10.ハギ
俺はつけっぱなしのテレビを前にして、寝間着姿でただ呆然として宙を見つめていた。
テレビから何やらザワザワと雑音が聞こえてくるが、自分の耳には入らなかった。
放心したまま、雫のコトを考えていた。
昨日、お見舞いにやって来た雫は仲良く兄貴と、料理をしていた。
俺の為にお粥を作ってくれた。熱が下がるまで、此の家に留まってくれていた。
恥ずかしそうにしながらも、口移しでお粥を食べさせてくれた。
雫の最後の言葉が頭の中を何度も何度も駆け巡っていた。
『アンタなんか大ッ嫌い!』
そう言った雫は、ボロボロと涙を溢して、真っ赤な目で俺を睨んでいた。
火のようにチラチラと垣間見える瞳には、怒りが渦巻いていた。
俺はソファーに横になって、じっと天井を見つめた。
「雫の奴…何で、あんなに怒ったんだ?」
暫くして、玄関のドアがカチャカチャ鳴って、リビングに兄貴が入って来た。
横目でそれを確認すると、その顔は気持ち悪いくらいの満面の笑みで、俺は即座に顔を逸らした。
「透、体調はどう?」
楓は、ダイニングの机の上に鞄を乗せて訊ねた。
「あぁ…うん。もう、だいぶ楽だよ」
俺は、上の空で答えた。
「透が風邪引くの久しぶりだな。お前のは、一年に一回ぐらいだから、行事に変わりにいよな」
楓はアハハッと笑いながら、上着を脱いで、椅子に座った。
こっちに向けられた瞳がランランと輝いていて、何だか気持ち悪い。
何か、良いコトがあって、聞いて欲しいんだろう。
俺は仕方なく、兄貴に訊ねることにした。
「兄貴…、なんか良いコトあったの?」
嫌々ながらそう言ったら、兄貴は待ってましたとばかりに、俺の近くにやって来て嬉しそうに顔を綻ばせた。
「付き合うコトにしたんだよ」
俺は肩眉を上げて、兄貴を見た。
「ふーん。良かったね。告白されたの?」
どうでも良くて、うつ伏せになると、俺は漫画を開いて読み始めた。
適当に流そう。
「んや、俺がコクったんだ」
楓は、俺の背をバシバシと叩いた。
痛い。
兄貴をギロッと睨んだ。
「あっ、そう。ハイハイ、良かった。良かった」
楓は、今度は俺の靴下をもぎ取り始めた。
何なんだよ、こんなにはしゃいでる兄貴は一体何時振りだろう。
「もう、本当に嬉しくて、嬉しくて。何度も口説いてたからさ、やっとオッケー貰って…本当に俺さ、雫ちゃんのコト好きなんだ」
顔を赤らめて、しゃがみ込む兄貴の最後の言葉に俺は一瞬、固まった。
雫が…好き?
