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クンツァイト  作者: 七海
<玉止め>
1/22

1.ムスビメ


 

 広がるのは何処まで行っても青。蒼。アオ。

 

 


 何の憚りもなく、服を脱いで、水着になると、私は無限に広がる海に飛び込んだ。

 


 

 バシャバシャッと冷たい水が火照った躯をひんやり包み込んで気持ちいい。

 

 


 そのまま沖まで泳ぐと、私は海に侵入した。柔らかい水が私を迎え入れた。

 

 


 海はいい。特にこうして潜っているときが、一番好きだ。

 


 

 回りには私以外、何も存在しない。何者も阻害しない私だけの空間。

 

 


 やっぱり、此処に来て良かった。 

 

 


 しかしその考えは、オバちゃんの一言で吹き飛んだ。

 

 


「え?」 

 

「だからー、今日からぁー。海の家もね、人手が足りなくて困ってたのよー。雫ちゃんが来てから、幾分マシになってたけど、夏休みも半場でしょー?アルバイト雇ったのよ。イケメンでしょー?」

 



 

 そう言って、オバちゃんがバシバシ叩く人物を恨めしげに見た。

 




 茶髪に両耳にピアス…、いかにもチャラそうな男…、とは正反対の冷めた瞳の好青年がそこにはいた。

 




 私がじっと見ていたのに気がついた少年は、ふんっと鼻を鳴らして顔を背けた。

 

 


 何よ、コイツ――――――――!

 

 


 私は、店の裏の古い井戸から伸びた手押しポンプの水を引きながら、その手に力を込めた。

 


 

 一ノ瀬透…。

 


 


 涼しい顔しちゃって。ああいうタイプが一番嫌いだ。

 


 

 さらさらした黒髪に切れ長の黒い瞳にちょっとでもときめいてしまったなんて、死んでも言わないんだから。

 

 


 冷たい水が踝に当たって、ハッと下を見ると、汲んだバケツから水が溢れ返っていた。

 


 

「…覆水盆に返らず」

 

 


 イライラしながらその声に、振り向くと案の定、一ノ瀬透がいた。

 


 

 コイツは、何かと言って、私に突っ掛かって来るのだ。今日は何回目だろうか。

 


 

「何よ、すぐ片付けるわよっ」

 

 


 訝しげな顔をして答えると、ふーんと言って、一ノ瀬透は店の方へ帰って行った。

 

 


 まったく、なんなのよ、アイツは。

 


 

「新谷さん、コレ…」

 



 

 それからバケツを並々満たし終わり、私がせかせか水を運んでいると、東が私にタオルを手渡した。それに顔が自然と綻ぶ。

 


 


「ありがとう、東君」

 

「いや…」

 

 


 東は口ごもりながら、じゃあ、と手を上げて、立ち去って行った。

 

 


 東邦彦はもう一人のアルバイトだ。素朴で、何処か影のかかった少年に、私は共感を得ていた。

 

 


 ああいうタイプは好きだ。だけど、アイツは…。

 

 


 私はタオルを握り締めると、眉を寄せて、作業を再開し始めた。

 

 


 イライラしたときには、海に潜るに限る。私は、Tシャツと短パンを脱いで、一日中着ていた水着姿になった。

 

 


 もう夕方で、地平線に沈んで行く夕日が美しい。回りには、カップルと老年の夫婦がちらほらいるだけだった。

 

 


 足に当たる海の水は、思ったより冷たかった。もう夏も終わりかもしれない。

 

 



 それでも、少しぐらいなら大丈夫だろう、日が暮れる前に浜辺に戻れば…。

 

 


 この世界から脱出したくて、私は海に逃げこんだ。あまり遠くまで行かず、沿岸付近で私は潜った。

 


 

 海が優しく迎え入れてくれた。母なる海はなんと寛大なのだろう。頬に零れたはずの涙は海の水と溶け合って、調和された。

 


 

 瞳を閉じると、いよいよ世界は私だけになった。

 


 

 色とりどりの魚も、キラキラ光るオレンジ色の海もない。

 


 

 純粋な闇の世界。

 

 


 私は、此処へ逃げて来たんだ。

 

 


 中学2年の夏の始め、父親が夜中に暴れ出し、母親が泣きながら父親を止めて、妹はわんわん泣き出した。

 

 


 5日経つと、我が家はしんと静まり返り、部屋を出て、キッチンへと下りると、机の上に預金通帳と手紙が置いてあった。

 

 


 ※※※※

 

 雫へ

 

 勝手に離婚を決めてごめんなさい。でも、母さん限界だったの。雫もお父さんがどれだけ酷いか分かってるでしょ?麻由は母さんが引き取ります。貴方だけ、其処に置いていくのは、心配ですが…。何かあったら此処に行きなさい。それでは、元気で。必ず迎えにいくから、それまで待ってて下さい。 母

 

 

 ※※※※

 

 


