その3
「旭」
旭を呼ぶ陽桜の声が凛と張る。イレブンの士の声だ。人を守るために闘う士の顔だ。
「はい」
「お母さん、行ってくるから、太郎ちゃんのことは旭に任せたわよ」
「え?」
「はい、これ。風邪薬」
旭の手の中に小さな瓶を押し込める。
「ええっ!?」
障子の向こうで電子音が鳴る。
「お迎えだわ。行ってきます」
障子を開け、携帯電話を拾うと、玄関へと走る。廊下を駆け抜けながら、壁掛けからコートを掴む。陽桜の後ろ姿が、宙に翻ったコートの向こうに消える。
「お母さん! ちょっと、待って! お父さんとこに行けってこと?」
「そうよ。わたしも超特急で仕事片付けて行くから。焔! 旭のこと頼むわ」
「へいへい」
焔が五月蠅そうに、瞼にかかる長い前髪をかき上げる。
しゅっ。
空気を切り裂く、短い音がした。焔の茶髪が一房、はらりと散る。焔と旭の視線が、落ちていく髪の毛に集中する。ナイフやはさみが飛んできたわけではない。あやかしに対し発せられる士の力だ。
「旭になんかあったら、髪の毛だけじゃ済まないわよ」
「・・・はい」
慌ただしく玄関が閉まる。車が発進した。遠ざかるエンジン音の向こうで、ツグミが鳴いた。乙葉家からすべての音が消えた。
「行っちゃった・・・」
「おまえのかあちゃん、こえーよ。思わず原型に戻っちゃったし」
ついさっきまで旭の隣に突っ立っていた、茶髪にピアス、穴の空いたジーンズに半袖黒のTシャツ、街のストリートにたむろしているただの高校生だった居候は、今、真っ白な毛に覆われている。口は耳元まで避け、大きな三角の耳がぴんと立つ。左耳に、銀の飾りが二つ付いている。その瞳は紫で、その身体は旭の背丈以上もある大きな白い狐だ。忠犬のように背を伸ばしきっちり前足を揃えて座る。太く長い尾をぶらぶらと揺らした。
人ではない。
焔は五百歳を越える妖怪だ。人の世界で暮らすために、普段は人の形を取る。五百歳のくせに、なぜかいつも高校生の形をし、古くから妖怪退治家を営み、現在ではイレブンの中枢に務める人間を抱える乙葉家に住んでいる。変わり者の妖怪だ。
旭は、母の消えた玄関の戸を見つめたまま、大きくため息を吐くと、冷えた板の間にぺたりと座り込んだ。
「どうした? 旭」
「なんか、どっと疲れた」
「陽桜さん、パワフルだからな」
「お母さん、大丈夫かな」
「大丈夫だ。陽桜さんは、イレブンの中でもピカイチだぜ」
「そうだよね。お母さん、強いもんね」
「このおれだって、敵わない」
「ぼくにも、お母さんみたいな力があれば・・・」
旭は、その後の言葉を飲み込んだ。
イレブンの士。
その言葉は、乙葉家の者にとっては、何よりも重い。士の力はその血で受け継がれる。故に、士であることは、一生、背負うべき責任だ。
父も母も、士だ。そして祖母も士だ。
旭の祖母、日向は、陽桜の母である。仕事で留守がちな両親に代わり、旭を育ててきた。かつては、陽桜のようにあやかしと闘ったイレブンの士であり、そして現在のイレブンの局長である。
その血を濃く継ぐ陽桜は、イレブンでも特に強い力を持ち、かり出されることも多い。今も、その長である祖母の指令を受け、行き先も告げずどこかへ飛んでいってしまった。イレブンから指名されれば、どんな事情があろうとも、任務に赴く。父は、イレブンの仕事のため、岩手で独り暮らしており、ほとんど東京の家には帰ってこない。
これが乙葉家の日常だ。旭は、そんな両親と祖母の中で、乙葉の家の者として当然のごとく、イレブンの士となった。
