その1
「さ、寒い」
「そうか? おれは気持ちいいけどな」
空気はがちんと凍りつく。息をするにも鼻の奥が痛むくらいだ。旭の吐く息はすべて白く形を成し、視界の端で揺らめいた。
東京から五時間。無人駅に降りたのは旭と焔だけだった。自分たちを乗せてきた最終電車は、レールを軋ませながら、闇の中へと消えた。駅舎の小さな蛍光灯が、今にも消えそうに瞬く。
「暗いね」
駅舎から出ると、まっすぐに一本の道が伸びていた。その両側に店らしきものが立ち並ぶ。どれもシャッターを閉じ、夜の闇に包まれている。ぽつぽつと繋がる小さな街灯と、そこから垂れ下がる擦り切れた年末大セールの赤い垂れ幕だけが、商店街の存在を主張する。時計はまだ八時を示しているのに、人は誰もいなかった。
歩き出した焔の後を追う。
闇は怖くはない。
旭の生まれた乙葉家は、イレブンが設立されるずっと以前から、代々妖怪退治を請け負ってきた家系だ。その血ゆえ、小さい頃から妖怪の存在は知っていたし、士としての仕事で留守がちな両親に代わり、妖怪は旭の遊び相手でもあった。光の中に生きるもの、闇から生まれたもの。良きもの、悪しきもの。種々なあやかしを知っていた。それでも人の溢れる東京に存在するあやかしの数は、極めて少ない。彼らの力も、とても弱いのだ。
この地はどこか違う。張り詰めた空気の中に、あやかしの気配がそこかしこに満ちている。闇の中に蠢くものの息づかいを感じる。
「お、久しぶり! 元気か?」
突然、話し始めた焔に、旭がびくんと顔をあげた。
「焔、誰としゃべってんの?」
青白い炎が焔の顔あたりを漂っていた。炎はするすると旭の目線まで降りてくる。
「あ、こいつ、太郎さんの息子。手、出すなよ。おれのおもちゃだからな」
青白い炎がまるで笑うように揺らめいて消えた。
「今のは同族」
「焔の家族?」
「いや、親も兄弟も、もういないから。おれがこんな風になったころに、みんないなくなった」
旭の見上げた先で、焔が笑む。旭の胸の奥がずくんと痛んだ。
旭の感情は、痛みに敏感だ。その笑顔の向こうで、どのくらいの痛みを受け止めてきたのだろう。
父母と一緒にいられない寂しさはよくわかっている。けれど自分には焔がいた。生まれたときからずっと、離れることなく、そばにいてくれた。
それ以前の焔を、旭はほとんど知らない。五百年という途方もないほどの時間を、どう生きてきたのだろう。親も兄弟もなくし、あやかしとなり生きてきた焔の過去を、初めて知りたいと思った。
焔の左手が伸びて、毛糸の帽子の上から旭の頭を撫でた。ちりんと腕輪が軽やかに鳴く。
「そんな顔すんな。今のおれの家族はちゃんといる。太郎さんに陽桜さん、ばあちゃんと、それからおまえだろ」
「・・・うん」
「あ、太郎さんとこ、電気点いてるな。閉めずに待っててくれたんだ。急ごう」
「焔、お父さんとこ来たことあるんだ」
「太郎さんの手伝いで何度か。おまえのばあちゃん、人使い荒いから。つうか、イレブンの局長が妖怪使っていいのかよって感じだよな」
「焔は特別だもん」
「それは違うな」
「え?」
「特別なのは、おまえだ」
「なにそれ。どういう意味?」
焔は笑うだけで、なにもいってはくれなかった。
茶髪で、穴のあいだジーンズをはいて、街に溢れてる高校生と変わらない姿をしているけれど、本当は五百歳の妖怪だ。昼寝と読書が大好きで、犬が大嫌い。めんどうくさがりで、好物はプリン。
知っていることは沢山ある。
でも、本当のことは何一つ知らない。
どこから来たのか。なんでここにいるのか。
自分を特別だといった笑顔。
父を知る焔。
自分の知らない焔。
こんなに優しい顔で笑う焔を初めてみた。胸の奥がつきんと痛んだ。
「ここだ」
「貸本 神路屋」
白い看板の剥げかけたペンキの文字を読み上げる。
「貸本? 神路って、お父さんの結婚する前の名前だよね。お父さんってイレブンの仕事してるんじゃないの?」
「あとで説明してやるよ。寒いだろ。早く入れよ」
焔に軽く背を押され、旭はガラス戸の向こうを覗いた。オレンジの柔らかい光が溢れている。狭い店内の両側に、奥に向かって古びた木の書架が並び、数え切れないほどの本が押し込められている。入りきらないのか、床の上にも平積みの山がいくつもできている。ガラスの引き戸を、がたがたいわせながら開くと、暖かい空気と古紙のにおいに包まれた。
「太郎さん、こんばんは。入るよ」
狭い通路をカニ歩きしながら進む。本棚が軋み、木の床が鳴く。店の奥に襖があり、その向こうから、げほげほと咳が聞こえた。
「お父さん!」
「ちょっと待った」
スニーカーを脱ぎ捨てた旭の腕を掴んで引き留める。そのまま旭のセーターを肘までまくり上げた。細い腕が露わになる。焔の親指が、その手首に見えない文字を刻む。小さくなにかを唱えた。言葉のようで、人の言葉ではない。あやかしたちの使う妖術の言の葉だ。
「なにしてんの?」
「太郎さんの風邪が移らないようにおまじない。看病しに来て風邪もらったんじゃ、意味ねえし。なにより陽桜さんにぶっとばされるからな」
焔が手を離す。旭の手首に、小さな赤い印がついていた。花が一つ、咲いたようだ。
「ありがとう」
「行ってこい。久しぶりだろ、父ちゃんと会うのは。おれ、店の戸締まりしてくから」
旭の背中をぽんと叩く。
「お父さん!」
「あさ、げほげほ」
「大丈夫?」
「よく来た・・・がほがほ・・・ね」
背中から溢れてくる会話にならない会話を聞きながら、焔はガラス戸に鍵をかけた。
外の暗闇の中で、なにかがずるりと動くのを、焔の紫の目が捉えた。闇から這いずり出てくる。その表面が、ぬめぬめと夜よりも濃い色に艶めく。
旭のせいか。
若い精を求めるあやかしは多い。あの程度の輩が、この店に入れるとは思えないが、用心にと、小さなまじないを施し、古ぼけたカーテンを閉めた。
振り向きざま、膝頭が本の山を突き、数冊の本が崩れた。
「おっと」
開いた本の隙間から、小さな白い固まりが走り出た。それを難なく掴まえ、つまみ上げると、本の上に落とした。ぱたんと閉じる。きゅっという小さな鳴き声が溢れた。
「太郎さん、そうとう仕事、貯めてるな。あーあ、年末だっていうのに」
「焔ー! 台所が崩壊してるー! 早く来てー!」
旭が呼ぶ。
「どいつもこいつも」
伸びた茶髪をかき上げると、焔は小さくため息をついた。店の電灯を消す。神路屋の店先に、蒼く冷たい闇が訪れた。
(第四章へ続く)