母親
そこに記されていた文字を見て、エルザは小さく息を呑んだ。さきほど見た、天を焦がす業火と、錆びた鉄の悪臭。あの地獄のような惨状の中で書かれたとは到底思えないほど、羊皮紙を走るインクの軌跡は、震えひとつない美しさを保っていたのだ。それは愛する我が子への私信ではなく、この大森林を統べる者たちへ向けられた、王族としての理知的な嘆願から始まっていた。
『ニザ共和国を統べる氏族長の皆様、ならびにフィン議長殿。
突然の無礼をお許しください。私はローベント王国の、リアーナと申します。
かつて外交の折、若かりし私を大森林へ迎え入れてくださったこと。そして滞在中、優秀な護衛としてファエル殿を付けていただいた恩義は、今でも決して忘れておりません。
この手紙がそちらへ届く頃には、我が国はアゼニア帝国の業火に呑まれ、王都は陥落していることでしょう』
(......ファエル、さん。あの人が、護衛を......?)
エルザの翠の瞳が、震えながら文面をなぞる。
『どうか、そちらにいる私の元侍女レオナと、彼女の腕に抱かれた赤子を、そちらの森の片隅で生かしてはいただけないでしょうか。
この子は私と同じように、あなた方ダークエルフの『先祖返り』の器を持ち、同時に王家の血脈に稀に現れる『千里眼』を宿す可能性があります。
レオナが傍にいれば、この子が皆様の不利益になるようなことは決してないと誓います。ですから伏してお願いいたします。この子には自身の出自を、滅びた国の血生臭い因果を、どうか一切隠し通してやってください。己が何者であるかを知らぬまま、ただ森の民として、自由に生きられるよう……』
そこで、エルザの視界がじわりと滲んだ。母の計画では、レオナという女性が傍にいて、出自を隠したまま彼女を育ててくれるはずだったのだ。
しかし、十五年間、エルザの傍にその女性はいなかった。さきほど視た、泥に塗れ、脇腹を抉られながらも夜の森を這い進んでいたあの凄絶な痛み。あれは母ではなく、命に代えてもエルザを森へ届けようとした『レオナ』の最期の記憶だったのだ。
そして手紙の末尾。完璧な嘆願書だったはずの筆跡は、最後の文だけ、文字が微かに乱れ、愛娘への語りかけへと変わっていた。
『……もしも、レオナの身に万が一のことがあり、この手紙が愛するあなたの目に触れる日が来てしまったのなら。
エルザ。私の、たったひとつの宝物。
あなたのその深く澄んだ翡翠の瞳は、決して争いや血の因果を見つめるためのものではありません。
どうか、重い宿命や人間の業に囚われないで。
あなたの運命は、あなただけのもの。美しい森で、ただ自由に、健やかに生きて――』
ポツリ、と。羊皮紙の余白に、エルザの瞳から零れ落ちた雫が染みを作る。
自分が十五年間、ただのエルザとして穏やかに生きられた理由。ゼラたちが隠していたのは、命を懸けて自分を運んだレオナと、母の『出自を隠し、自由に生きてほしい』という痛切な祈りを、彼らが忠実に守り抜いてくれていたからだ。
声を押し殺して泣きじゃくる愛弟子の肩を抱き寄せながら、ゼラは火鉢の炎を見つめ、静かに口を開いた。
「……さきほど話した、お前をこの森へ運んできた別の女性。……その『レオナ』という侍女を見つけたのは、境界の警備についていたファエルだった。だが、彼女は深い傷を負い、もう目も見えず、意識も混濁する中で、お前を手渡してすぐに事切れたそうだ……」
「……っ、う、あぁ……」
「ファエルは最初、彼女をただの侵入者だと思っていた。泥と血に塗れたその顔が、かつて外交の場でお前の母の傍に控えていた侍女であることなど、気付けるはずもなかったからだ」
「それじゃあ、どうして……」
「彼女から渡された手紙に、差出人として『リアーナ』の名前があったからだ。ファエルは封を切らず、すぐにお前と手紙を抱えて緊急招集をかけた。そして集まった議場でフィンが封を切り、我々はすべてを知ったのだ」
ゼラは、エルザの膝の上にある羊皮紙へ深く息をついた。
「母親の願い通り、出自の証拠となるこの手紙は『その場で焼き捨てるべきだ』という意見をフィンが言った。完全に灰にしてしまえば、お前が真実を知る術は永遠に失われ、母の願いは果たされるからだ」
「それ、なのに……どうして……」
「私とラ=ボボが反対した。お前のその翡翠の瞳に、いつか王家の力が目覚めてしまった時……たった一人で絶望する日が来るかもしれない。その時に、お前を繋ぎ止める『証明』が必要になるはずだと」
激しい議論の末、この手紙は封印され、エルザの保護責任者となったゼラが厳重に保管することになったのだ。
彼女の温かい腕の中で、エルザは声を上げて泣き続けた。燃え落ちた祖国と、母の祈り。命を懸けて自分を運んだ人の想い。そして、すべてを知り、十五年間自分を「ただのエルザ」として愛し、育ててくれた師匠の優しさ。
限界まで張り詰めていた感情が堰を切ったように溢れ出し、やがてエルザは泣き疲れて、彼女の胸にすがりついたまま深い眠りに落ちた。ゼラは愛弟子の背中を一定のリズムで叩きながら、朝が来るまでそっと寄り添い続けた。
――チリッ、と。火鉢の炭が小さな音を立てて、完全にその赤みを失う頃。
天幕の隙間から、白み始めた朝の光が差し込んできた。外からは、森の木々が夜露を払う瑞々しい音と、朝を喜ぶ小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。昨夜見た血と業火の地獄とは対極にある、ニザ大森林の美しく穏やかな朝だった。
「……ん、」
エルザがゆっくりと瞼を開けると、寝台の傍らで静かにこちらを見つめるゼラと目が合った。彼女の膝の上には、あの手紙が大切に置かれている。
「師匠、私……」
己の過去と真実を知り、何かを急いで言葉にしようとするエルザの口を、ゼラはそっと人差し指で制した。
「急いで答えを出す必要はない。お前がこれからどうしたいかは、ゆっくりと考えればいい」
ゼラは、エルザの乱れた黒髪を優しく耳にかけながら、諭すように語りかける。
「過去を知ってしまったからといって、何かを変える必要などないのだ。この十五年、お前は我々と共に生きてきた。この美しい森で、『娘』として、巫女として......私は、それでいいと思っている」
それは、あまりにも残酷な外の世界から、娘を引き留めようとする、親としての切実な願いだった。
エルザはゼラの真っ直ぐな瞳を見つめ返し、ゆっくりと、小さく頷いた。
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次回は明日、2話更新予定です。




