その2
瞼を開けた。
父と、人の形をした焔の顔が並んでいた。その向こうに、見慣れぬ天井が見える。
ここは、どこだろうか。
「旭。気がついたか。よかった」
太郎が掠れた声で笑った。桜の大樹も花びらも、春の香りもなかったけれど、暖かい空気に満ちていた。
ああ、お父さんの家か。
旭の身体からふっと余分な力が抜ける。
「お父さん、焔」
やっと声が出た。
「旭、どっか痛いところは、えほっ、ごほっ」
「ほら、太郎さんは布団に戻ってください。まだ熱、引けてないんですから」
焔が太郎に毛布を被せる。
「でも旭が」
「大丈夫ですよ。かすり傷です。心配しないで、早く寝てください。おれが付いてますから。明日には陽桜さん、来るっていってましたよ」
「え、ほんと?」
太郎の顔に花が咲いたように明るく笑む。
「ほんとうです。だから早く、熱だけでも下げないと。それには寝るのが一番です」
「うん、わかった。旭、おまえもゆっくりお休み」
太郎の手が旭の頭をそっと撫でた。自分の部屋へ向かう。古い家の廊下がきしきしと鳴った。店の時計も六つ、鳴った。
「なにがあった?」
待っていたかのように、焔が問うた。その紫の瞳が静かに怒りを抱いている。
「わかんない」
「わかんないってなんだよ。ハンダク捕まえるだけで、そんなボロボロにならねえだろうが。おれを呼ぶほどのことがあったんだろ」
地から湧いた闇の馬は、明らかに物の怪と呼ばれる類のものだ。それも、かなりの力を持っている。直感でわかった。
あれは人を憎んでいる。
最後に闇がぶつかってきたとき、旭の中に流れ込んできたのだ。人への強い憎しみ、ナルセサマへの希求、そして、桜の花びら。
さっきまでみていた桜の花びらの散る夢と、関係ある気がする。
「旭。ちゃんと話せ」
「・・・ハンダクを捕まえた後、家に戻ろうとしたら、急に襲われたんだ。なにか黒いものに」
「黒いもの? ぬめっとしてたか?」
「ううん。黒くて、四つ足なんだけど、揺らいでて、よくわからない。たぶん馬かな。目が炎みたいだった」
「他に特徴は?」
「わかんないよ。追いかけられて、いきなりどつかれて、転んで、そしたら焔が来たんだ」
「本当にそれだけか?」
「嘘じゃないって」
嘘はいっていない。けれど、本当のこともいっていない。焔が知れば、あの妖怪を容赦なく手にかけるだろう。イレブンが知れば、士によって消される。おそらくはそういう相手だ。
だって、まだわかんないじゃないか。あいつが探してるナルセサマのことも、なぜあんなにぼくを憎んでいるのかも、桜の花びらの意味も、なにもわからない。
だからいえない。自分で確かめるまでは、焔にだって話せない。なにが正しいか、決めるのは自分だ。焔が小さく息を吐き出した。
「わかったよ。でも、これから、ここら歩くときは注意しろ。このあたりは、妖怪が多い地方なんだ」
「確かに、東京とは違うよね」
「住みやすい土地なんだよ。豊かな地脈とか、汚されてない空気とかがまだたくさん残ってる。だから集まる。住処を追われたやつらが集まってくるんだ。昔から、ここはそういう場所だ。だからこの店がある。この店にやってくるのは、人間だけじゃない。安全な暮らしを求める妖怪たちを、案内してやる場所でもあるんだ」
「もしかして、ここ、イレブンのじゃなくて、お父さん家の?」
「そう。太郎さんの家が代々ずっと守ってきた店だ。おまえのかあちゃん家、乙葉が退治専門なら、太郎さんの家、神路は守人であり案内人を専門としてきた。神路屋は昔からここにあるんだよ」
「知らなかった」
「太郎さんも陽桜さんも、ほんとうは、おまえをイレブンに巻き込みたくねえみたいだからな」
「そうなの?」
「そうなの。だから、妖怪がらみで怪我なんてすんなよ。おれがあの二人プラスばあちゃんに殺されるぜ」
「大丈夫。気をつけるから。それよりお腹、空いたよ」
「もう夕飯の時間だな。これから支度すっから。起きられるか?」
「うん」
起き上がろうとして、背中に痛みが走る。思わず顔を歪めるほどの痛みだ。
「どうした? どこか痛むのか? 膝とか手の擦り傷は手当したけど」
「転んだとき背中、打ったみたい」
あの闇のものがぶつかった場所だ。痛みとともに、熱を放つ。焼けるようにひりひりと痛む。なにか変だ。
「見せてみろ」
焔が手を伸ばし、旭のシャツを掴む。
「わっ! 大丈夫だって。それよりお風呂、入っていい? ハンダク追い掛けるのに、すごい走ったし、転んだし。あ! 忘れてた。ちゃんと捕まえたからね、ハンダク」
「わかってる。封じ本は片付けたから。風呂、沸いてるぞ。ゆっくり入ってこい。メシの準備しとくから。今日は鍋だ。うまい鳥が手に入ったんだ」
「焔が原型で狩りしてきたの?」
「違うって。猟師の熊鞍のおっちゃんが持ってきてくれたんだ。太郎さんが病気だから精を付けてくれって。野菜もくれたぞ」
「すごい、自給自足だね」
「それがここのいいところだな」
焔がVサインを作り、台所へと向かう。旭は、背中の痛みを堪えるようにくちびるを噛みしめ、風呂場へと向かった。
(第七章その3へ続く)