その3
入り口から一番右の壁際の本棚、右から三つ目、一番下の段。
神路屋では、ここに妖怪事典がある。
食事の後片付けが済み、焔は風呂へいった。旭はコートを羽織ると店表へ出た。電灯を付ける。昨日、ここに着いたときよりも、かなり本が整理されている。床の上の本はあらかた片付けられ、棚の本は綺麗に並べ替えられた。
「東京の家ではぐーたらなのに、ここでは優秀なんだ、焔」
つぶやいた口元から、吐く息が白く形を成した。
焔が在庫管理だといって、パソコンに入力していたのは、本の中に捕らえた妖怪たちのことだろう。旭が逃がし、そして再びハンダクを封じたあの本が、パソコンのそばに置いてあった。
ここに来てからのすべてが新しい。頭が痛くなりそうなくらい冷たい風も、でこぼこした土の上が走りにくいことも、空があんなに青いことも、知らなかった。父がここでどんな仕事をしていたのかも、焔が料理や掃除をいやがらずにやることも、店番ができることも、知らなかった。
出会った妖怪から、強い憎しみをぶつけられたことも、攻撃を受けたことも、初めてだ。妖怪を封じ込めることが、どういうことかも知った。なにも知らずに生きてきた。
たまにしか全員が揃わないけれど、祖母と両親、そして誰よりも近い存在として焔がいて、そんな中で、ぬくぬくと守られてきたのだ。なに一つ自分で考え、決めることをしなかった。それが悔しい。知らないことが、恥ずかしくて、息苦しい。
だから、向かい合ってみようと思った。
今、自分の前に突きつけられたこの問題を、自分の力で、できるところまで、やってみたい。いや、やらなければいけないのだ。
あぜ道で、自分を襲った妖怪のこと。ナルセサマという捜し物。そして背中に残された疵のこと。
背中の痣は、風呂のために服を脱いだときに見つけた。焼け付くような痛みの場所に、小さな黒い痣があった。左の肩胛骨のあたり、ちょうど心臓の裏だ。焔が風邪を移されぬようにとつけてくれたまじないの赤い花とはまったく違う。墨のように重い黒だった。時間をおいてみたとき、痣は大きくなっていた。まるで蕾が花弁をゆっくりと開いていくようだ。丸く大きな花が、背に咲いていた。それに合わせて、痛みが増した。ちょっとでも動けば、息ができないくらい、突き刺さるように深く痛む。夕食の間、父にも焔にも、それを気づかれたくなくて、食卓の下で指を握りこみ食いしばった。
話せば、焔の、あるいはイレブンの仕事となって終わる。それではだめだ。自分の目で相手を見て、自分の耳でその言葉を聞き、心で感じなければ、意味がない。ハンダクを封じたときにわかった。その後の身体の中がからっぽになったような淋しさは、あの封じられたハンダクのものだ。あの声を聞かなければだめだ。それを知り、背負っていくだけの強さがなければ、父のようにも、母のようにもなれない。どっちも選べないまま、どこへも進めなくなる。
それが、怖かった。
旭は妖怪事典を手にとり、踏み台代わりの木の椅子に腰掛け、膝の上に事典を広げた。
(第七章その4へ続く)