面白くて、結局、僕はまた吹き出してしまう。
「そう……」
僕はごまかすように、顎の汗を右腕で拭った。
「都会の人は、プールでしか泳がないんだ?」
「ううんと、どうかしら……他の人は知らないけれど、わたしは、そうかな」
「海をみたことはあるんでしょう? そのときは何をしにいったの?」
「ああ、いえ。海にいったわけじゃなくて、ただ、近くの道から眺めただけ。乗っていた車の窓から、見えたから」
「まぁ、確かに、都会の海は堤防で囲まれてるからね。ちょっと、泳げないかもね。遠出しないと、砂浜なんてないのか」
彼女をフォローするように言う。
「海かぁ。行ってみたいな」
僕の言葉を聞いているのか、いないのか。リセが遠くを見ながら言ったので、僕もそちらの方を向く。中途半端な太陽の光に照らされた薄鈍色の街並が、まだ眠たげにぼんやりと佇んでいるだけだった。ずっと遠くに見える、新しくできた工場の煙突が、真っ白い煙を吐き出している。
「今度、みんなで行こうか」
本当は、随分前から言おうと考えていた言葉だったけれど、僕は急に思いついた風を装って言った。
「本当?」
リセは嬉しそうに両手の指を合わせる。
「そう……もう一週間もすれば、夏休みだし」
「海は、どちらの方向?」
「えっと、厳密には、東西南北どの方向に移動しても、いずれは海に着くよ。……でも、まぁ、現実的なのは、北か南かな。ただ、北の海は結構危ないから、止めた方がいい」
「危ないの?」
「うん」
僕は進行方向を見つめながら喋り続ける。
「北の海は荒れてるから」
「南は、温厚?」
「そう……比較的ね」
「へぇ。海にも、いろいろあるんだ」
「そう。海にもそれぞれ事情があるんだよ」
リセは、意味が分からなかったのか、全然笑ってはいなかったけれど、言ってて、自分でおかしかったので、僕は笑った。
※
クラスメイトに、カナっていう女の子がいる。どちらかというと、目立たない、大人しい子だった。目立っている子たちの輪には決して加わらないけれど、その一歩外側で、一緒に笑っているような子だった。リセはその輪の中の、むしろ中心にいるようなタイプだったので、彼女と仲が良いと知った時は少しだけ意外に感じたことをなんとなく覚えている。
カナはいつもくしゃくしゃの髪の毛で、大事そうに本を抱えている女の子だった。一度だけ、僕は一体それが何の本なのかを聞いたことがあったけれど、その会話の内容は忘れてしまった。どこかの国のおとぎ話だったかも知れないし、有名な小説だったかも知れないけれど、記憶していないということは、少なくとも当時の僕にとっては興味の無いものだったのだろう。きっと、それは今も変わっていないと思うけれど。
そういえば、リセも未だに後生大事に古びたラジオを鞄に括り付けているから、そういうところで気があったのかも知れない。懐古主義、というのだろうか。
時々、カナとリセは放課後、誰もいない教室で二人きりで話している。そういう場面に、何度か出くわした。初めての時は教室のドアを開けて中に入ろうとしたけれど、折角、楽しそうに話しているのだから、そっとしておいた方が良いと思って、それ以来、僕は二人が話しているところを邪魔しないようにしていた。だから、何を話していたのかまでは、僕は知らない。
僕とカナも、二人きりで話をしたことが一度だけある。
リセを含めたクラスメイトたちと喫茶店で待ち合わせたときに、僕ひとりだけが先についたことがあった。その時に、たまたま彼女が店内にいた。彼女は四つあるテーブル席の奥側で、じっと本を読んでいた。随分と熱中していたようで、彼女は僕が近づいてもしばらく気づかなかった。
ようやく彼女が顔を上げて、驚いてくれたので、僕は満足してそのまま彼女の反対側の椅子に座ってみることにした。
店員が注文を取りにきたのでメロンソーダをオーダーする。
彼女はしばらく本で自分の口元を隠すようにしていたけれど、店員が戻っていったのを見届けて、何かを諦めるように、開いていた本をテーブルの上に置いた。彼女の手許には、飲みかけのコーヒーカップが置かれていた。
「えっと、何か用?」
「用が無いと話しかけちゃ駄目?」
「ううん」
彼女は首を振った。
「ただ、その、コウくんから話しかけてくれるの、初めてだから……」
「そうかな?」
