その1
「焔、朝ご飯の洗い物、終わったよ」
焔がノートパソコンから顔をあげる。旭が白い前掛けで手を拭きながら、店表へと顔を出す。
「おまえ、その前掛け、似合うよなぁ」
古めかしく、旭には大きすぎる前掛けが、意外にも似合っていて、笑いが溢れる。
「なにニヤニヤ笑ってんだよ」
「いや、ご苦労さん。太郎さんは?」
「薬飲ませて、布団に入れたよ」
「よしよし。いい子だ。次は店の前の掃除よろしく。ほうきとちりとりはそこね」
スニーカーを履く。自分の背丈ほどもある竹ぼうきを抱える。跨がれば飛べるだろうか。ふとそんな気がするようなレトロなほうきだ。
大きな置き時計が、九時を告げた。
「九時だ。旭、店、開けて」
「九時開店? 早いんだね」
「ほんと早いんだよ、この店」
「いつもの焔ならまだ寝てる時間だもんね」
「うるせえよ」
焔があくびをする。旭と話を交わしながらも、その指は動き続ける。時を刻む時計の重たい音と、焔が叩くキーボードの音が重なった。リズミカルで、音楽みたいだ。傍らに開いた本を眺めながら、焔の指はなめらかにパソコンを操作する。
「焔はなにしてんの?」
「在庫管理かな」
「本の?」
「いや、本の中身の。あー、まだ話してなかったっけ、貸本屋の仕事」
「昨夜は家の片付けとお父さんの看病で終わったし」
とりあえず手持ちの食料で夕食を食べ、熱で苦しそうな父を布団に押し込んだら九時を過ぎていた。手を付けるのを躊躇うほどの山積みの食器や、食べ物の残りものが散乱する台所を片付けたら、もう十二時を回っていた。強盗が入ったみたいに散らかった居間と、自分たちの寝る部屋の片付けが終わったのは二時だった。そのまま二人ともふとんに倒れ込んでいた。
旭は抱えていたほうきを棚に立てかけると、カーテンを開いた。ゆがんだガラスを通して、光が飛び込んでくる。向かい家の屋根の向こうに青空が広がっている。
「眩しい!」
旭の声がはしゃいでいる。かちゃかちゃと鍵を回す金属音がする。
そういえば、昨夜、小さなまじないをしたのだと思い出す。まじないを解かなければ戸は開かない。焔はパソコンから顔をあげ、旭を呼ぶ。
「あさ」
その声は出なかった。
ガラス戸は開いていた。朝の陽が投げかける光の中に旭がいた。空を見上げ、辺りを見回し、笑っていた。
どくりと心臓が波打つ。きんと凍るような空気が流れ込み、肌にざわりと触れてくる。
「まじかよ」
術が破られるほど、自分の力が弱いわけではない。生まれて一年で妖怪となり、すでに五百年生きてきた。この身には、それなりの力が宿っている。たいていの妖怪相手ならば、負けないだけの力がある。それがいとも簡単に、まるでなかったことのように破られた。
これが旭の力か。
旭のそばで感じてはいた。その力、その流れ、その光。悪しきものなど、近寄ることができないほどの光を、旭は放っている。
乙葉の家の血を継いだ旭は、小さなまじないの存在に気づかずとも、開けたいと思えば開けることができる。旭にその自覚はない。ただ望むだけだ。まだ未熟で、意識的なコントロールはできない。けれどその力は本物だ。
イレブンも、旭の本当の力を測ってはいないだろう。だから士として登録はされていても、あやかしを処分するという仕事をしたことは一度もない。仕事がきても、当たり障りのない調査だけだ。
いつか旭も、その母・陽桜のように、人に害をなす妖怪と闘う道を与えられるのだろうか。ときには命をかけて、人を守るために、我らに向かい、その力を放つときが来るのだろうか。
焔の身体についた、いくつもの傷が疼く。
妖怪と人とは、相容れない。
その昔、この世の支配権を手に入れたのは、人間だった。そのとき、人と妖怪との間には、決定的な溝が生まれた。一つしかない世界を分け合ってきた二種族のうち、一つだけが優位に立った。少しずつ力の差は増し、劣勢となっていった妖怪たちは、その住処さえ奪われた。怒りが生まれぬはずはない。人同士だって、なじまないのだ。生き物としての根本も、価値観も、生活もまるで違う人と妖怪が、相容れるはずはない。
それでも、ともに暮らせるのだと信じたこともあった。そしてそれはいつも簡単に覆された。信じて、裏切られる。この五百年の間、繰り返してきた。自分を、そしてときには仲間を守るために、人と闘ってきた。人を喰らうこともあった。この身に刻まれたたくさんの傷が、裏切られた証だ。
だから、イレブンのような機関が存在する。
イレブンは、人間に敵意を向けるあやかしたちを、徹底的に消滅させた。
怖いのだ。
人の理解の範疇を越える生物とともに、この世界を共有するつもりはないのだ。かれは自分たちを守るために、闘う。あやかしに対抗できる力を最大限利用し、多くのあやかしを処分した。
たくさんの仲間を失った。
それでもまた、望んでしまう。信じたいと願ってしまう。
乙葉旭という人間と出会い、もう一度だけ信じてみようと思った。
それでも来るのだろうか。
いつか、旭と向かい合う。妖怪と人として、対峙する。そんな瞬間が、来るのだろうか。
古傷ではなく、身体の内側の深いところが、軋んだ。
「焔! すっごい、いい天気! こんな青い空、見たことない」
店先へと飛び込んでくる旭が眩しくて、焔はほんの僅かの間、瞼を閉じた。
(第五章その2へ続く)