ハゲ、異世界で「神(髪)なしの聖者」と崇められる
【作品について】
ジャンル: 異世界ファンタジー
属性・要素: 異世界、ざまぁなし、ハッピーエンド、ギャグ要素
それでは、最後までごゆっくりお楽しみください!
俺の人生において、もっとも深刻な問題。
それは金でも、仕事でも、恋愛でもない。
髪がないことだった。
四十歳。
世間的にはまだ中年の入り口と言っていい年齢だと思うし、思いたい。
だが、俺の頭頂部だけは、二十代後半という若さから急速に過疎化が進み、今や見事なさら地と化していた。
朝、洗面台の前に立つ。
鏡を見る。
ため息をつく。
これが俺の日課だった。
別に、誰かに直接バカにされたわけではない。
ただ、視線が気になる。
電車の窓に映る自分の頭が気になる。
会社の蛍光灯の下で、妙に頭皮が光っている気がする。
帽子が必須アイテムになった。
育毛剤も試した。
頭皮マッサージもした。
高いシャンプーにも手を出した。
だが、俺の頭頂部は一切の交渉に応じなかった。
「いっそ、髪がないことが長所になる世界にでも行けたらな……」
そんなことを、俺は本気でも冗談でもない声でつぶやいた。
その瞬間だった。
洗面台の鏡が、妙に白く光った。
「……え?」
次の瞬間、俺の視界は真っ白になった。
目を開けると、そこは森だった。
鳥の声。
湿った土の匂い。
見たこともない巨大な木々。
そして、目の前には耳の長い少女がいた。
金色の髪を腰まで伸ばした、美しい少女だった。
いわゆるエルフ、というやつだろう。
彼女は俺を見るなり、目を見開いた。
「きゃああああああ!」
「す、すみません!」
俺は反射的に頭を隠した。
初対面の女性に叫ばれるのは、現代でも異世界でもなかなか心にくる。
だが、少女の反応は俺の予想と違っていた。
彼女は震えながら、その場にひざまずいた。
「まさか……本当に……」
「え?」
「神なしの御方……!」
神なし。
いや、待て。
聞き間違いか。
髪なし、ではなく?
「あの、俺、たぶん人違いで……」
「いえ、間違いありません!」
少女は顔を上げ、俺の頭をまぶしそうに見つめた。
やめてくれ。
その角度は一番きつい。
「この世界では、髪は神の加護の証です」
「はあ」
「金髪は太陽神の加護。銀髪は月神の加護。赤髪は炎神、青髪は水神。髪を持つ者は、いずれかの神に守られているとされています」
「なるほど」
「ですが、あなたには髪がない」
「言い方」
「つまり、あなたは神の加護を必要としない御方。神に頼らず存在する、神を超えし者」
「いや、だいぶ話が飛んだな」
「神なしの聖者様です!」
その日、俺は人生で初めて、自分の頭頂部によって崇められた。
少女の名前はリーファといった。
彼女は近くの村に住む見習い神官らしい。
俺が事情を説明しようとしても、リーファは何を言っても感動していた。
「俺、ただの会社員なんだけど」
「身分を隠されるのですね。なんと奥ゆかしい」
「いや、本当に何もできなんぞ」
「力を誇示されないのですね。なんと高潔な」
「頭が薄いだけなんだが」
「ご自身を薄いと表現なさるとは……やはり無欲!」
話が通じない。
俺はリーファに連れられ、村へ向かった。
村人たちの反応は、さらにすごかった。
「神なしの聖者様だ!」
「なんと清らかな御頭!」
「あれほどまでに一点の迷いもないとは!」
「ありがたや、ありがたや!」
村の広場に着いた瞬間、人々が一斉にひざまずいた。
俺は混乱した。
現代では隠したくて仕方なかった頭が、この世界では神聖なものとして扱われている。
おばあさんが涙を流し、子どもが手を合わせ、筋骨隆々の男が感極まって泣いている。
なんだこれは。
俺の頭頂部に何が起きている。
「聖者様、どうか我が家に!」
「いえ、まずは教会へ!」
「その御頭を一目拝ませてください!」
「触れてもよろしいでしょうか!」
「触るのはやめてください!」
俺は叫んだ。
崇められるのは初めてだった。
だが、崇められすぎるのも困る。
翌日から、俺の生活は一変した。
道を歩けば、人々が左右に分かれる。
食堂に入れば、注文する前に最高級料理が出てくる。
宿に戻れば、枕元に祈願札が積まれている。
そこにはこう書かれていた。
『聖者様の抜け毛を一筋でも授かれますように』
無理だ。
そもそも抜ける毛が残っていない。
リーファは毎朝、俺の頭を見て真剣にうなずいた。
「本日も、御頭の輝きが安定しております」
「天気予報みたいに言うな」
「昨日より二割ほど神々しさが増しています」
「湿度の問題だと思う」
困ったことも多かった。
だが、不思議なことに、俺は少しずつ楽になっていた。
帽子をかぶらなくなった。
人の視線から逃げなくなった。
鏡を見るたびにため息をつくことも減った。
この世界では、俺の頭は欠点ではなかった。
それどころか、人々がありがたがるほどのものだった。
もちろん、理屈としてはおかしい。
だが、救われてしまったのも事実だった。
そんなある日。
俺は王都の中央教会へ招かれた。
白い石造りの巨大な建物。
天井には色とりどりの髪を持つ神々の絵が描かれていた。
その中央に、髪のない人物の姿はなかった。
つまり、この世界でも俺は異例らしい。
大広間の奥で、白い法衣をまとった老人が待っていた。
大司教という、かなり偉い人らしい。
大司教は俺を見るなり、深く頭を下げた。
「よくぞお越しくださいました、神なしの聖者様」
「その呼び方、まだ慣れないんですが」
「謙遜なさらずともよろしいのです」
「謙遜ではなく事実なんですが」
大司教は静かに俺を見つめた。
その表情は、これまで会った人々とは少し違っていた。
