11.秋桜
カチャカチャ…
トントン…
シャカシャカ…
ピーンポーン
私は、ハッとして、顔を上げた。楓さんだ。楓さんが来た。私は急いで玄関へ駆けて行き、ドアを開けた。
「はぁ…はぁ…楓さん、おはようござい…ます」
「し、雫ちゃん、その格好…」
楓はギョッとした顔で私を見た。ゆっくり顔を下に下げると、私は薄いタンクトップと、短パンという霰もない姿だった。
「あ…すいません、こんなカッコォ、で…」
私はモゴモゴと言った。口には歯ブラシが刺さったままだった。
「アハハッ!雫ちゃん面白い…クック…」
楓は涙をうっすら浮かべて笑った。そんなに変かな。
「どうぞ、中へ。まだ準備出来てなくて…」
楓は困った顔をしてポリポリと頭を掻いた。
「駄目だよ、雫ちゃん。まだ着替えてないでしょ?」
「え…あぁ。いいですよ、別に。気にしないんで。それより、外で待たせるの悪いですし…」
「俺が困るんだよ」
楓は、私を無理矢理部屋に押しやると、ドアを閉めた。
楓さんなら、別にいいのに…。それより、待たせる訳にはいかない。
大急ぎでクローゼットから、青い花柄のワンピースを取り出して、鏡の前で髪を高く一つに結んだ。
ピンクのリップグロスを軽く唇に塗って、ピーコックグリーンの鞄を肩に掛け、お気に入りの白のミュールを突っ掛けると、部屋から飛び出した。
「すいません、楓さんっ。待ちました!?」
楓は驚いた表情で、携帯から顔を上げた。
「しっ…雫ちゃん。まだ、五分も立ってないよ」
「え、そうなんですか。良かったぁ…」
私は胸に手を当てて、ホッと息をついた。
「ていうか…、雫ちゃん」
楓は目を右往左往させて、言い淀んでいた。
「何ですか?」
言いたいことは、はっきり言えば良いのに。楓さんらしくない。
「可愛い…」
楓は、顔を押さえて、顔を逸らした。えっ…えっ?
「あっ…ありがとうござい、ます」
それは私にも感染して、頬が火照るのがわかった。
「行こっか、雫ちゃん」
楓は私に手を差し出した。
「…ハイ」
私もその手をとって歩き出した。
※
駅に着いて、切符を買った。電車を乗り継いで行った先は、とある街の中心地だった。
「楓さん、何処行くんですか?」
隣を歩く楓を見た。私は何も、聞かされていなかった。ただ、「水着を持って来て」以外は…。
「まだ、秘密っ。着いてからのお楽しみだよ」
楓はふふっと笑った。何だか腑に落ちないまま、仕方なく楓について行くことにした。
それから、バスに乗って、小一時間経った頃、都会の喧騒を抜け出して、綺麗な紅葉が目に飛び込んで来た。
私は、目を見開いて、窓に貼り付いた。
「楓さんっ!紅葉っ!」
瞳をキラキラさせて言うと、楓は嬉しそうに頷いた。
バスを降りるとそれからまた、凄いモノが目に飛び込んで来た。
彩り鮮やかな秋の花が花のアーチを作って私たちを待ち構えていた。
「すごいっ!楓さん、エデンの園みたいっ!」
楓は、うんうんと頷いた。
私は、はしゃいでいた。何処かに出掛けるのは、本当に久しぶりだった。
両親は、私が物心ついたときには、仲が悪くて、何故、麻由と私が生まれたのか疑問を抱いたほどだった。
それでも、二人は私と麻由の為に、仲を取り繕っていた。しかし、小学五年に上がった頃には、母さんは帰りが遅くなり、父さんは食事中、全く話さなくなった。私は、幼い麻由の面倒を一人で見ていた。
突然、背中に手が当たって、私はビクリと跳ねた。
「雫ちゃん、ようこそ、エーデルワイスの園へ」
楓はおどけた表情で、それからにっこり笑った。
「エーデルワイスの園…?」
「うん。初恋の思い出って意味だよ」
私には、全くもって関係ないことだ。だけど、この花のアーチは魅力的だった。
「温水プールもあるんだよ、行きたい?」
「えっ!行きたいっ!行きたいですっ!」
思わず、何度も首を縦に振った。
温水プールなんて…なんて、良い響きなんだろう。
「ふふっ。じゃあ、その前にお昼にしよう。お腹減ったでしょ?」
無意識に、私は鞄を触った。中には、朝早く起きて作った弁当が入ってる。
どうしよう…言おうか、言うまいか…。いや、言わなきゃ。
「あ…楓さん」
「何?」
楓は、マップから顔を上げた。
「お弁当、作ったんですけど…」
