その1
「太郎ちゃん!」
悲痛というよりは、ただ騒々しいだけの声に、家全体がざわりと揺れた。
「やだ、うそでしょ。すぐ行くから、待ってて!」
ガラス戸を閉め切った縁側は、季節を勘違いしてしまいそうに暖かい。眠りに誘われる、一番気持ちのよい瞬間を、騒がしいその声にたたき起こされた。四肢をだらりと伸ばし寝そべっていた焔が、むくりと起き上がる。伸びすぎてぼさぼさの茶髪に指を入れ、ぼりぼりと頭を掻いた。
「っせーな」
一つ、大きく欠伸をする。
「ぎゃっ!」
障子一枚隔てた居間から、携帯の呼び出し音と、とても女性とは思えない悲鳴と、ガラスの割れる音がした。
「旭。おまえの母ちゃん、また暴れてるみたいだけど」
「いつものことでしょ」
縁側に広げた冬休みの宿題から、顔も上げずに答える。
「うるさくて昼寝もできねえ。旭、おまえ、行ってこい」
「ぼくがあの人に適うわけないでしょ。焔も来てよ」
「めんどくさい」
「バカーっ!」
一際、高い声が家にぴしりとひびを入れる。同時に、障子を突き破って、居間からなにか飛んできた。
白い携帯だ。
旭の母、陽桜はパワフルだ。一ヶ月の半分以上を、仕事で日本中を飛び歩いている。そんな陽桜が家にいるとき、この家は一番騒がしい。陽桜は、よくしゃべり、よく動く。そしてよく物を壊す。陽桜が家に戻ってくるたびに、なにか一つ、食器を買い足す羽目になる。今回の損害は、ガラスのコップと障子一枚のようだ。いつも以上の暴れっぷりに、旭も焔も、心地よい縁側から飛び起きた。
「お母さん?」
「陽桜さん?」
縁側から穴のあいた障子を開く。居間の畳にぺたりと座り込んだ陽桜がいた。畳の上には薬箱の中身がぶちまけられ、台所へと続く廊下にはガラスが散乱している。
陽桜が涙目で、旭を見上げた。
「旭、太郎ちゃんが」
「お父さんがどうしたの?」
旭の父、太郎は、岩手へ単身赴任中だ。めったに家に帰ってこない。
「風邪、引いちゃったんだって」
「は?」
母、陽桜の目尻から涙がこぼれ落ちた。中学一年の息子と、居候の茶髪青年の前で、ぼろぼろと泣き出した。
「熱もあってね、声なんかガラガラに嗄れちゃっててね、食欲もないんだって。だからね、すぐにお薬持って太郎ちゃんとこに行こうと思ったのよ。そしたら本部から電話で、いますぐ出張行けって。ひどい! 陰謀よ!」
「陰謀とか、関係ないと思うけど」
旭の口から溜息が漏れた。
「出張って、陽桜さん、この冬は完全休暇とるっていってなかった?」
焔が散らばったガラスの破片を集めながら問いかける。腕にはめた二つの銀のリングがちりんちりんと優しい音をたてている。
「局長命令」
陽桜の声は明らかに恨みを含む。
「なるほど」
旭と焔が肯き合った。
「陽桜さんが呼ばれるってことは、相当な相手なんだな。どんなやつ?」
「学校を丸呑みした大蛇」
「学校なんか呑んだって、腹のたしになんのかねえ。呑むなら人間だろ。人間」
焔が解せないといわんばかりに、眉を寄せる。
「今が冬休みでよかったね。生徒がいたら大変だったよね」
旭がにっこりと笑む。
「あんたたちの、そののんきな感想もどうかと思うわ」
陽桜がティッシュで、思い切り鼻をかんだ。
「イレブンがずっと探してたあやかしなのよ」