15.カトレア
変わらない日常。
色褪せたセカイ。
荒んだココロ・・・
そのときふいに、俺の前を蒼い蝶が横切った。
俺は蝶を追いかけた。その蝶が放つ蒼い光と深い闇の哀しみに魅せられた。
その蝶が放つ魔力に吸い寄せられたんだ。
※※※※
俺はにカトレアに垂れている小さな雫を眺めていた。キラキラと水晶玉のように輝いて、健気に咲く花をよりいっそう輝かせる雫。
空のナミダ。
これは一体、空の上にいるダレが流した涙なんだろうか。俺はその雫に無性にキスしたくなった。
しかし、口づけると雫は、ポチャンッと音を立て、床で弾けた。
「健気に花にしがみついて、強がっている。でも、本当は脆くて壊れやすい・・・聞いてる?」
万華鏡のようにいろんな表情を見せる君を俺はいつのまにか目で追っていた。
キミを初めて見たのは、俺の心が酷く澱んだ色をしていたあの夏だった。
嫌な知らせを聞いて、何もかも投げやりにしたくなって・・・俺はただ呆然として海沿いを歩いていた。
そう、その刻だ。少女がオレの前を横切った。日本人にあるまじき栗色のふわふわした髪に、薄いグレーの大きな瞳。そして、オレを見てふわりと笑った。
「お客さんですか?あっ、海の家いま、オバちゃんの作ったたこ焼きがおいしんですよっ!よかったらきてくださいね」
大きな甘い瞳に俺が映る。
「あっ、あの?」
少女は少し困った顔をして俺を見ていた。その時まで固まっていた俺は、ふと我に変えると、口元を上げて笑った。
「はい、是非…」
俺は少女について行き、古びた海の家に入った。少女が注文してきたので、「たこ焼きを…」と答えた。
「飲み物はいかがですか?」
少女は顔を綻ばせて笑った。心臓がうるさいくらいにドクドクいって、その少女を今すぐ抱き締めたくなった。何考えてるんだ。
そんなことをしたら、公然猥褻罪で捕まってしまうだろうが。
チリチリと肌を灼く熱が、俺の頭をも混乱させていた。
「じゃあ、コーラを…」
少女は頷いた。店の奥から、おばさんが出てきて、少女を呼んだ。
「雫ちゃーん、こっち、こっち!」
「あっ、オバちゃん待って!」
雫と呼ばれた少女は俺に会釈して、店の奥へと入って行った。
「雫…、というのか。涙みたいな名前だな…」
俺は顎の前で手を組んで、クスリと笑った。
ちょうど、退屈してたところだし、あいつをからかってやるか…。
俺は、東を誘って、その海の家でアルバイトすることにした。
しかし、少女は、初めて会ったときとは違い、恨めしそうな目で俺を見ていた。
俺は何故だか、腹が立って、雫にわざと突っかかった。雫はいつも、頬を膨らませて、ぷりぷり怒っていた。
時々、アッカンベーして、唇から僅かに覗く赤い舌を無性に絡めとりたくなった。
雫はいつもバイトが終わってから、海に潜った。俺が雫の顔を見たとき、今にも泣きそうで、壊れてしまいそうで…。俺が守ってあげなくちゃって思った。
いつもはぷりぷり怒ったり、笑ったりしてるくせに、その顔は初めてだったから、何故か胸の奥が疼いた。
イヤな予感がして、俺は雫を遠ざけたかった。だけど、気づいたら雫を目で追っていて、目ん玉をほじくり出そうかと躍起になった。
恋なんかじゃない。ただ、アイツは俺と同じ匂いがするんだ。だから、だから…。何も考えたくない。この先、何も知りたくない。愛も恋も信じない。
雫は誰とも付き合わないって言った。なのに、アニキと気づけば付き合っていて、「なんで?」それだけが頭に浮かんだ。
なんで、何で?ナンデ?
雫は、愛を信じないんじゃなかったのか?
