その5
熱い。
大きな桜木が炎上する。枝に花を咲かせるように、炎が咲く。
これは一恵の夢だ。鳴瀬を求めて彷徨った一恵の最後の欠片だ。
旭は、闇のものと成り果てた一恵の中にいた。
春になれば会える。その約束は、果たされることはなかった。鳴瀬は本の中へと閉じこめられた。絶滅寸前だったのか、なにかから守られるためだったのか、旭にはその理由を知るすべはない。人間の、守人の手によって、鳴瀬は引き離されたのだ。
一恵は知らなかった。春を待ち続けた。その想いは、やがて誰へとも知れぬ憎しみとなり、春を焼き、自分を焼いた。
火と水。
近づけば、溶け合うこともなく、消えてしまう。だから会えない。だから触れられない。それでも一恵は探し続けたのだ。会えないとわかっていながら、長い間、ずっと探し続けたのだ。たった一人の大切な人を、呼び続け、闇となった。
一恵の闇は、旭のすべてを飲み込もうとしていた。ほどなく、旭も一恵と同化するだろう。自分にできることなど、最初からなにもなかったのだ。一恵を元に戻す方法も、二人が会えるすべも、なにも知らなかった。身に余ることに向かおうとした罰だ。このまま一恵の想いに取り込まれ、闇となり、自分という存在は消えるのだろう。
父に相談すれば、なにか別の道を見つけられただろうか。あのとき、焔にすべてを告げていれば、闇に取り込まれずにすんだだろうか。あともう少し、焔とともに、時を重ねてゆけただろうか。
「旭」
焔が呼んでいる。
あの古い家に、鎖で縛り付けてきた焔の咆吼が聞こえる。
いま思えば、自分にあんな力があったことが不思議だ。それくらい、夢中だった。自分の欲しいものを手放さないために、必死だった。
きっと一恵も同じだ。春がきたら、ほんの瞬きほどの間、ともに花を見る。そんなささやかな願いを、ずっと求めていただけだ。相容れない者同士が、花の散るまでの刹那を、一つの心で愛しただけなのだ。
たくさん、泣いただろう。
涙も嗄れて、それでもなにかに想いをぶつけたくて、そうして闇になる。闇は、心が生む。なにかを求める心が、知らず育んでしまう。それは人もあやかしも同じなんだ。
痛くて、熱くて、渇いて、苦しくて、淋しい。
でももう、会えない。
闇に触れたら、闇になる。だからもう、焔には会えない。会いたいのに、会えない。
『会エナイ』
あなたを闇に染めたくないから。
旭は一恵の中で、瞼を閉じた。
ひんかり。
ふるる。
よるへ。
あれへ。
誰かが歌っている。
るるる。
ふるるる。
一恵じゃない。一恵の中にはほとんどなにも残っていない。からっぽになっていく闇があるだけだ。
はなん。
ふるる。
ひるへ。
あれへ。
「鳴瀬さま?」
旭の腕の中の本が小さく震えた。
「ワタシヲ、出シテ」
「鳴瀬さま」
「一恵ノトコロヘ」
「だめだよ。そんなことしたら、二人とも消えちゃう」
「会イタイノ。最後ニ、アイタイノ」
「最後って」
「モウ消エル時ガキタカラ」
「消えるって、あなたが消えるの? なんで? この本の中にいれば安全なんでしょう? 消えたりしないんでしょう?」
「貴方ト同ジヨウニ、ワタシタチニモ終ワリハクルノヨ。死トハチガウケレド」
「嘘」
旭が隠し本を開く。闇の中なのに、描かれた墨絵ははっきりと見えた。僅かに墨の色が薄くなっている。
「一恵ヲ、一人ニシタクナイノ。ワタシヲ放シテ。貴方シカデキナイ」
鳴瀬の着物の裾が消えた。
「鳴瀬さま」
細い足のつま先が消えた。
「早ク」
滑らかな髪の一房が消えた。
「鳴瀬さま!」
旭が手のひらを落とす。ざらりとした和紙に触れた。手のひらが熱くなる。じゅっと音がする。
闇が乱れた。砕けた闇が、波となって押し寄せる。
「うっ」
旭の身体が押し流される。闇の破片が、旭の手に、足に絡みつく。焦げるにおいと花のにおいが、絡み合う。渦を作る。大きな流れの中に、落ちていく。
「ナルセサマ?」
一恵が呻いた。
「一恵」
鳴瀬が歌うように応えた。
旭は、熱い闇に流されながら、一恵と鳴瀬の声を聞いた。
白い花びらが散る。
白い花びらが舞う。
「散ってしまいますね」
「散っていく花のほうが好きです」
「鳴瀬さまは変わってますね。淋しくないのですか?」
「だって実を結ぶために散るのでしょう? 来年また咲くために散るのでしょう? 潔いではないですか」
小さな笑い声が花びらに乗る。
「やっぱり鳴瀬さまは変わっている」
小さな火の馬が、花びらを追うように、空を跳ねた。きらきらと光をこぼしながら、いつまでも、楽しげに跳ねていた。鳴瀬が歌っていた。
散る花に向けて、手を伸ばした。
その手を、強い力が引いた。
(第八章その6へ続く)