その3
旭の周りには、いつでもあやかしと呼ばれる者たちがいた。気がついたときには、彼らの存在は当たり前になっていた。ともに遊び、ときに一人の夜を慰めてくれた。自分に爪や牙をむけてくる者は、ほとんどいなかった。優しき者たちばかりだった。いつでもかれらは友と呼べる存在だった。
それは、祖母や両親の守りがあったからなのだろう。焔がいてくれたからなのだろう。
イレブンの士となれば、封じたり、消したりする。友と呼んできたかれらを、この手で処すのだ。
同じじゃないか。士として闘うことも、守ることも、結局は、人間に都合のいいように処しているだけだ。
ざらざらとした違和感が、旭の背を撫でる。不快さに全身に鳥肌が立った。
「できるわけないよ」
声が掠れた。指をきつく握り込む。
「ぼくにはそんなこと、できない」
「旭」
「イレブンの士なんて、なりたくない!」
「旭!」
焔に背を向けた。外へと走りだそうとしたとき、床に積まれた本のいくつかに当たってくずれた。偶然開いたページに旭が指を触れた。
「あっつ!」
まるで熱した鍋に触れたような熱さだった。しゅっと音がして、黄ばんだ紙から白い煙が立ち上る。突然、なにかが走り出した。黒くて小さい、鞠のようなものだ。
「あ! やべ! 旭、捕まえろ!」
焔が叫ぶ。旭が反射的に飛びつく。伸ばした手をすり抜けて、ガラス戸の隙間から外へと飛び出した。四つん這いになった旭の前に、なにもいなくなったページだけが残っていた。
「逃げちゃった・・・どうしよう」
「ああ、もうおまえは! そこにお座りなさい!」
「はい! ごめんなさい!」
思わず床に正座する。お座りなさいとは、留守がちな両親に代わり、自分を育ててくれた祖母の口癖だ。しかられるときに必ず出る名文句だ。この言葉をきくと条件反射で、身体は勝手に正座してしまう。
焔が店奥の上がりから下りてくる。旭の前にしゃがんだ。げんこの一つも飛んでくるのだろうと、旭は思わず首をすくめた。
「ごめん」
柔らかい声だ。暖かい手が頭におかれた。ちりんと銀の腕輪が鳴る。
「父ちゃんか母ちゃんか、どっちを選べとか、どっちかみたいにならなきゃいけないっていってるんじゃないんだ。どうするかは、おまえが自分で考えて決めることだ。もっといろんなものを見て、知って、考えてから、ゆっくり答えを出せばいい」
焔の言葉は、静かに振る雨のようにしっとりと降り注ぐ。
「だけどな、おまえは乙葉の家の血を継いでる。そこからだけは逃げられない」
旭が顔をあげた。焔の紫の瞳が、まっすぐに自分に向けられていた。自分の弱い部分を突き抜けていく。あやかしの瞳だ。
とくとくと心臓は鳴く。
そうだ。逃げらない。あやかしと共に生きる乙葉の血と、この紫の瞳からは、逃げられない。それだけは頭で理解するよりも先に、身体がわかっていた。旭の指が、ズボンをきつく掴んでいた。
「だから、とっとと捕まえてこい」
「は?」
「おまえが逃がしたやつだよ。封じ本から逃げたなんでばれたら、おれが太郎さんに怒られるだろうが!」
「お父さん、怒らないよ。ぼく、怒られたことないもん」
「騙されてるぞ、それ。あの人、いっつもにこにこしてっけど、怒るとすげえこええんだよ。ばあちゃん以上だ。っていうか、おまえもその外見で人騙してるよな。やっぱ、親子だ。そっくりだぜ」
焔の大きな手が旭の頭をわしづかみにする。
「いたたたっ」
焔が落ちた封じ本を拾う。
「ハクザの使いっ走りだな。ハンダクっていう。小さいけど、人について祟るやつだ。一度、ここにその名が刻まれてるから、近くまで行って本を開けば、独りでに戻る。ほらよ」
焔が本を投げて寄こす。慌てて手を差し出し受け止めた。
「他のページに触れるなよ」
頷く。
「帽子、コート、マフラー、手袋」
次々に着せてくれる。
「ぼくに捕まえられる?」
「もともとこの本は、力を持ってなくても使えるようにできてんだよ。旭なら力もあるし、大丈夫だろ」
「でも」
「これはイレブンの仕事じゃない。おまえが逃がした責任をとるだけだ。やってみろよ」
「はい」
「いい子だ。行ってこい! 昼飯には戻ってこいよ」
「行ってきます!」
ガラス戸を開けた。きんと冷えた空気が肌を刺す。頭が痛くなるほど冷たい。おかげで、気持ちがしゃんとした。
空を見上げる。
宇宙に抜けていく青い空があった。空気はどこまでも澄んで、そこかしこに、優しきものたちの気配が漂う。
「気をつけてな」
焔の声に背中を押されて、旭は強く一歩を踏み出した。
(第六章その1へ続く)