その2
「元気がいいね。どこのお子さんかな?」
背後で声がした。旭がびくりと飛び上がる。ほうきが音をたてて倒れた。
「びっくりさせてしまったようじゃな」
小さな老人が、ほうきを旭に差し出す。
「あ、ありがとうございます」
慌てて受け取り、小さく頭を下げた。怖くはないけれど、慣れない。初めて会う人とは、うまく言葉を交わすことができない。自分の悪いところだと知りつつも、旭は老人から一歩下がった。その頭に暖かい手が触れる。
「三井のじっちゃん」
「おお、焔か。久しぶりじゃな。元気か?」
店先へと出てきた焔は、旭の頭をくしゃりと撫でた。
「神路の坊の具合が悪いって聞いたんじゃけど、おまえがおるくらいじゃから、そうとう悪いんか?」
「熱が下がらねえんだよ。こじらせたかもな」
「年末は忙しいからなぁ。無理したんじゃろ」
三井が手に提げた布の袋から小さな包みを取り出した。
「ほれ、熱冷ましじゃ」
「サンキュウ! じっちゃんの薬、よく効くんだよ」
「ところで、その子はもしかして太郎ちゃんの息子さんかな」
「そう。旭っての。旭、三井のじっちゃんだ。前にイレブンにいたんだ。おまえの大先輩」
「え?」
顔を上げて、初めてしっかりと老人を見た。日に焼けた顔にたくさんのシワを浮かべ、笑っていた。
「もうリタイアしたんじゃけどな。ときどき太郎ちゃんの仕事を手伝っとる。三井哲郎といいます」
「乙葉旭です!」
旭の顔がぱっと明るくなる。
「ええ子じゃのう」
「じっちゃん、この外見に惑わされちゃだめだ。一見、かわいい顔で騙されそうになるけど、すげえ手がやけるんだからな」
「それ、どういう意味? 焔」
はははっと三井と焔が笑う。
「お、そうじゃ。忘れるとこじゃった。焔、本貸してくれんか」
「どんなやつ?」
焔が店内に入る。三井が続いた。この店の商売の話だ。聞きたくて旭も追う。
「天井なめの一種じゃな。大掃除を始めると、邪魔してくるんじゃ。今年は、大橋村に大量発生。一家に一匹おる」
「そりゃ大変だな。留め本でいいか」
「ああ、年が明けたら放してやるよ」
焔が店の一角にある本棚へと手を伸ばす。背表紙もない本が並んでいる。そこから一冊を選び取り、ぱらりと開く。黄ばんだ和紙が紐で束ねてあるだけで、中身はなにもない。旭にはただの紙束にしかみえなかった。天井なめ、留め本、耳慣れぬ言葉に、追いついていけない。
「焔、天井なめって?」
「都会育ちの子は見たことないかもしれんの」
「自分で調べろ。一番向こうの本棚、右から三つ目、一番下の段に妖怪事典があるから」
「妖怪事典、そんなのあるんだ」
「じいちゃん、これで足りるか?」
焔が選んだ一冊を三井に差し出す。表紙に墨でなにか文字が書いてある。旭には読めなかった。
「十分じゃ。二日もあれば終わるから、年明けまで預かってくれるか?」
「もちろん。それが商売だからな。貸本代、五百円いただきます。預かり賃は、数に応じていただきますので、また後で」
「がめついのお」
「一応、商売ですから。イレブン公認の」
「おまえ、人くさくなっとるぞ、焔」
焔がにやりと笑う。
こんな顔もするんだ。
見上げた焔は、また旭の知らない顔で笑い、三井と言葉を交わしていた。
三井が支払いを済ませ、店を出る。旭に手を振った。
「おじいさんは、あの本でなにをするの?」
見送りを済ませた焔がまたパソコンに向かう。指はパタパタとキーボードを叩く。
「妖怪を捕まえるんだよ」
「あの本で?」
「開いて名を呼べば、紙に吸い込まれる。そういう術がかけてある」
自分を取り囲む本たちを見上げた。
「ここにある本、ぜんぶ、捕まえた妖怪が入ってるの?」
「いや、全部じゃない。左側の棚だけだ。おまえは触るなよ」
「留め本ってなに?」
「本に種類があるんだ。捕まえた妖怪をどんな風に確保しておくのかによって使う本を選ぶ。留め本は一時的に捕まえておく本だ。そんなに強い妖怪には使えない。封じ本は、人に害を為すやつらを永久に封じる。他には、隠れ本ってのもある」
焔がそばにあった一冊を開き、旭に見せた。開かれた見開きのページの右側に、一体の妖怪の絵が墨で描かれていた。人の姿によく似ている。髪は長く、緩やかにうねる。着物を着ていた。その着物の裾は、水流を示す曲がりくねった線の中に埋まっている。名前と日付のようなものがつづってあるが、旭には読めなかった。
柔らかく笑むその絵の妖怪に、惹きつけられた。笑っているのに、どこか淋しそうだ。
「隠れ本はな、妖怪を、人や他の妖怪から守る本だ。縄張り争いとか、弱いやつらとか、絶滅寸前のやつらをかくまう」
「妖怪を妖怪から守るの?」
「おれらだって、闘うことがある。妖怪を食べるやつらもいるしな。おまえら人間と同じだよ」
「違う。人は人を食べないよ」
「禁忌にされてるだけだ。人は人を殺すじゃねえか。人も妖怪も、やってることは同じだろ」
さらりと言われた一言で、旭の肌がざわっと波立つ。違うといいたいのに、言葉は詰まる。学校で学んだ過去の過ちが、反論する言葉を飲み込んでしまった。
「そして人は妖怪を追い詰める。封じ本にいれられたやつらはまだましだ。普通はその場で消去だからな。それがイレブンのやり方だ」
消去。
ずくんと心臓が音をたてた。
イレブンの仕事や、乙葉の家が代々なにをしてきたか、小さな頃から聞かされてきた。妖怪退治だ。退治するってことは消すということなのだ。どうしても受け入れることができない、乙葉家の業だ。
旭がくちびるを噛みしめる。
「今、陽桜さんが闘っているのは、人を守るためだ。あの人の力は強い。あやかしと闘い、あやかしを消す人だ。そのために呼ばれた。そして太郎さんは、この店で、本を守り、人を守り、あやかしを守ってる。昔から守人と呼ばれてきた役目を担ってるんだ。旭、おまえはどっちの力を持ってるんだろうな」
焔の顔を見ることができなかった。旭の視線は黄ばんだ紙の上に落ちたままだ。
隠れ本の中のその人は、優しく笑んだまま動かない。今は、墨絵でしかないその人の、淋しさだけが伝わってくる。守られているはずなのに、そこに安堵はない。ただ、淋しそうな笑みを貼り付けられただけだ。
その笑みに、どうしようもないほどに、締め付けられる。ぎゅうぎゅうと押しつぶされたところから、熱が生まれてくる。
なにかが違う。
絶滅するから守るなんていいながら、それを許さないのはあやかしじゃなく、人間なんじゃないのか。勝手な正義感だけで、守人は、あやかしの生を操っている。あやかしの意志なんか関係ない。絶命させたくないから、閉じこめるんだ。
こんなの、守ってるっていわない。だって、この人、ぜんぜん幸せそうじゃない。
(第五章その3へ続く)