小さな温もり
グエンに手を引かれ、朝露に濡れた下草を踏み分けながら森を進む。
何も言わずに前を歩く長身の背中を見つめながら、エルザは少しだけ戸惑っていた。しかしそんな彼女をよそに姉弟子はただ鼻歌交じりに軽快な足を進めるだけだった。
やがて、森の景色に巨木が並び始めたあたりで、ふいに、グエンがピタリと足を止めた。
「?……グエン――」
「しっ。エルザ、上見てみな」
彼女が人差し指を口に当て、そっと頭上の枝を指差す。
つられて見上げると、朝陽を透かす青葉の間に、小枝と柔らかな羽で編まれた丸い巣があった。そこから「チチチ」という、か細くも懸命な鳴き声が降ってくる。
「白綿鳥の巣だ。ちょうど雛が孵ったみたいだな」
囁くようなグエンの声と共に、二人は足音を殺して数歩ほど後ろへ下がる。
すると、真っ白な綿毛に包まれた親鳥が、舞い降りてきた。その嘴には、小さな虫が咥えられている。親鳥が巣の縁に止まると、待ちわびていた雛たちが一斉に小さな嘴を開けて身を乗り出した。
「……かわいい」
「だろ? この時期に白綿鳥は子育てを始めるから、エルザに見せてやりたいと思ってたんだ」
グエンはエルザの顔を見つめ、ニカッと悪戯っぽく笑う。その屈託のない笑顔を見た瞬間、エルザの胸の奥で、張り詰めていた物が緩む。姉弟子は、悩みを聞くのではなく、彼女なりのやり方で寄り添ってくれているのだ。
何かを察した上で、あえて何も聞かない。その心地よい距離感と優しさが、今のエルザにとってはひどく救いだった。
目頭が熱くなりかけた、その時だった。
親鳥から餌をもらおうと、一番体の大きな雛が身を乗り出した拍子に、巣の端にあった『まだ孵っていない卵』がコロンと押し出されてしまった。
「あ――っ」
エルザの短い悲鳴と同時、純白の卵が枝葉をすり抜け、真っ直ぐに地面へと落下していく。
この距離からでは、もう間に合わない。グエンが舌打ちをして地面を蹴ろうとした瞬間、エルザは無意識のうちに両手を合わせて、強く念じた。
(お願い……っ!)
――ふわり、と。
エルザの深く澄んだ翡翠の瞳が瞬いた瞬間、落下する卵の下に、風の渦が巻き起こった。柔らかな風のクッションが卵の勢いを殺して優しく受け止めると、それはまるで透明な手のひらに掬われるようにして、ゆっくりとエルザの目前へと降り立った。
風のゆりかごに守られた小さな卵を、エルザは震える両手でそっと包み込むように受け止める。
手のひらに伝わってくるのは、薄い殻の向こう側で確かに脈打っている、小さな命の温もり。
「……ふぅ、危なかったな。エルザがいて助かった。精霊たちと森のオドに感謝だね」
隣で心底ホッとしたように息を吐き出すグエンに、エルザも「うん」と安堵の笑みを向けようとした。だが、頭上の巣を見上げたグエンの顔に、みるみるうちに困惑の色が広がっていく。彼女は気まずそうに、腕組みをした。
「でも、ちょっとマズいことになったかも」
「マズいこと?」
「白綿鳥って、すっごく警戒心が強いんだ。一度でも巣の外に落ちて、鳥以外の『別の匂い』がついちゃった卵は、親鳥が外敵だと見なして温めなくなっちゃうんだよ」
グエンの言葉に、エルザはハッとして自分の手の中を見た。すでに自分が素手でしっかりと受け止めてしまった以上、この卵には完全に彼女の匂いが染み付いている。
「そんな……じゃあ、急いで巣に戻しても......」
「ダメだね。私らが木に登って匂いを撒き散らせば、親鳥はパニックを起こして、今いる雛たちごと巣を見捨てて逃げちゃうかもしれない」
「……っ」
