挿話 ヘレン教に伝わる話「老人」
やせ細った白髪の老人が、ヘレン教の学習院に来ていた。
その目は弱くなり、その耳は遠くなっていた。
それでもヘレンの教えを賜りたいと、老人は言った。
「あなたはなぜそのようになるまでここへ来なかったのですか」
その問いに、老人は答えなかった。
ただ、老人はヘレンの教えを求めた。
ヘレンは無敵の戦乙女。白痴にして全能なる者。
戦いの果てに世界の全てを見た者。
無限の慈悲と愛を分け与える者。
それを迫害した黒髪は悪だ。
彼女を裏切ったヘリオットは悪だ。
老人は言った。
「素晴らしい教えだ。私の子や孫にも伝えたかった」と。
そこで教師は問う。
「あなたはなぜそのようになるまでここへ来なかったのですか」
その問いに、老人は答えなかった。
ただ、老人はヘレンの教えを求めた。
次の日も、次の日も、老人は教えを求めた。
そのうちに、彼の髪はますます白くなり、彼の身体はますます細く軽くなった。
老人はついに最後の教えに辿り着いた。
だが、彼は願うでもなく、祈るでもなく、ただ学習院を立ち去ろうとした。
それで教師は自然と悟った。
「あなたはなぜそのようになるまでここへ来なかったのですか。
かつて忌むべき黒髪であった者よ」
それは確信であった。老人は足を止め、振り返る。
「たとえ私たちが拒んでも、たとえ石を投げられても、あなたにはここへ来る権利があった。
まったく完全な白髪になるまでの幾年月を、あなたはどうして待とうと決めたのか。
それでも、そこまでしてでも、いつかあなたはヘレン教を学ぼうと心に決めていたのか。
それこそ我々が久しく忘れていた崇高な信仰の心だ。
あなたこそがヘレンの教えだ」
「私はただの愚かな老人です。
愚かに生き、愚かに罵り、愚かに恨み、愚かに死ぬ。
たとえヘレン教の全てを学び終えたとしても、それは地獄へと落ちるまでの一時の光にすぎません」
「だがあなたはヘレンを見たのではないか?
その瞳の奥に、我々には見えぬ光を、真の信仰を宿しているのではないか?
ああ、老人よ。
どうかその名をおっしゃってください。
その名を我々は忘れないでしょうから」
「ならば言うが、あなたがたは私の名をもう知っているはずだ。
私はヘリオットだ。
私こそが、あの、ヘリオットなのだ」
聖ヘリオットはそう言い残すと、まばゆい光の中に消えた。
彼は確かに、地に降臨した聖ヘリオットだったと、ヘレン教の中では伝えられている。
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だが話はここで終わりではない。断じてここで終わらせてはいけない。
ヘレン教の教師は既に、彼に数々の説法を行っていた。
あろうことか、いと高くにあらせられる、ヘレン教の使徒である聖ヘリオットに、である。誰よりもヘレンに近付いたとされる者に、我々は恥も知らずに説法を行っていたのである。その言葉はきっといつしかヘレンの耳に入り、ヘレンは後の世の教えを鼻で笑うであろう。
汚名。一言でいうのならばそれであった。
我々は汚名を返上しなければならない。
言葉でなく行いをもって、汚名を返上しなければならない。
それ以来、ヘレン教徒は、若い黒髪の者も学習院に招き入れるようになった。
彼が聖ヘリオットかもしれないから。
それ以来、ヘレン教徒は、年老いて白髪になった黒髪に施しを与えるようになった。
彼が聖ヘリオットかもしれないから。
そしていつしか彼が再び門を叩くことがあれば、それを温かく迎え入れよう。
彼のように学び、彼のように知り、彼のように見つめ、彼のように生きよう。
なるほど異端的ではあるが、これはまごうことなきヘレン教の教えの一つである。
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そうして、アラケルは話の一切を語り終えた。
それを、サテレスは最後まで聞いていた。
あの象牙と銀で縁取られたテーブルで、青年アラケルとパテルーシャ家のサテレスは会話をしていた。
「私の母は熱心なヘレン教徒だった」サテレスは告白した。
「そして私が黒髪に生まれてきたのは、母のせいではなく、私自身の因業のためだ。にもかかわらず、私は母を恨んだ。かつての私は愚かだった」サテレスは懺悔した。
「だが私はウォレス・ザ・ウィルレスに出会って変わった。
私はサテレス・オービットとなった。
私は彼の街、精霊採掘都市リリオットの復興を支援したい。
そのためには是非ともヘレン教の力が必要だ」
「貴族たちではだめだ。彼らは浪費するだろう。
ソウルスミスではだめだ。彼らは利益を貪るだろう。
エフェクティヴではだめだ。彼らは全てを恨むだろう。
唯一、母の信じたヘレン教だけが、リリオットを救い得ると私は信仰している」
そしてサテレスは立ち上がり、そこに現れた、紺色のローブを着た教師フルフィウスを見て言った。
「教師フルフィウス殿。愚かな申し出であることは理解している。黒髪がヘレン教を支援するなど、狂気の沙汰ではある。だがどうか黙ってこの支援を受け取ってはくれますまいか」
「もし『匿名で』ということでなら、お断り差し上げます」教師フルフィウスは冷徹に言った。
「しかし『ヘリオット名義で』ということでなら、受け取れぬということもありません」教師フルフィウスは微笑む。
「そうか。ならばそうしよう」とサテレス・オービットは軽い調子で言った。
「謎の支援者ヘリオット。その者の名は、いずれグラウフラルの、そしてリリオットの歴史に残るでしょう。黒髪の者よ。いずれその髪が白髪に変わった頃、どうかヘリオットとして名乗り出てください。我々はそれを温かく迎え入れるであろうと、そう信仰しています」
教師フルフィウスは重々しく言った。
「そうか。私もいつか白髪になる日が来るのだな。そうか。そうか!!」
黒髪のサテレスはそれを聞いて喜んだ。まるで今から――まだ二十台前半だというのに――その時が待ち遠しくてたまらないという風であった。