僕は昔の記憶を引き出そうとしたけれど、カナとの思い出が少なすぎるのか、上手くいかなかった。彼女の言う通りかもしれない、と思い直す。言われてみれば、確かに不思議ではある。カナとは、家はそれほど近くないけれど、小学校からの付き合いだ。もう何年になるのだろう……。
「その、ちょっと、嬉しい……かも」
「え?」
僕は聞き返したけれど、ちょうどその時、店員がトレイにメロンソーダを乗せてやってきたので、カナは黙ってしまった。僕も諦めて、目の前に置かれたメロンソーダを見つめる。とても細かい泡が浮かんでは消えていく。言葉も、泡のように消えていくものだから、しょうがない。
新しい泡を掬うように、僕はグラスを細長いスプーンでかき混ぜた。
どうして、彼女に話しかけようと思ったのか。もう僕には思い出せなくなっていた。
話題を探すけれど、小さい頃から使っている机の引き出しの中身みたいに、価値があると思えるものは何も無かった。ただ、消しゴムが見つからないくらいには、困ったことになった。
「そうだ」
アイスクリームを何度かソーダに沈めたあと、僕はようやく口を開いた。
「今度、みんなで海に行こうって、話してるんだ」
「そう」
「一緒にどうかな?」
「ありがとう」
カナは僅かに微笑んで、消え入りそうな声で、呟くように言った。
「……でも、止めておく」
お礼を言われたのに、まさか断られるとは思わなかったので、僕は少しだけ驚いたけれど、結局、肩を竦めて、頷くだけにとどまった。
「そう? わかった」
バレないように、こっそりと息を吐く。この頃には、僕のメーターの針は席に座った時とは反対側に振り切れていた。そう、後悔って、こんな感情だったかも知れない、と思い出す。
僕はメロンソーダのストローを噛みながら、しばらく沈黙に耐える作業に専念した。上に乗っていたアイスクリームは既になくなっていて、あとは緑色のソーダだけしか残っていない。僕はアイスクリームとソーダが混ざり合った境目を食べるが好きなので、いつも頼んでしまうのだけれど、クリームを溶かして上澄みを飲んでしまうと、途端にメロンソーダを注文したことを後悔してしまう。この時も、クリームを食べた時間の倍以上の時間が経っていたけれど、ソーダはほとんど残ったままだった。
会話も、こうした上澄みだけ掬って、楽しいところだけ味わえたら良いのに、と思う。特にこうした重々しい空気は苦手だ。
「そう言えば」
僕は彼女の本のことを思い出した。
「前に一度、聞いたかも知れないけれど……カナって、いつもなにを読んでいるの?」
彼女はもとからクリッとした瞳を、さらに大きくして、二度、瞬いた。そんなにおかしいことを言っただろうか、と僕は不安になったけれど、彼女はやがて弁明するように息を小さく吸って、それからテーブルに置いたままの本の表紙を撫でた。
「なんていうか、とても説明するのは難しいの」
彼女はそれだけ呟くと、ずっと忘れていたんじゃないかと思うようなコーヒーカップに口をつけた。きっと、温くなっているだろう。僕は、そういう飲み物は苦手だ。暖かいか、冷たいか、どちらかはっきりしているものが良い。
「そんなに、難しい話?」
僕の言葉に、彼女は困ったように首を傾げた。普段、教室では絶対に見ないような表情だったので、とても新鮮だった。
「ううん。ごめんなさい」
とりあえず頷いたものの、僕には何を謝られたのか、まったく分からなかった。
「とある島にね、二つの国があったの」
「えっと、何の話?」
「あ、ごめんなさい」
また、謝られた。
「この、本の話なんだけれど……」
「ああ」
僕が頷くと、彼女は安心したように話を続けた。
「その二つの国はもともとひとつの国だったんだけれど、ちょっとしたいざこざがあって、二つに分裂してしまったの。それ以来、仲が悪くて、ある時、些細な事件がきっかけで戦争が始まってしまったの」
「それは、なんていうか、物騒な話だね」
「そう……そうなの。それでね? 片方の国の王様が、ある作戦を考えたの。それは、毒を使うことだった」
「毒……」
僕はまるでテープレコーダーのように言葉を繰り返す。
