その2
におう。
におう。
近い。
鳴瀬さまが近い。
どこにいる。
においの糸が分散している。
どちらだ。
こちらか。
人間だ。
あの人間からにおいがする。
あいつが鳴瀬さまを捕らえ、隠しているのか。
あいつが、鳴瀬さまを・・・
あぜ道にできた轍の中をゆっくりと歩いていた。
疲れていた。身体だけではなく、心がひどく重かった。旭は封じ本を両手で胸に抱え、ただ前だけを見て、足を進めていた。
遠く前方を、列車が横切る姿がみえた。町中へはもうすぐだ。この先の川にかかる橋を渡れば、町の外れに入る。川の向こう側の道を、数台の車が走っていく。自転車に乗った人が橋を渡っていく。
旭は小さく息を吐いた。
人がいる。たったそれだけのことに、力が抜けていくほど、安堵している自分に気づいた。早くお父さんに会いたい。早く焔に会いたい。頭に浮かぶことはそれだけだ。旭の足は自然と速まる。
ずん。
大地が揺らいだ。なにかがのし掛かるように、突然、空気が重さと濃さを増した。強いにおいが旭を取り巻く。焦げ臭い。
「なに?」
全身の毛がよだつ。ざわざわと肌がざわめく。身体が硬直する。前に進むことも、後ろに下がることもできない。
目の前の土に、濃い染みが浮き出た。黒よりも闇と呼ぶ方がふさわしい。地の底より、どろりとした闇が次々にしみ出してくる。闇はのそりと起き上がる。ゆらゆらと揺れ動きながら、少しずつなにかの形を成していく。頭ができた。首のようなものが長く伸びる。その下に手ではなく、足が四本、突きだした。
馬?
二つの赤い目が開く。
ここから叫べば、焔なら、自分の声を聞き分ける。それだけの耳を持っている。なのに、声を発するどころか、息さえもできない。目の前の異形のものから向かってくる、突き刺さるように深い想いに、身が竦む。
これは敵意だ。あからさまな敵意に満ちている。
怖い。
あやかしの前で、初めて、恐怖を感じた。
「オマエダロウ」
闇でできた形が、その発する声に合わせてざわざわと揺らめく。形を作るか、言葉を発するか、どちらかしかできないみたいだ。不安定で、留まらない。
「鳴瀬サマヲ隠シタノハ、オマエダロウ。返セ」
その目が炎となる。赤い炎が闇の身体を焼く。なにかの焦げるにおいが漂う。吐き気を呼ぶ。旭は、震える手で口元を抑えた。
「返セ」
闇が一歩、近づく。
「し、知らない」
声が掠れる。喉から空気が出てこない。
「鳴瀬サマヲ返セ」
「知らない、ナルセサマなんて知らない」
「ニオイガスル。オマエカラ鳴瀬サマノニオイガスル。カクシテイルノダロウ」
闇から足の一本が伸びてくる。蹄のようなものが、旭の顔の正面へと近づいてくる。身体が震えて動けない。目の前へと迫る。強いにおいと恐怖に、目眩がした。
目の前にあるすべてから目を背けるように、瞼を閉じ、声を限りに叫んだ。
「ホムラーッ!」
耳元で焔の声がした気がした。いつも自分を呼ぶ、あの優しい声だ。瞼を開く。目の前の闇はまだそこにある。すぐ近くまで押し寄せていた。大きく息を吸い込む。逃げろと自分に命じる。
足、動け! 走れ! 逃げろ!
蹄が土を蹴る。同時に旭の足も地を蹴った。身体を反転させ、田んぼのあぜ道を、蹌踉めきながら走る。
「逃ガシハシナイ」
闇が追ってくる。振り返らずともわかる。重く熱い空気と、ひどいにおいが追ってくる。もうどこへ向かっているのかわからない。それでも走った。
「旭!」
焔の声が耳に直接響いた。焔だ。近くにいる。
「逃ガシハシナイ」
どんっと背中を押された。
「あっ」
息が詰まった。土の上へと倒れ込む。必死で起き上がり、振り向く。背中に激痛が走った。
「くっ」
闇の馬は消えていた。代わりに青い空が見えた。その空を白い獣が駆け抜ける。もし風がみえるなら、きっとあんなふうなんだろう。
「焔・・・」
全身から力が抜けた。青空が薄れていく。旭の目に、白い小さなものが映った。
花びら?
淡い白の花びらが舞い落ちる。何百もの花びらが散っていく。途切れることなく、音もなく降り続く。花びらの向こうに、桜の大樹が見えた。
「旭!」
どこか遠くで、焔の呼ぶ声がした。
太陽のにおいに包まれた。
(第七章その1へ続く)