引かれるままに
湖面を滑るような朝の風が、森の木々を優しく揺らしていた。
大森林の奥深く、底知れぬ透明度を誇る湖畔。昨夜、『月廻りの儀』という儀式が行われたその場所は、一夜明けて、暖かな朝の空気に包まれている。
闇人族は、ひとつの場所に長く留まることをしない。儀式の余韻が残る早朝から、手慣れた所作で天幕を畳み、次なる場所へと移る準備を静かに進めていた。
いつもの、見慣れた穏やかな朝の風景。同胞たちの姿も、森の匂いも、何一つ変わってはいない。それなのに、少し離れた木立から景色を見つめるエルザの瞳には、昨日までとは少しだけ違って感じられるのだった。
(……私は)
滅びたローベント王国の王族であり、多くの命と引き換えにこの森へ託された存在。
母リアーナの『ただ自由に生きてほしい』という願いが脳裏に蘇る。そして、昨夜泣きじゃくる自分を抱きしめ、「急いで答えを出す必要はない」と諭してくれたゼラの優しさが、胸の奥にじんわりと温かい火を灯していた。
(うん……そうだ。何も変えなくていいと、師匠は言ってくれた。
私はこれからも、この森で、大好きな皆と一緒に生きていくことだってできる)
けれど――
あの惨事の中で聞いた、精霊たちの悲痛な叫び声が、どうしても耳の奥から離れなかった。
血と業火に焼かれる人間の記憶の底で、森のオドとは違う、彼らが引き裂かれるようなあの声。あれが一体何だったのか、まだその答えは分からない。
堂々巡りになりそうな思考を断ち切るように、エルザは小さく頭を振った。
(……今はこれ以上考えても仕方がない)
鬱々と沈んでいく気分を晴らすため、エルザは湖畔へと歩み寄ると、ひんやりとした透明な水でパシャリと顔を洗った。
雫を滴らせながら顔を上げ、両頬をパシッと叩いた、その時だった。
「……エルザ?身体は大丈夫なの?」
背後から降ってきた心配そうな声に振り返ると、そこには畳んだ天幕の布を抱えた姉弟子のグエンが立っていた。しなやかな長身の彼女は、エルザの顔を覗き込むようにして、綺麗に整った眉を下げている。昨夜、族長の天幕へと運ばれてからずっと姿を見せなかった妹弟子への、彼女なりの心配が滲んでいた。
「……うん、大丈夫。心配かけてごめんね、グエン。ちょっと、頑張りすぎちゃったみたいで」
エルザは昨晩の出来事をおくびにも出さず、いつもの笑みを浮かべてみせる。そして、誤魔化すようにポリポリと側頭部を掻いた。
その小さな仕草を見た瞬間、グエンの細められた瞳が微かに揺れる。
彼女は、妹弟子が無理をして嘘をつく時のその癖を知っていた。しかし深く詮索するような野暮な真似はしなかった。抱えていた重たい荷物をその場にどさりと降ろすと、ずいと身を乗り出してエルザの腕を掴む。
「え、ちょ、グエン?」
「気分転換!」
有無を言わさず立ち上がらせると、グエンは半ば強引に、片付けの進む湖畔から彼女を森の中へと引っ張っていった。
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