父のようになりたい。母のようになりたい。早く一人前の士となって、イレブンのために働きたい。イレブンの士として、働かなければならない。強制されたわけでもなくそう在りたいと思っていたのは、乙葉家の血と、育った環境のせいなのだろう。
幼いころは、人を守るために闘うイレブンにただ憧れていた。父や母、祖母の姿を、テレビの中のヒーローをみるのと同じ目線でみていた。
いま、自分の中には、あのころの憧れはない。いつ変わったのか、どこで変わったのか、旭に自覚はなかった。けれど、いつの日から、小さな違和感を抱くようになった。
旭は、さまざまなあやかしに囲まれて育った。両親のいない寂しさを、小さな名もなき妖怪たちが、埋めてくれた。傍らには、いつも焔がいた。旭にとってあやかしたちは、自分に一番近い友人だ。
あやかしが原因で人が死んだと聞けば、同族として亡くなった人と残された家族を想い、胸は痛む。けれど、同じ痛みで、人を傷つけたあやかしを想ってしまう。傷つけざるをえなかったあやかしに、旭の心は向き、情が動いてしまうのだ。
いつしか、それは確かな意識となって現れた。イレブンの活動に、拒絶を感じるのだ。士にあるまじき行為だろう。それでも旭は、人よりもあやかしへと惹かれる心を、止めることができない。
母のように強い力を持てれば、惑わされたりしないのだろうか。仲間である人間を守るため、ただ一つ、まっすぐな気持ちだけをもって闘えるのだろうか。もし、母よりももっともっと強い力があったなら、人もあやかしも、両方を助けることができるだろうか。この世界を共有する彼らを、害を為すという理由だけで消してしまわない道を選べるだろうか。
強く、なりたい。
イレブンの士であることも、あやかしの友であることも、一つの心で捉えられるくらい、強くなりたい。
旭の指が、焔の白く輝く毛をぎゅっと掴んでいた。焔の長い尾が、旭を抱き込む。その真っ白な毛を抱え、旭は顔を埋めた。太陽のにおいがする。焔のにおいだ。昼寝の大好きな焔の白い毛は、いつもでも陽光をたっぷり含んでいる。ずっと変わらずにここにあるにおいだ。そして、一番、居心地のいい場所だった。
「旭。おまえがイレブンの士でも、そうでなくても、優秀な太郎さんと陽桜さんの血をちゃんと受け継いでるんだ。ついでにあのばあちゃんの血もな。焦らなくていい。おまえはおまえのできることから、やればいい」
まるで自分の考えていることがわかるみたいに、欲しい言葉をくれる。焔の言葉は、旭の中に小さな風を生む。風が巡り、小さな熱を起こす。ほわりと柔らかい熱だ。旭のからだを縛っていた力が抜けた。旭の手の中で、薬瓶がちゃりっと音をたてる。
「お父さん、大丈夫かな」
「そっちはちょっと心配だな。太郎さん、もともと身体、強くない人だからなぁ」
「え、そうなの? なんでそんなこと、焔が知ってるの?」
「そりゃ、つきあい長いからな。おまえが生まれるだいぶ前から、太郎さんのことは知ってたし。まだ陽桜さんとも出会ってないころとか」
「初めて聞いたよ、そんな話」
焔は、旭が生まれる前から、この乙葉の家に住み着いている。
かつては山神と呼ばれた白狐の血を引く焔が、なぜ妖怪になったのか、なぜ妖怪と相反する妖怪退治屋の乙葉家にいるのか、旭は知らなかった。
ただいつもそこにいる。それが当たり前で、なんでそこにいるのかなんて、知る必要もなかった。
自分の知らない父を知っている焔が、ほんの少しだけ違う形にみえる。
「ほら、用意しようぜ。すぐ出れば、最終の新幹線に間に合う」
焔が旭の襟首を咥えて、立たせる。見慣れたはずのその紫の双眸は、真新しい色を含んでいた。
(第三章その1へ続く)