良かれと思って救ったはずが、かえってこの卵を親元へ帰れなくしてしまった。
申し訳なさに俯くエルザを見て、グエンは「あー、違う違う! エルザは悪くないから!」と慌ててフォローを入れる。
「地面に落ちて割れるより、百倍マシな結果でしょ! ……ただ、まあ。ここに置いていくわけにもいかないよね」
グエンは頭を掻きむしった後、ふう、と大きくため息をついた。
どうするべきか。言葉を交わさずとも、二人の導き出した結論は一つしかなかった。
*
「……遅い」
すっかり撤収作業が終わり、閑散とした湖畔の野営地。
湖の傍の石に腰を下ろしていたゼラが、森の奥から戻ってきた二人の足音に鋭い視線を向けた。皆、出発の準備を整え、あとは長であるゼラの号令を待つばかりとなっていたのだ。
「す、すいません師匠! ちょっと森の奥まで行きすぎちゃいまして!」
グエンが引きつった愛想笑いを浮かべながら、ペコペコと頭を下げて歩み寄ってくる。その後ろから、エルザがおずおずと姿を現した。
ゼラは無言で立ち上がると、歩み寄ってきたグエンの頭上に、一切の容赦なく拳骨を振り下ろした。
「いっだぁ!?」
ゴツン、という鈍い音と共にグエンが頭を抱えてしゃがみ込む。皆を待たせたことに対する、長としての、そして師匠としてのお仕置きだった。ゼラはそのまま無言でエルザの目の前へと進み立ち、同じように拳を振り上げる。
エルザが「ひっ」と短く息を呑み、ギュッと目を瞑って首をすくめた、その瞬間。
ゼラの振り下ろそうとした手が、ピタリと空中で止まった。エルザの胸元。彼女の震える両手の中に、真っ白な丸いものが大切に抱え込まれているのが目に入ったからだ。
「……白綿鳥の卵か」
「……師匠、あの、これは……」
恐る恐る薄目を開けたエルザが、言い訳を探すように口ごもる。ゼラはゆっくりと拳を下ろし、静かにため息をついた。昨夜、自らの過酷な運命を知って泣き崩れていた娘。それを頭ごなしに否定したり、無知を責め立てたりするような野暮な真似はしたくなかった。
「……事情は聞かなくてもわかる。匂いがついて、親元へ返せなくなったのだろう」
「っ、はい……ごめんなさい。でも、どうしても見捨てるわけにはいかなくて……」
ゼラは深く澄んだエルザの翡翠の瞳を、じっと見つめ返した。
「その命を拾い上げた以上、最後まで責任を持たねばならない。……最後まで、その子を守れるのか、エルザ」
「はい。私が、ちゃんと育てます」
迷いのない、真っ直ぐな返答だった。その瞳の奥に、昨夜までの重い悲壮感がないことを確認すると、ゼラは厳格な顔を少しだけ崩し、フッと口元を緩めた。
「いいだろう。なら、冷えないように大事に持っていきなさい」
そう言って、ゼラはエルザに落とすはずだった拳を開き、ポン、と彼女の頭を優しく撫でた。エルザの顔にパッと明るい喜びの色が広がるのを見届け、ゼラは静かに背を向ける。そして、いまだ頭を押さえてうずくまっている姉弟子の、長く尖った耳をむんずと掴み上げた。
「立て、グエン。出発するぞ」
「い、痛い痛い痛いっ! 師匠、ちぎれる! 耳とれちゃうううっ!」
そのまま容赦無く引っ張り上げられ、涙目で抗議するグエンの情けない声に、周囲で出発を待っていた同胞たちから、ドッと温かい笑い声が湧き上がる。
森の木々が朝陽に輝く中、エルザは自分の手の中にある温もりを確かに感じながら、次なる野営地へと動き出す同胞たちの列に、一歩踏み出した。
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