「その毒はね、とても強力なもので、一袋あれば島中の人たちを殺すことができるくらいのものだった。その毒は代々王家に伝わっていて、決して使ってはいけないって言い伝えられていたんだけれど、王様は我慢できずに使ってしまったの。だって、それを使えば簡単に戦争が終わらせられることが分かっていたから。王様自身も、いざ戦争を始めてみたらいろんなところに行ったり、会議をしたりして、大変なことばかりだっていうことが分かり始めていたし、この方法だったら自国の民が傷つくこともない。そう思っていたのね。それで、王様は部下のひとりに命じて、それを相手の国の、いくつかの街の井戸に投げ込ませたの。もちろん、効果はすぐに現れた。城下町の人たちや、大きな街の人たちはみんなそれで死んでしまって、相手の王様は戦争を続けられなくなったの。それで、相手の王様は毒を使った王様に降伏して、お願いに行ったの。解毒剤が欲しい、毒を止めてくれって。そうしないと、相手の国の人たちは水を飲めないから、毒を飲まなくても死んでしまう……。でもね、そこで王様はようやくあることに気づいたの。この毒には、解毒剤なんてないんだってことに。それに、気づいたときにはもう何もかも手遅れだった。毒を撒かれた街の人たちは結局、みんな死んでしまったのよ」
「なんていうか、壮絶な話だね」
「この話にはまだ続きがあるの」
彼女がひと呼吸置いた。
「毒はね、決して無くならなかった。薄くもならなかったの。それで、毒は井戸から、さらにもっと下の地面の奥まで染み込んで、やがて島全体の地下水を汚染したの。そのせいで、島のほとんどの水は飲めなくなってしまった」
「みんな死んでしまった?」
「ううん。毒を使った王様と、一部の人たちは生き残った……でも、王様は結局、責任を取らされて殺されてしまうの。でも、それでもちろん、毒が消えるわけじゃないから、残った人たちは貴重な水と土地を巡って、ずっと争い続けることになる……未来永劫にわたって」
「なんていうか、……それは、不幸だね」
いろいろと言葉を探してみたけれど、結局それくらいありふれたものしか見つからなかった。
「そう。これはそんな悲劇」
彼女はそこで、にっこりと微笑んでみせた。どうして笑えるのだろう、と思ったけれど、よくよく考えてみたら、笑うのが正解なのか、そうしないのが正解なのか、僕は答えを持ち合わせていない。
「コウくんなら、どちらが良い?」
「え?」
「毒で死ぬのと、残されるのと」
「どうかな……」
僕は考えるフリをしてグラスを手に取ったけれど、いつの間にかソーダは空になっていた。しょうがないので、氷を口に含んでみる。
正直、僕は少しだけ、カナのことが怖くなっていた。できれば席を立ちたかったけれど、クラスメイトたちはまだ現れないし、質問にも答えていない。
窓の外に視線をやると、誰もいない道路の向こう側の低い位置に、飛行機雲が見えた。カナの視線を避けるように、僕はその飛行機雲を追いかける。
「わたしは、いやだな」
「え?」
カナの方へと向き直る。見たことの無い目だった。いつもおどおどしているような視線が、今は鋭く、熱い。
少しだけ、その熱が、僕にも伝播する。
「わたしは、毒を飲むのも、残って戦うのも」
「あ、ああ、うん、そうだね。僕も、それが良い」
僕は無理矢理、頬を吊り上げて言った。
「そう、そうだよね。誰だって、そう」
彼女は本に乗せていた左手を、ゆっくりとスライドさせた。
「……でも、でもね」
僕は、息を飲んだ。
彼女の瞳が、僕を捉えた。
吸い込まれそうな、深い、緑がかった瞳。
少し怖いけれど、
美しい。
じっと一点を見つめている。
僕を見ているのか、
それとも何か違うものを見ているのか。
カナの手が、僕の手に触れた。
「戦わないためには、──戦わないといけない」
そう、言った。
「生きるためには、──死なないといけない」
少しだけ言葉の意味を考えたけれど、よく分からなかった。
それよりも、彼女の手の温もりが。
「わたし、怖い」
意図せず、氷が砕ける音がした。
自分が噛み砕いたのだ、ということに気づくまで、数秒かかった。
「でも、コウくんがいるから」
カナは色素の薄い顔をわずかに上気させて、
「わたしはきっと、大丈夫」
そう言った。
それから、三日後。
カナは姿を消した。
こつ然と。
消えてしまった。
発見されたのは、さらに三日後。
僕たちが日頃、登下校に利用している丘をぐるりと回っている道の、
その下。
鬱蒼とした雑木林の中で、ズタボロになって死んでいるカナの死体が発見された。