それを聞いた途端、楓の顔が輝いた。
「ホントに!?作ってくれたのっ?」
「え…あの、楓さんこないだ、作ってくれるだけで嬉しいって言ってたから…」
「嬉しいよっ!雫ちゃんが作ってくれたらならっ」
肩をガクガク揺さぶられて、脳ミソがぐるぐる回る。
「ふぁいっ、わかったから…」
「あっ、ごめん。つい…」
楓は私の様子を見てパッと手を離した。
「室内プールの中で、食べようか」
私は頷き、手をとって歩き出した。
「雫ちゃんの手は、小さくて柔らかいよねっ」
楓はふにふにと、私の手を触った。
「…楓さんの手は、大きくて、ゴツゴツしてて、指がすごく長くて…なんかオトコのヒトって感じですね…」
その手を見ながら、私は冷静に観察結果を述べた。
「怖い?」
楓が私の顔を覗き込んで聞いた。不思議と怖くなかった。楓の手は私の手にしっくりきた。
「怖くないです、楓さん優しいから…」
楓は肩眉を上げ、訝しげな顔をした。
「ヒドイなぁー。俺も一応、オトコなのにっ」
楓はプゥと頬を膨らませた。その姿が、何だか子供みたいで可愛い。
「楓さん、変な顔しないで」
「そうだっ、雫ちゃん。水着持って来た?」
水着は、一着しか持ってない。
「学校の奴を…」
楓は顔を顰めさせた。えっ?なんか、変なコト言った?
「雫ちゃん、コレ着て」
何やら、紙袋を押し付けられた。有無を言わせない瞳だったので、仕方なくそれを受け取った。
※
私は、浮き輪の上に座って塩素たっぷりのプールの上をぷかぴか浮いていた。天井をじっと睨んでいたけど、そこには満天の青空はなくて、無機質な白い壁。
小さな窓から覗く青と光はあまりにも少なかった。ぼーっとしていた私に、楓さんがプールサイドから声を掛けた。
「雫ちゃん、もういいの?こんなにおいしいのにっ」
楓は、右手にタコさんウィンナーを左手に玉子焼きを持って、口を尖らせていた。
「お腹減ってないので…。あっ、ちょっと探索してきてもいいですか?」
私は、ふと見つけた洞窟ゾーンを横目で見た。
「いいよ。でも、あんまり遠くに行っちゃダメだよ?」
楓は訝しげな顔をしていた。「すぐに、追いかけるからね」と聞いて、私は頷いた。
浮き輪に掴まりながら、その洞窟に泳いで行った。
そこは、しんと静まり返っていて、薄暗かった。回りが青緑の発光色で蛍のお尻のように光っていて、私はすぐに心奪われた。
「わぁーっ、すごい…」
誰もいない洞窟の中に私の声だけが響いた。不意に、蛍光が切れ真っ暗になり、私は辺りを見回した。
「…何っ!?」
自分の声だけが暗闇に虚しく響く。
突然、恐怖が襲ってきた。この世界に自分は一人…取り残さてしまったのではないかと。
まるで、何の音もしない寂れた我が家の中にいるように。
誰か、誰か…私を!
そんなことを願っていたら、本当に後ろから腕が伸びてきて、私は身体を硬直させた。
誰…?後ろを振り向こうてしたけど、動けないように、ギュッと抱き締められた。
「大丈夫だから…もう、震えるな」
耳元で囁かれる声にドッと力が抜けていった。そのとき、初めて私は震えていたことに気がついた。
何処かで聞いたことがある声に私は安心して、そのヒトの胸に身を任せた。
※
「雫ちゃんっ!雫ちゃん!!大丈夫っ!?」
私の意識が戻ったとき、目の前には、心配そうな顔をした楓さんがいた。
夢だったのだろうか…全て。
私は、呆然としたまま上体を起こした。
「ダメだよ、雫ちゃん。そんな格好で、こんなところで寝てちゃっ」
楓は、ビシッと私を指差した。下に目をやると、ピンクのストライプが入ったフリフリの水着。確かに、これではお腹が冷える。
私は困った表情で楓を見た。
「…すいません」
眉を寄せて、楓を見たら、その腕に包まれた。
「心配したんだよ、雫ちゃんを追いかけて行ったら此処で倒れてたんだから…」
楓はその手に力を込めた。
「倒れ、て…?」
「そうだよ、具合悪いなら言ってくれなきゃ分かんないよ…」
そんな筈はない。私は今日、機嫌も体調も絶好調だった。気づかぬ内に、疲れていたのだろうか。
「ごめんなさい…楓さん。もう、大丈夫ですよ…」
私はその手をゆっくり剥がした。楓は、少し傷ついた表情をしたが、取り繕うように笑った。
「あんまり、心配させないでね」
シンパイ?
