その1
刈り取りの終わった田んぼが、広がっていた。
たんぼの終点は小高い丘だ。そこからだんだんと盛り上がり、その向こうには雪を抱いた山々が高く連なる。右はどこまでも田んぼで、左もどこまでも田んぼだった。そのところどころに常緑樹の小さな森が小山のように点在する。
旭はあぜ道に立ちつくしていた。
ハンダクというあやかしは、神路屋を出て左へと走り抜けた。駅とは反対の方角だ。店の辺りの路地にはいない気がした。商店街を抜け、川を渡ると家はほとんどなくなった。田んぼが広がるだけの景色は、見晴らしはいいけれど、小さなあやかしの姿はどこにも見えない。
「どっちを探せばいいんだろう」
手にした封じ本をそっと開いてみる。ハンダクが封じられていたページには、焔がしおりを挟んでくれていた。名と、捕らわれた日付が記されている。そしてもう一つ。墨が溢れたような染みが残っていた。
指の先で触れてみる。ざらりとした和紙の上で、墨の落ちたところだけ、わずかにべたりと絡みついてくる。指先が熱を帯びる。しゅっという空気が裂ける音がした。白く無臭の煙が立ち上り、和紙からなにかが浮き上がる。だんだんと形を成し、色づき、影が生まれ、立体となる。丸い物体は、それがなにかを確かめる前に、本の上から転がり落ちた。指で摘み上げる。
「しいの実だ。好きなのかな」
妖怪事典を先に調べてくればよかったと後悔する。好きなものや生活がわかれば、探す手がかりになる。それでも来た道を戻る気にはならなかった。
「今できることをやればいい。今できることをやろう」
口にしてみる。ほんの少しだけ、新しい力が湧いてくる気がした。
青空を仰ぎ、風のにおいをかいだ。冷たさに、つんと鼻の奥が痛くなる。握ったままのしいの実を、手のひらで転がした。
「あっ」
なにか黒いものが、田んぼの溝から飛び上がる。旭の手のひらを掠め、北へと向かい、転がるように駆け抜けていった。手のひらのしいの実が消えていた。
「ハンダク!」
田んぼへと飛び降りた。水分の抜けきった乾いた地面から土埃があがる。走り出してすぐに、土の上の走りにくさを思い知った。盛り上がった土や稲の切り株、無造作に伸びた雑草に足を取られ、よろめく。まっすぐに走れない。アスファルトで舗装された道路とはまったく違う感触に驚いた。
鞠が弾むようにハンダクは駆けていく。旭が追い掛ける。目の前に小さな森が迫ってくる。あの中に逃げ込まれたら、見つけるのは難しい。
息が上がる。吐き出した息はすぐに白い蒸気となり広がった。自分の後ろへ流れ、空へと散る。前をゆくハンダクからも同じように白い息があがってるのに気づいた。
同じなんだ。
人とずれた世界に生きるものたちも、息をして、生きている。生きているのだから、飲み食いもする。走れば息も上がる。ハンダクから溢れていく小さな白い蒸気が、右へ左へと揺れる。
同じ世界に住む、同じ生き物なんだ。ほんの少し、形が違うだけだ。ほんの少し、価値の基準が違うだけだ。
人を祟るのだと焔はいった。ハクザに使役されているこの小さなあやかしに、なにができるというのだろう。
手の中の本がずしりと重さを増す。早く封じ込めろと、催促してくるみたいだ。本を腕に抱きしめる。開けばいい。開くだけだ。そうすれば、封じられる。
どくどくと心音が高鳴る。
「これはイレブンの仕事じゃない」
焔の言葉が耳に蘇る。なにを迷っている。開けばいいだけだ。
「わっ!」
稲穂の切り株に足をとられ、前のめりに転ぶ。ハンダクがあぜ道へと飛び上がろうとしていた。封じ本は右手のすぐ先に落ちた。腕で身体を支え、上半身を持ち上げる。
自分の責任を果たせ。
身体のすべての血が発熱した。その血が、人ではない声を発する。
「ハクダク。戻レ」
「きいいいいいいいっ!」
甲高い叫び声がした。封じ本の上に、真空の穴ができたかのように、周囲のものが吸い込まれていく。土煙がたち、枯れ葉が舞う。黒い鞠の形をしたハンダクを引きずりよせ、その身体を飲み込んだ。
土煙が晴れる。倒れたまま、青い空を見上げた。空の高いところを、黒い大きな鳥が飛んでいる。猛禽だろうか。鋭い声が、ハンダクの残した悲鳴のような叫びと重なった。
むくりと起き上がると、転がっていた封じ本を手にとった。開いていたページに、ハンダクを示す黒い影が墨絵となって収まっていた。本の隙間からしいの実が転がり落ちた。拾い上げ、ハンダクの上に載せてみる。ハンダクに届くように思いを込め、触れた。
なにも起こらなかった。
血の燃えるような感覚と、しいの実一つと、小さな虚しさが、旭の手の中に残った。
(第六章その2へ続く)