その4
「鳴瀬さま」
柔らかな暖かい声が呼ぶ。
「一恵?」
せせらぎが歌うように応える。
「はい。一恵です。鳴瀬さま。今年もまた、花が咲きましたよ。老樹が花をつけましたよ」
「まあ、もう春が来ていたのですね」
「はい。春です」
清流の水面が小さく渦を巻く。その中心に薄桃色の花が咲いた。白い肌、亜麻色の長い髪があらわれる。一恵はそっとせせらぎを離れた。
ぱたぱたと水が葉を叩く。白い裸足が若草を踏む。水が煌めき散っていく。
「一恵?」
「はい」
「どこにいるの?」
「わたしは桜木の向こうにおります」
「こちらに来て、一緒に花を見ればいいのに」
「ご存じでしょう? そんなことをしたら鳴瀬さまが消えてしまいますよ」
一恵の小さな笑い声が、古い大樹の向こうから風にのって流れてくる。気の早い花が白い花びらを一枚散らせた。
「わたしは一恵と見たいのよ」
草を踏む密やかな音がした。
大樹の太い幹の向こうから、一恵が顔を出した。燃える鬣が風になびく。小さな火の馬だった。
「これで勘弁してください、鳴瀬さま」
「いいわ」
鳴瀬が笑う。細い髪が揺れる。
「一恵」
「はい」
「綺麗ね」
「はい。とても」
「また来年も咲くかしら」
「はい。鳴瀬さま。必ず」
「来年も一緒に見たいわ」
「はい。必ず」
鳴瀬がまた笑った。
次の春、花は咲いた。鳴瀬は現れなかった。一恵がなんど呼んでも、せせらぎは応えなかった。一恵は探し続けた。せせらぎを追い、清流をめぐり、鳴瀬を探し続けた。
その次の春、花は咲かなかった。鳴瀬もいなかった。一恵の目から溢れた涙が、若草を焼き、老樹を焼いた。
(第八章その5へ続く)