 その手紙を見たとき、嗚呼…なるほど、とただそれだけ思った。

 


 

 私は、捨てられたんだ、母さんに。

 


 

 それから、母さんと妹がいなくなった我が家で、父さんが毎晩のように知らない女のヒトを連れて来て、部屋に入って行くのを何度も見た。

 

 


 それがない日は、毎晩酒に明け暮れて、酔った父さんは私を殴り続けた。哀しくなかった。

 


 

 だって、きっと父さんは哀しくて私を殴るんだ。

 

 


 涙が出ないから、変わりに暴力を振るうんだ。

 


 

 学校に行く度、先生や友達に、痣のことを訊ねられ、先生が家庭訪問を提案し始めた時に、コトは起こった。

 


 

 家に帰ると、息が詰まるような臭いが部屋を充満していた。

 


 

 嫌な予感がした。鞄をその場にドッサリ落とすと、私はリビングに駆け込んだ。

 

 


 其処には、手首を切って、横たわる父さんがいた。机の上には、中身が零れた何かの薬品。加えて、切れたガス線。

 


 

 私は知っていた。父さんはこの世界から脱出したかったのだ。

 

 


 だって、母さんは、いつも家にいないじゃない。

 


 

 たまたま隣町に友達と映画を見に行った時、知らない男のヒトと怪しい建物に入って行くのを私は見た。

 


 

 震える手を抑えて、友達に其処が何処だか聞くと、ホテルだって教えてくれた。

 

 


 やっぱりか…、やはり母さんは父さんを裏切っていた。父さんは母さんが嫌がるから、煙草もお酒も止めて趣味と言えば、ドライブと日曜日の野球観戦なのに。

 


 

 母さんは、父さんをアイシテないんだ。

 


 

 だから、私には愛というものがどういうモノだか分からない。

 


 

 暫く、ショックで放心していた私の所に近所の人が通報したのか、警察と救急車が来た。

 


 

 私は動かなくなった父さんの手を一晩中握っていた。

 


 

 冷たくなるその手を掴んで、父さんの魂を僅かでもこの手から逃すまいと強く強く握りしめていた。

 

 


 朝が来て、隈を作った私の肩にゴツゴツした堅い手が置かれた。その人は言った。

 


 

「父さんを今から、天国に成仏させるんだよ」

 


 

 知ってるよ。焼くんでしょ。父さんは、冷たくて狭いお墓の中に押し込められるんだ。

 

 


「嫌だ!父さんが逝くなら私も逝くから!私も連れてって!」

 

 


 置いてかないでよ…。

 

 


 溢れる涙をそのままにして、私を押さえる白衣の悪魔に毒づいた。

 

 


 しかし、悪魔は父さんが白い小さな箱に入るまで離してくれなかった。

 


 

 それから、小さくなった父さんの前で、10日間手を合わせて、祈った。

 


 

 私も連れて行って、父さん。

 


 

 だけど、祈りは届かなくて、次の日に養護施設のオジサンが私の腕を引いて、無理矢理車に押し込んだ。

 

 


 私は泣いてせがんで、母さんが残した手紙に書いてあった住所を伝えた。

 


 

 此処に行くから、解放して下さい、と。

 


 

 私は重い目蓋を開けた。其処には、群青色になった深いアオが映っていた。まずい、日が暮れたんだ。私は手足をバタつかせて、浜辺へと泳いだ。

 

 


 いつの間にか、オバちゃんがいる海の家は小さくなって、灯台のように明かりを照らしていた。

 


 

 私は海の真ん中にいた。

 


 

 沿岸まで戻った時に、足が吊った。

 


 

 そうか、私は此処で死ぬんだ。そう悟って、海に沈んだ時、力強い腕がガッシリ私を掴んだ。

 


 

 驚いて見上げると、其処には私の嫌いな一ノ瀬透がいた。

 

 


 コイツ、私を殺しに来たの?何処までも嫌な奴だ。死ぬなら、一人で静かに死にたいのに。

 

 


 波に埋もれながら海から顔を出した時、一ノ瀬透は言った。

 


 

「俺に掴まれ!」

 

 


 怒鳴るような声に私は目を見開いた。

 


 

 一体、何がしたいんだろう。

 

 


 その声に、私はいつの間にか一ノ瀬透の背中にしがみついていた。

 


 

 一ノ瀬が私を運んで泳いで行く。

 


 

 ゴボゴボと口に入って来る水の中で、広い背中が見えた。

 

 


 それは、父さんを思わせた。私がその背中に擦りよると、彼はビクリと背中を硬直させた。

 


 

 ふいに、足が止まり、私たちは海の上に浮いた。

 

 


 もう、足だってつくのに。

 


 

 一ノ瀬は、私の腕を引き寄せると顔を近づけて、唇を私に押し付けた。

 


 

 何が起こったか、一瞬分からなかった。

 


 

 それから、彼は私に口づけているのだと気がついた。

 



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