※
どうやら、交通事故らしい、ということを後から聞いた。大型のトラックか何かに激突して、弾き跳ばされたらしい。そのまま、彼女はガードレールを飛び越えて、崖を転がり落ちて一番下まで落ちた。カナを轢いた車はそのまま逃げてしまったらしく、まだ見つかっていなかった。だから、発見が遅れたのだ。
カナの通夜は、ちょうど僕たちが海に行こうとしていた日だったので、当然、予定はキャンセルになった。クラスメイトは、泣いていた。女子はもちろん、男子たちも、何度か、目を拭う仕草を見せた。その光景を見ていたら、なんだか僕も少しだけ、泣きたい気分になった。ただ、リセだけは、不思議と泣いていなかった。じっと、何かに耐えるように唇を噛んで、佇んでいるだけだった。
カナの顔は見せてもらえなかった。僕はどうしようもない気持ちを抱えて、帰路につくしかなかった。夕方はいつもよりもさらに真っ赤に染まっていて、僕に不快な連想を強制したけれど、どうすることもできない。空を見上げると、やっぱり飛行機が飛んでいた。今日は数がいつもより多い。多分、二十は飛んでいる。
そういえば、
あれは何の為に飛んでいるのだろう。
どこに向かっているのだろう。
気分を紛らわせる為に考えたけれど、思い出すことはできなかった。
僕とリセは並んで、丘の上の道を歩いていた。カナが発見されたのは、この道沿いの崖の下だ。細かい場所までは聞いていない。聞きたくもなかった。
隣を歩くリセの鞄の横で、いつの間にかラジオがざあざあと鳴っていた。相変わらずのノイズ混じりで、何を言っているのかまるで理解できない。
それが不快だった。
「ねえ、そのラジオ。本当に、何か聞こえるの?」
僕が聞くと、少しだけ先を歩いていたリセがこちらを向いた。
「まだ聞こえないの?」
それは、一度目とは違う、明確な悲哀が込められていた。悲しげな表情。彼女の伏せた長い睫毛が、やけに鮮明に見えた。
「何か、意味があるなら教えて欲しいな」
「どうして、カナが死んだのか。あなたには理解できる?」
その言葉に、僕は立ち止まった。間の悪いことに、そこは夕日がリセの顔を最も悲しそうに見せる、絶好のポジションだった。
「そんなの、わからないよ」
僕は首を振った。もし彼女の言う通り、そんな理由があるのなら、僕が教えて欲しいくらいだった。
「いいえ。本当はあなたにも分かっている。分かっていて、分からないフリをしている」
「どうして、そんなことが言える?」
「だって、分からない、って言ったもの」
彼女が断言する。
「交通事故じゃないって、これが、ただの交通事故じゃないって、あなたは知っている。心の奥底では、気づいている。でも、あなたはそれから目を背けている。遠ざけている」
「僕が、何だって?」
僕は、急に腹が立って来て、彼女に詰め寄ろうとした。けれども彼女はあっさりと、僕が進んだ分と同じだけ、後ろ向きに歩いたので、距離は変わらなかった。
「彼女が死んだのは、彼女が、これを聞けたから」
僕は口を開けたまま、しばらく動けなかった。彼女が掲げて見せたのは、見慣れた、あのおんぼろラジオだった。今も、ラジオはざあざあと不快なノイズをまき散らし続けている。
「どういう……意味だ?」
「あなたたちは、毒を飲まされている」
毒。
その単語が、やけに頭の中に重く伸し掛かる。それは、カナが言った言葉だ。カナはなんと言っていた?
僕は急に身体の中に熱を感じて、頭を支えた。まるで熱いマグマを一気飲みしたような気分だった。
「毒の正体は、わたしも知らない」
まるでそこに冷や水を浴びせるように、リセが言った。
「それは、新種のウィルスによるものだとか、環境汚染によるものだとか、煮詰まった社会がもたらした心因性のものだとか、政府の陰謀だとか、いろいろと言われているけれど、結局、はっきりとした正体はわたしたちにも掴めなかった」
気分が悪かった。むしろ彼女の言葉が毒であるかのように、僕の身体に染み込んで、蝕んでいる。
聞きたくなかった。
できれば、耳を塞ぎたかった。
けれど、どうしてもそれができない。
両手はまるでお皿の上で忘れ去れた食パンみたいにかちかちで。
「ラジオが放送しているのは、ノイズなんかじゃない。ずっと昔の番組の録音なの。この国が戦争を始めたときに、それに反対する人たちが作った番組のね」
戦争?