「なぁ、尾行とか止めようぜ、東、山辺…」
二人は口元に手を当てて俺を睨んだ。
「しーっ!一ノ瀬君も気になるでしょっ!」
「そうだよ。雫ちゃんが楓先輩とくっついてもいいんだね?」
二人はギロリと俺を睨んだ。何故、俺が…。雫と楓の初デートの日、朝からやって来た二人は、無理矢理俺を此処まで引っ張って来た。
別に、いいじゃん。俺はただ、仲間が欲しかっただけで…。チラリと横目で雫を見ると、横の楓を見てふわっと笑った。
それがなんだか、無性にイラついた。
室内プールに入った二人は仲良く弁当を食っていた。
あの弁当は…雫が作ったんだろうか。雫はすぐに食べ終わって、プールに入ると、ただ浮き輪に座って天井を眺めていた。
たぶん、海とは違うなぁ、とか考えているんだろう。
雫は楓に何か言って、洞窟の方に入って行った。雫の顔色が悪い気がして、俺は雫を追いかけた。
「あっ!何処行くのっ、一ノ瀬君!見つかっちゃうよ!」
「一ノ瀬君っ!」
二人の声がしたが、俺は夢中で雫を追いかけていた。
洞窟に入ると、中は真っ暗で、何も見えなかった。
しかし、目が慣れて来ると、一点から波紋が出きていた。
雫だ。
肩をガタガタ震わせて、今にも崩れてしまいそうな雫がいた。
俺はその怯えた小動物のような小さな背を包み込んだ。
「もう大丈夫だから…大丈夫だから…」
俺が守ってあげるから、その言葉は彼女には聞こえなかったらしい。カクンッと膝が折れて、俺にのし掛かって来た。
「雫!?」
ガクガク揺らしても起きない。その内、入口の方から楓の声がした。
「雫ちゃんー!何処にいるのーっ!」
俺は雫を床に寝かすと、物陰に身を潜めた。暫くして、雫が起きて、楓が雫を抱き締めた。それから、アニキが拗ねたらしく、その背に雫が声をかけた。
「大丈夫だから…」
『もう大丈夫だから…大丈夫だから…』
なんで、それを雫が楓に言うんだ。
俺が唖然としたまま、東と山辺の元に帰ると、二人は口をあんぐり開けて俺を見た。
「どうしたの、その格好…!」
東が言って、自分の身体を見渡すと、濡れた服が、びっしょりとして肌に貼り付いていた。俺は頬を掻いた。
「えっと…、プールに落ちちゃって…」
「え!?大丈夫っ!?着替えあるの?」
山辺がギョッとして俺を見た。そういや、Tシャツは持ってるけど、ズボンはないな…。
「俺、売店見てくるわ。Tシャツ持ってないし…」
二人はこうなることを考えていたのか、スクール水着でプールに浮いたまま頷いた。
「ていうか、お前ら、準備良すぎ…」
俺が笑うと、二人は顔を見合わせた。
「一ノ瀬君って、そんな風に笑うんだね」
え?
「…別に、どうでもいいだろっ」
俺はほんのり赤くなった顔を逸らして、売店に行った。適当にTシャツを買って、更衣室で着替えていると、外から東の声がした。
「一ノ瀬君っ!早く、早くっ!もう、二人とも出ちゃったよっ!」
だから、何で俺が…。カーテンから顔を出すと、あたふたした顔で東が立っていた。
「…山辺さんは?」
俺が睨むと、東はうん、うんと頷いた。
「雫ちゃんと、楓先輩を追いかけてるよっ。僕らも早く行こうよ」
俺は、呆れて溜め息をついた。
「そんなに気になるんなら、二人で追いかければいいだろ。俺は、もう帰るよ」
東は俯いて口をモゴモゴさせた。
「…だって、二人ともすごく良い雰囲気で、丘の方へ行っちゃって…。このままだと…僕…」
肩眉を上げて、言い淀んでいる東を睨んだ。
「僕…何?」
東はキッと俺を睨んだ。へぇ、反抗的な目も出来るんじゃん。俺は余裕で鼻を鳴らして東を上から見下ろすと、東は俺に向かって怒鳴りつけた。
「僕は、雫ちゃんが好きなんだ!誰にも渡したくないんだっ!だから、君が行かなくても、僕は雫ちゃんを追いかけるっ!」
それだけ、言うと「はぁ…はぁ…」と荒い息を上げて、俺を睨むと、踵を返して駆け出した。
俺はそれを唖然として見ていた。
好き?スキ?
「好きって…なんだよ」
俺は髪を掻き上げて、地面を睨んだ。もちろん、答えは何処にも書いてなどいない。
俺は鞄を引っ付かむと駆け出した。何故か分からない。たぶん、東の言った「好き」の意味を知りたかったからだ。
しかし、丘の上に着いたとき、俺は目を見開いた。
目の前には、コスモスの花畑にしゃがみ込んで、顔を寄せ合う二人が居たから。
楓の顔が近づくと、雫は目を瞑った。そして、穏やかな顔で楓を受け入れた。
雫と楓が触れ合う唇を凝視していた。
なんで…、心が…頭が割れるように痛い。身体中が火のように熱い。
俺はおかしくなってしまったんだろうか。
その原因は、恐らく雫だ。
雫がこの目に止まってから、俺はなんだかオカシイ。
昼も夜も雫のことばかり考えて、眠れない日まであって…。特にアニキと付き合い初めてから、眠れない日が続いている。
そうか、疲れてるんだ。そうなんだ。
それからどうやって家に着いたのか、分からないが、気がついたら俺はベッドに横たわって、ただ呆然として天井を見ていた。寝返りを打つと、俺は蹲った。
なんか…どうでもいい。
その時、部屋のドアがコンコンッと鳴ってアニキが入ってきた。俺は楓を睨んだ。
「透、今日は一日中何してたの?」
そんな俺の内心なんて露知らず、満面の笑みで話す兄貴。
「…家にいた」
そのままそっぽを向くと、楓が俺の腰を揺すった。
「…何?」
「雫ちゃんがね…」
「そんなの、俺は聞きたくないっ!」
俺が怒鳴ると、楓はギョッとした顔で俺を見た。
「…透?」
「ごめん、もう寝るから、出てって」
「分かった…。夕飯は?」
「いらない」
「そう…」
兄貴の背中は少し寂しげで、俺は自己嫌悪した。
「何やってんだよ…自分」
カトレアの花言葉は(魔力・あなたは美しい・優美な女性・純粋な愛・成熟した魅力)。夏に舞う揚羽蝶は美しい。