8.アカイロ
放課後になって、楓が私のもとにやって来た。ふと、教室の端を見たが、そこに奴はいなかった。
「雫ちゃん、帰ろうか」
楓は顔を綻ばせると、私の左手を掴んで、歩き出した。視界に邦彦が入った。
「雫ちゃん、コレ一ノ瀬君に渡してくれる?」
邦彦はプリントを数枚握りしめていた。楓を見て、少しビクついていたが、私と目が会うと引き攣った笑みを浮かべた。
私は首を捻った。
「え、どうして?」
「一ノ瀬君、体調悪いって帰っちゃって…。雫ちゃん、いつも一緒に帰ってるでしょ?」
私の頬はヒクッと震えた。
一ノ瀬透、お前のせいで変な誤解をされそうだよ。
楓は、それを邦彦の手からゆっくり引き抜いた。
「いいよ、俺が渡しとく。一応、兄貴だから」
「ねっ」、と私に同意を求めたが、そう言われても頷くしかなかった。
一体、このヒトは何がしたいんだろうか。
もうとっくに怪我は治ってしまったのに、楓は毎日私のもとにやって来て…。
透と一緒に私の送り迎えをした。
潮の匂いがして私は顔を上げた。
気づけば、今年の夏に通っていた海の家の近くだった。
楓は、私の手を引くと、灯台がある出っ張った埠頭まで連れていき、自転車を止めて、乾いたテトラポットの上に座った。
「んー気持ちいい!雫ちゃんも、此方に来て座りなよ」
潮風に揺れて楓の髪がサラサラ揺れた。
そして、心地よさそうに目を閉じて伸びてから、灰色の地面をポンポン叩いた。
私は頷くと、膝を抱えて其処に座った。
潮がテトラポットの下にぶつっかて弾けては、それを繰り返している。
カモメが鴉のような鳴き声で灯台の周りをくるくる回って、小さなカニが足元を這い、触覚に人感センサーがあるのか、フナムシたちは、ウジャウジャと岩陰に隠れて入った。
私は遠くを見つめ、海の静寂に耳を傾けた。
久しぶりの海だった。
この頃は、楓と透が私にベッタリ貼り付いて、私に自由がなかったから。
大きく息を吐き、海の匂いを鼻一杯吸い込んだ。
途端、私の中を海が駆け巡り、私はその身体を握りしめた。
父さんの墓参りに行きたいな…。
楓はそんな私の背を撫でた。
私はビクリと跳ね上がり、驚いて楓を見た。
「雫ちゃんは、海が好きなんだね」
私は目を見開いた。
そう、私は海がスキだ。
心の底から、海と同化したいと望んでいる。
「楓さんも…海、スキですか?」
楓はくしゃっと笑った。
「うん。スキだよ。海も雫ちゃんのコトも」
私はドクドクなる胸を抑えながら、楓を見ていた。
楓の瞳は、狂気と憂いを孕んでいて、テトラポットに片手を着き、私の頬をゆっくりなぞった。
頬を冷たい潮風と、それを撫でる楓の手からぬくもりが感じられた。
私は呆けて楓を見ていたが、彼の目は、私の知らない男のヒトの顔だった。
「雫ちゃん、俺と付き合わない?」
彼はそう言うと、私の手にその手を重ねて、至極真面目な表情をしていた。
「楓さん…冗談言わないでください…」
眉を寄せて、睨んだが、私の身体は震えていた。
いつも優しい楓が違うヒトに思えた。
走って逃げ出したくなる衝動に駆られたのだが、彼は只、それを見つめていて、それから海に向き直ると、言葉を紡ぎ始めた。
「雫ちゃんは、男のヒトが嫌いだよね…。俺も嫌いなんだ」
楓は寂しげに笑った。
「…嫌い?」
「うん。雫ちゃんは俺のコト嫌いじゃないでしょ?」
私はゆっくり頷いた。
楓は優しくて、くしゃっと笑う笑顔が、私は好きだった。
「透のコトは、何とも思ってないんでしょ?」
私はまた頷いた。
私は奴が嫌いだ。だって、私の世界に無理矢理侵入してくるから。
「…そして、君は俺に似ている。男のヒトが嫌いなら、徐々に慣れていくべきだよ」
私は楓をじろりと見た。
このヒトは、一体何を考えているのだろう。
確かに、私は男のヒトがキライだし、女のヒトもキライだ。
「だから、俺と付き合おう?」
楓は、私の顔を覗き込んだ。
茶色い髪が夕日に照らされて、キラキラ光った。
私は無性に彼の髪に触れたくなった。
ヒカリだ。彼は光なんだ。私の暗く、深い深海を照らす細い一光だ。
「でも、楓さん。私、まだ貴方のコト、あまりよく知りません」
私は、伸ばしそうになった手をギュッと握った。何かが、変わろうとしている。そんな気がした。
「今から、ゆっくり知ればいいんだよ。付き合うなんて、そんなもんだよ」
当たり前のように、楓は言う。
付き合う。恋愛。結婚。
何処が、何が、違うんだろう。
付き合うコトは、スキじゃなくても出来るっていうコトなのだろうか。
でも、父さんと母さんは愛し合ってなかった。
だから、別れたんだ。
所詮、愛なんてそんなモノなんだ。
「だけど、私…。愛なんてわかりません。付き合うコトがどういうことなのかも。何をするのかも…」
楓は口をぱっくり開けて、間抜けた顔で私を見た。
私は、只、俯いていた。早くこの場から逃れたかった。
「雫ちゃん…付き合ったコト、ないの?」
私は、その声に顔を上げた。楓があまり間抜けた顔をしていて、私はクスッと笑ってしまった。
「楓さん、顔…」
楓は、私の手をギュッと握って、顔を輝かせていた。
「そう、その顔だよ。笑顔だよ!君はもっと笑うべきだっ!」
力強く豪語されて、私はびっくりして、身体を仰け反った。
「…楓さん!?」
楓は、私の身体を引き寄せて、優しく抱き締めた。
「雫ちゃんには、笑顔が似合うよ…」
耳元でそう囁かれ、楓のトクトク鳴る心臓の音が聞こえてきた。
何故だか、異様に疼く私の胸を誰かに掻きむしって欲しかった。
「…ねぇ、駄目?」
楓は、憂いの瞳で私を見ていた。
何だか、ヘンだ。どうしてこんなに胸が疼くんだろう。
だから、オカシくなった私は、コクリと頷いた。
「…考えておきます」
そう言うと、彼は顔を綻ばせて、笑った。
私は彼の胸に抱かれながら、ずっと下を向いていた。
顔を上げる勇気がなかった。
だって、私の顔は何故だか、火照っていたから。
赤いチューリップの花言葉は、(愛の宣言)。チューリップを匂ったことがありますか?鼻にフワッと広がる微かに甘く可憐な匂い。今回は、重要な話なので、季節は関係ありません。雫の成長を温かく見守って頂けたら幸いです。