これは、痛みじゃない。
それはすぐに分かった。
けれど、それに匹敵する何かが、僕の身体を貫いた。
何かは分からないけれど、一番近いものをあげるとするならば、それは衝撃だ。
あまりの不快感に、僕は身をよじる。けれども、それはまるで大蛇のように僕を締め上げて離してくれない。
「放送局を突き止めて、踏み込んでみたけれど、そこには誰もいなかった。ただ、この放送を録音したテープだけが、半永久的に繰り返されるようにセットされていた」
「戦争だって?」
僕は彼女の言葉を無視して、喉に詰まった何かを吐き出すように声を絞り出した。
「この国は、三十年以上前から北の国と戦争をしている」
戦争。これも、僕はカナの口から聞いた。そんな気がする。どうして、そんなことも忘れてしまったのだろう。まだ、たった数日前のことなのに。
「あなたたちは、一種の病気のようなものに犯されている。あなたたちは物事を深く考えることができない。自分の興味がないもの、面白くないもの、そう言ったものを一切受け付けない体質なの。軍人は戦いのことしか考えられなくなる。政治家は権力のことしか考えられなくなる。国民は、目先の生活のことしか考えられなくなる。だから、ラジオが何を言っているのか、あなたたちは聞くことができなかった。カナはあなたに、そのとき読んでいた本の内容を話したそうだけれど……もう一度それをわたしに話せる? 学校では何を習っているの?」
僕はそうしようとしたけれど、まるで陸に揚げられた金魚のように、ぱくぱくと口を開くばかりで、肝心の中身がまるで浮かんでこない。
違う。
僕は首を振った。
今は体調が悪いだけだ。だから、思い出せないだけ。
「これは、この星全体で起こっている現象なの。少なくとも、原因はわたしたちには不明。稀にカナみたいに、突然その症状から脱する人もいるけれど……それは残念ながら、ごく少数だわ。そしてカナみたいな人は見つかると必ず殺される。そういう人が増えると、困る人がこの時代には大勢いるみたいね」
「この、時代?」
「わたしは、カナの言うところの、毒に犯された大地に取り残された人たちの末裔」
僕には、もう、リセが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
彼女は鞄から、小さなグリップを取り出した。黒い、自転車のグリップのようなものだ。
「あなたたちが汚し尽くした、呪われた大地に取り残された民」
リセ。
僕はあまりの苦しさに、
彼女の身体にしがみつくように、
身を投げ出した。
彼女の身体が、僕を受け止める。
「ごめんなさい」
彼女は泣いていた。
彼女の頬を伝わった暖かい液体が、僕の頬に落ちた。
「誰が悪いわけでもない。何が正しい、という議論をするつもりはないわ」
僕にはもう、全然理解できなかったけれど、
彼女は一人弁明を続けていた。
「あなたたちを憎んでいるわけでもない。それはもちろん、この時代に来るまでは、そういう気持ちもあったけれど……」
彼女の暖かい両腕が僕の頬を優しく包んだ。
「もうすぐ、この世界に長い冬がやってくる」
暖かい。
「それだけは、なんとしても防がなければならない」
彼女の顔が、接近する。
唇が、触れた。
「あなたと過ごした時間は、例え幻想だったとしても──」
立っていられなくなった僕を、彼女はゆっくりと、地面に寝かしつけるようにして。
「識別コード、アルファ、チャーリィ、タンゴ、ヴィクター、ジュリエット。評議会リセ・シノメの名において開戦指令を発する」
手にしていたグリップの、先についていたスイッチを、押した。
瞬間。
世界が、一変した。
真紅に染まっていた空に、無数の光球が現れ。
それが、放電する。
トンネルを抜けるように、光の中から、鋼鉄の塊が飛び出した。
それは、巨大な戦艦だった。
空を覆い尽くさんばかりの、艦隊が、空を黒く染め上げる。
雷雲のように。
それらはゆっくりと、砲台を回転させる。
僕は、その景色を、見上げながら。
ああ、
僕は、何かを間違えた?
それとも、どうしようもなかったことか。
今はただ、
眠りたい。
泥の様に眠りたいのだ。
「わたしたち、未来の民は、あなたたち現生人に対して、──宣戦布告する」
最後に、
優しい声が、
瞼を閉じた僕の頭上に舞い降りた。
「せめて、一瞬の滅亡を」