「なんで…楓さんが私を心配してくれるんですか?」
私は頭に浮かんだ疑問をそのまま述べた。シンパイとは、気がかりで、相手の面倒を見るコト。相手の世話をするコト。楓が私を気にかける理由は一体、なんだろう。
「恋人でしょ?彼氏が彼女のコトを心配しちゃいけないの?」
コイビト…?一応、私は楓さんの彼女なんだっけ?ということは、私は楓の心配もしなければ、いけないのだろうか?
「…楓さん、すいません。シンパイかけて。迷惑でしたよね…」
俯いて答えると、楓はポンポンと頭を撫でた。
「楓…さん?」
「いいよ、もう許してあげる。俺が君を一人にしたから、怖い思いをしたんだよね。あの日も、今日も…俺はなんも学習してない…」
…違うっ!楓さんのせいじゃないのにっ!あれは、アイツのせいで。これは、私のワガママで…。落ち込んで、背を向けた楓さんの背を抱き締めたくなった。
だけど、なんだかそれは出来なくて、私はその背に声をかけた。
「楓さん、もう大丈夫だから…」
『もう大丈夫だから…』
きっとアレは楓さんが言ってくれた。私を安心させたその呪文を繰り返した。
ゆっくり楓は振り返ると、小さく笑った。その瞬間、心臓がドクンッと跳ねた。
ヘンだ、絶対ヘンだ。どうして、私は楓さんに、笑って欲しいと思うのだろう。
彼はいつも太陽の下でキラキラ輝いて、日溜まりみたいなその存在に、私はいつも触れたくなる。
楓さんのせいで私は……。
誰も教えてくれない答えを胸に抱えたまま、その気持ちを胸に押し込めた。
※
「早く、早くっ、雫ちゃんっ」
楓は、丘の上から私を見下ろしていた。当初の目的だった丘に着いたのだ。
園内にあるとは言え、私はプールに入った後の倦怠感で、身体中がずっしりと重かった。
なんで、楓さんは、あんなに元気なんだろう。
「楓…さん、待って…下さいっ」
私は、はぁ…はぁっと荒い息を吐きながら、やっと楓の横に並ぶと、膝に手をついた。
「…疲れた」
楓は、私の背をポンポンと叩いた。不思議に思って、楓を見ると、満面の笑みで笑って、指差した。
「…見て、雫ちゃん」
その指の先を辿って行くと、色鮮やかなコスモスの花が草原の上に何処までも続いていた。
私は唖然として口を開けた。
「か…楓さんっ!すごいっ!!」
「ねっ!」
そう言って、笑う楓は夕日に照らされて、キラキラしていた。
嗚呼…このヒトは、なんて輝いているんだろう。
頬が赤らむのを感じた。
それを隠す為なのか、なんなのか、コスモスに近づいて、私は其処にしゃがみ込んだ。
目の前には、一輪のコスモスの花。風に揺れて、そのカラダをしなやかなにくねらせている。
「…花は、強いですね」
私はコスモスを見つめながら言った。別に誰に話しかけた訳でもないけれど、楓さんは「え?」と、私の独り言に返事を返してくれた。
「雨に晒されて、風に吹かれても、軟らかいカラダでしなやかに、柔軟に、かわすでしょ?…尊敬しちゃう」
私は楓を見た。楓は、私の隣にしゃがみ込むと、困った顔をして笑った。
「それは、雫ちゃんだよ。しなやかで、奥ゆかしくて、愛らしい」
「…愛らしい?」
「雫ちゃんはさ、俺の光なんだよ。俺と透の両親はさ、小さい頃から仕事、仕事でさ…いつも家に居なかったんだ。だから、今でも透の面倒は俺が見てるんだ」
そう言った楓は少し寂しそうな顔だった。
「私は光なんかじゃありません…。光なのは楓さん…」
楓と目が合ったとき、二人は真っ赤だったと思う。
「雫ちゃん…」
楓さんの顔がゆっくりと近付いてきた。私は目を閉じて、楓を待った。柔らかい唇が私のそれに触れた。
嗚呼…私は、幸せだ。このとき、私はそう思った。楓さんがいてくれれば、何もいらないかもしれない。
涙が零れそうになったけど、私はグッと力を込めた。
それから、何も話さず、ただ手をずっと繋ぎながら、私たちは帰路につき、やがて私の家の前で別れた。
私は夕食を作りながら、人参を切っていたその手を止めた。
「そういえば…、楓さんの両親…。…ということは、アイツも…?」
私は自分の考えていることに首を振った。
別にシンパイしてるんじゃない。
ただ、あの時の…家で見た今にも泣きそうな透の顔が、まだ忘れられなかった。
花言葉は(乙女の心・乙女の純潔・真心・美麗)です。雫の純潔を表しています。