「兄貴、雫と付き合ってるの?」
俺はドクドクなる胸を抑えながら、質問した。
「うん、そうだよ。雫ちゃんすごく可愛いよね」
楓は、照れ臭そうな顔をした。
「雫は…兄貴のコトがスキなのか?」
俺は呆然としたまま、気づけばそんなコトを口走っていた。
そんなコトを聞いて、どうするつもりなんだ。
「んー。それは、まだ聞いてないなぁ」
兄貴は、鞄から雑誌を取り出して、何でもないように答えた。
「え?付き合うって…」
「うん。付き合うよ。彼氏と彼女だ。だけど、まだそんなんじゃない」
楓は、机の上にあった煎餅をガジッとかじった。
「そう…なんだ」
俺はホッと息を吐いていた。
なんで、落ち着いてんだ、自分。
そうか、雫は俺と同じ匂いがするから、だから何だか落ち着かないんだ。
ただの仲間意識だ。
「ねぇー、何処がいいと思う?」
楓は、俺に開いた雑誌のページを押しやった。
「何が?」
「初デートの場所だよ」
脈打つこめかみが何かを俺に知らせようとしていたが、俺はそれを無視した。
苛立ちながら返事を返す。
「…別に、何処でもいいんじゃん?そんなの兄貴が決めればいいだろ?」
もうこれ以上、付き合ってらんない。
俺は、ゆっくりと起き上がると、後頭部に両手を組んで歩き出した。
「やっぱり、海かなー。雫ちゃん、海スキだし…」
その声に俺は勢いよく振り返った。
「だっ、駄目だ!」
焦っていた。
この夏の思い出が頭を過った。
海に潜る雫。甘い唇。
雫を何かに取られそうな気がした。
楓は、きょとんとした顔で俺を見た。
「どうしたの、透。やっぱり、まだ体調悪い?」
そうだ、体調が悪いんだ。なんでこんなに胸が疼くんだ。ヘンだ、おかしい。
俺は髪を掻き上げた。
「あ…うん。まだ、少し…悪いかも…」
「そっかぁ。じゃあ、寝てな。やっぱり、海は止めようかな。もう、秋だし泳げないよね…」
その言葉に、ホッと息を吐いたとき、床にキラリと光る何かを見つけた。
俺はそれをつまみ上げた。
「俺が…あげた…ネックレス…」
光る薄紫色の石は、何だか寂しげで、それをギュッと握りしめた。
「ふふっ。早く土曜にならないかな」
俺はゆっくり二階に上がり、そのままベッドに倒れこんだ。
ミシッと軋む音がした。
「また…受け取って貰えなかった…」
一体、何故こんなに雫に執着しているんだろう。
俺は雫に何を望んでいるのだろうか。
俺は瞳を閉じた。
これ以上、何も考えたくない。
そのまま、意識が遠退いて逝った。
※
二日後、ようやく学校に登校したとき、雫は俺をチラリとも見なかった。
ずっと、兄貴と一緒にいた。
二人で笑いあっていた。
俺は一日中雫を眺めていた。
三日分の、エネルギーを補充するように。
「…雫ちゃん、楓先輩と付き合ってるんだよね」
東が何だか泣きそうな顔で俺を見ていた。
「あぁ、兄貴がそう言ってた…」
「一ノ瀬君は、何とも思わないのっ!?」
荒い声に俺は驚いて東を見た。
どうして怒るんだよ。
「…東?何、怒ってんの?」
東がキッと俺を睨んだ。
こいつが怒るのは、本当に珍しい。
「だって、雫ちゃん、楓先輩のモノになっちゃたんだよ?」
違う。雫は、誰のモノにもならない。強いて言えば、海のモノなんだ。
「…付き合ってるだけだろ?」
楓と雫の声が聞こえる。耳を塞ぎたかった。何も聞きたくない。
「雫ちゃん、明日明いてる?」
「あ…はい。明いてますよ?」
ハッと楓を見た。兄貴は、デートに誘うつもりなんだ。
雫は何も知らず、純粋無垢な顔で、楓を見上げていた。
「何処か行きたいんですか?」
雫はクスリと笑った。
「うん!雫ちゃん、コスモスの丘に行こうよ。今はね、コスモスが満開でキレイなんだって」
「誰に聞いたんです?」
ちょっと困った顔をして雫は楓を見た。
「わぁーっ!雫、初デートだねっ!うらやましいっ!」
山辺和夏の声に雫は、ボッと顔を赤らめた。
「ちっ、違うよっ!」
慌てて手を振る雫に、楓は少しふて腐れた顔をした。
「…違うの?俺とじゃ、イヤ?」
「えっ…ちがっ…違わない…です…」
その声は段々、小さくなり、やがて雫はうつ向いた。
「何だよ、あれ…」
俺はガンッと机に頭を打ち付けた。
なんであんなに恥ずかしそうな顔してんだよ。
「一ノ瀬君?」
俺は窓枠に正確に嵌まった空を見上げた。
その中を蜻蛉が横切った。
何だか無性にその窓を壊したくなった。
ハギ(萩)は落葉低木。秋の七草の一つ。花言葉は、(物思い)。