崇拝というより、どこか申し訳なさそうだった。
「聖者様。本日は、ひとつ大切なお話がございます」
「大切な話?」
「はい。どうかお気を悪くなさらず、お聞きください」
大司教は一度、深く息を吸った。
「我が教会には、古くから伝わる秘術がございます」
「秘術?」
「失われし神の加護を、その身に取り戻す儀式です」
俺は首をかしげた。
「それはつまり?」
大司教は、厳かな声で言った。
「あなたの御頭に、髪を取り戻すことができます」
時間が止まった。
髪が戻る。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
現代で、どれほど願ったかわからない。
朝、鏡を見るたびに思った。
あと少しでも髪があれば。
昔のように戻れたら。
人の目を気にせず歩けたら。
笑われる不安から解放されたら。
それが、今、目の前に差し出されている。
「本当に……戻るんですか?」
「はい。完全ではないかもしれません。しかし、神の加護は再び宿るでしょう」
俺の胸が揺れた。
欲しくないわけがない。
髪は、ずっと俺が欲しかったものだ。
だが同時に、別の不安が胸を締めつけた。
もし髪が戻ったら。
この世界で、俺は何者になるのだろう。
神なしの聖者ではなくなる。
人々は失望するかもしれない。
リーファも、村の人々も、もう俺を必要としなくなるかもしれない。
いや。
それだけではない。
俺自身が、また昔の俺に戻ってしまう気がした。
足りないものばかり数えていた、あの頃の自分に。
「聖者様……」
声を上げたのは、リーファだった。
彼女は不安そうな顔で俺を見ていた。
「私は、聖者様がどのようなお姿になられても、尊敬する気持ちは変わりません」
「リーファ……」
「ですが、ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「ああ」
リーファはまっすぐに俺を見た。
「聖者様は、髪がないから尊いのではありません」
俺は黙って聞いた。
「髪がない御身で、それでも人を見下さず、偉ぶらず、困っている人の話を聞いていただけた。村の子どもが転べば手を貸し、お年寄りの荷物を持ち、食堂で出された料理に必ず礼を言っていただいた」
「それは普通のことだろ」
「その普通を、普通にできる方だからです」
リーファは少し笑った。
「私たちは、御頭だけを見ていたのかもしれません。でも、私は今、聖者様ご自身を見ています」
胸の奥が、静かに熱くなった。
俺は自分の頭に手を置いた。
なめらかな地肌。
ずっと嫌いだった。
隠したかった。
見られたくなかった。
このせいで、自分には何かが足りないのだと思っていた。
だが、この世界に来て、俺は初めて顔を上げて歩けた。
自分の姿を隠さず、人前で笑えた。
髪がないことを、誰かに肯定されたから。
いや、それだけではない。
少しずつ、自分でも受け入れ始めていたから。
「……昔の俺なら、飛びついていたと思います」
俺は大司教に向かって言った。
「髪が戻るなら、何でもしたかもしれない」
「では、儀式を?」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「やめておきます」
大司教が目を見開いた。
リーファも息をのんだ。
「よろしいのですか?」
「はい」
俺は、今度ははっきりと言えた。
「髪は欲しかった。でも、今の俺に必要なのは、髪じゃない」
大広間が静まり返る。
「このままでよいと思えたから」
誰も何も言わなかった。
少しして、大司教が深く頭を下げた。
「……やはり、あなたは真の聖者であられる」
「いや、そういう大げさなのは本当に」
「己の欲を捨て、今ある姿を選ばれるとは」
「捨てたというか、折り合いをつけただけで」
「なんという尊き境地……!」
「聞いてます?」
その場にいた神官たちが涙を流し始めた。
リーファまで目を潤ませている。
俺は少し困ったが、悪い気はしなかった。
こうして、俺は髪を取り戻す機会を断った。
この世界には、俺を見てくれる人がいる。
俺の頭を拝む人もいる。
それは少し困る。
かなり困る。
だが、少なくとも俺はもう、鏡を見るたびにため息をつく男ではなくなっていた。
その翌朝。
宿の鏡の前で、俺は固まっていた。
「……嘘だろ」
頭頂部に、一本だけ毛が生えていた。
本当に一本。
細く、頼りなく、しかし確かにそこに存在していた。
俺は震える手で、その一本に触れた。
まずい。
非常にまずい。
その直後、部屋に入ってきたリーファが悲鳴を上げた。
「せ、聖者様あああああ!」
「落ち着け! 一本だ! たった一本だから!」
「神の加護が……戻りかけている……!」
「戻ってない! 誤差だ!」
その日、王都には非常事態宣言が出た。
『神なしの聖者様に、神の加護が戻りかけている』
教会は祈りを捧げ、王国は緊急会議を開き、村人たちはなぜか祭りを始めた。
大司教は涙ながらに言った。
「これは、神々すら聖者様を放っておけなかった証……!」
「違います。たぶん毛根の気まぐれです」
リーファは真剣な顔で、小さな箱を持ってきた。
「聖者様。その一本、聖遺物として保護しましょう」
「抜く前提で話を進めるな!」
俺は頭を押さえて叫んだ。
「一本くらいで世界を揺らすな!」
こうして俺は、今日も異世界で生きている。
神なしの聖者として。
時々、ただの若ハゲのおじさんとして。
髪があってもなくても、まあ、なんとかなる。
それだけで、たぶん十分だ。
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