埃のない木箱
少しだけ、少しだけ長いかもしれません...。
「……空が、赤く燃えていました。錆びた鉄のようなひどい臭いがして……」
寝台に身を縮めたエルザが、ぽつり、ぽつりと語るさきほど見た記憶。自分と同じ深い翡翠の瞳を持った女性が蜜蝋へ印を押し当てていたこと。そしてもう一人、泥と血に塗れながら、夜の森を必死に這い進む女性の姿。自身の脇腹を貫いた、生々しい痛み。
エルザの静かな声が途切れた後も、ゼラは長い間、深い沈黙に沈んでいた。
――チリッ、と小さな火鉢で炭が爆ぜる。
「……師匠?」
不安げに見上げてくるエルザの頭を、そっと撫でる。
厳しい訓練と弓の鍛錬を重ね、巫女として、集落を率いる長としてゼラはいつだって厳格に振るまってきた。
だが今、エルザの髪を梳く彼女の指先には、隠しきれない動揺と、深い憂いが滲んでいた。
ゼラたち長命種にとって十五年という月日は、森の木々がわずかに枝を太くする程度の、瞬きのような時間にすぎない。美しい刺繍が施された産着に包まれて、森へと導かれた赤子が。瞬きをする間に、気付けば彼女の肩に届くほどの背丈になり、こうして美しい翡翠の瞳でこちらを見上げている。
この子が自身の出自など何も知らないまま、ただのエルザとして穏やかに森で生きてくれればいいと、本気で願っていた。
「……待っていなさい」
ゼラは重い腰を上げると、天幕の奥に置かれた長持を開いた。底から取り出したのは埃ひとつない小さな木箱。蓋を開けるとそこには、十五年間大切に保管されていた一枚の羊皮紙。
彼女がそれを寝台の傍らに置くと、エルザの翠の瞳が微かに見開かれた。そこには、エルザが視たものと同じ蜜蝋が押された手紙が、封を切られてあったからだ。
「……なぜ私が『何を見た』と聞いたかわかるか、エルザ」
彼女の静かな問いに、エルザは小さく息を呑んだ。
しかし、エルザの瞳に浮かんだのは、ただの困惑や怯えではなかった。封の切られた手紙と、ゼラの顔を交互に見つめ、思考を巡らせている。
(エルザは賢い子だ。自分が同胞たちと違うことには気付いていたのだろう……)
「お前が見たという翡翠の瞳の女性。……それはおそらく、お前を産んだ者だろう」
「それじゃあ……」
「そうだ。お前は、我々と同じこのニザ大森林で生まれた子ではない。森の外……ここより遠く離れた場所から、十五年前、母親ではない別の女性が、命懸けでお前をこの森へと運んできたのだ」
エルザが傷つくことのないよう、ひどく慎重に言葉を選んで紡いでいく。
「お前は、我々ダークエルフの『先祖返り』の力を持っている。だからこそ、人でありながら我々と同じように精霊たちの声を感じ、オドの流れを見ることができる」
それは紛れもない事実だった。人間であるはずのエルザが、精霊たちに拒絶されることなく、同胞たちと同じように彼らと隣り合って生きられている理由。
「だが、お前が持っているのはそれだけではない。お前の血筋……父親の家系には、稀に『世界のあらゆるものを見通す瞳』が発現することがあるそうだ」
「瞳……私の、この目のことですか」
「ああ。ダークエルフの先祖返りとしての力と、その血筋の瞳。二つが合わさった結果、お前は我々にすら見えないものまで視てしまうようになったのだろう。」
そう言って、ゼラは火鉢から燃え残った細い炭を拾い上げ、天幕の土の床にゆっくりと線を引いた。
「いいか、エルザ。お前には、人間の持つ力についても説明しなければなるまい」
「我々が精霊から借り受ける『オド』が、森や大地を巡る生命の循環であるなら……人間たちが使う『マナ』は、彼ら自身の内に宿る独立した力だ。マナは環境に左右されない。極寒の雪山であろうと、己の器に蓄えたマナがある限り、彼らは強大な炎を顕現させることができる」
「己の、内にある力……」
「ああ。使用者の器の大きさが、そのまま力の出力となる。だが、その強大な力を振るうには代償がある」
ゼラの声が、一段と重く沈んだ。
「人間が大規模なマナを行使する時、それは周囲の環境から生命力......つまり、土地のオドを脅かし、枯渇させてしまうのだ。彼らが争い、力を振るえば振るうほど、大地は痩せ細り、精霊たちは居場所を失くす。だからこそ、新たな資源と豊かな土地を求めて他国へ侵攻を続ける。巨大になりすぎた国家を維持するために」
「次に、お前が生まれた外の世界がどうなっているかを教えよう」
天幕の地面に描かれたのは、3つの大陸。
「この世界にはサネニーン大陸、ガド中央大陸、ムルナ大陸の3つが存在する。私たちのいるニザ大森林は、ムルナ大陸にある」
「ムルナ大陸には現在、4つの国家があって、北から中央にかけて存在する人間達だけの国、アゼニア帝国、南一帯と貿易港を持ち海人族と共生する蒼洋都市国家ファルガ、東の山岳地帯にある地人族と山人族達の巨嶽の盾国オルムガルド」
「……あと1つは」
「ムルナ大陸の西側、大陸の3分の一を占めるニザ大森林。ここは、我々闇人族と森人族、小鬼族の三種族が暮らす、ニザ共和国だ」
ゼラが炭を持った手を止めると、床には四つの勢力に分かたれた大陸の図が完成していた。
エルザはその図をじっと見つめ、やがて、震える声で口を開いた。
「……師匠。私の……本当の両親がいたという国は、どこにあるのですか」
聡明なエルザは、すでに気づいていた。
ゼラは先ほど「遠く離れた場所から運ばれてきた」と言った。ならば、この大陸のどこかに人間の国があるはずだ。しかし、彼女が挙げた国の中に、それに該当する名前はない。
天幕に小さな息を吐く音が響き、床に描かれた『アゼニア帝国』の領土……その南側、大陸の中央を、彼女は指先で黒く塗りつぶした。
「ないのだ、エルザ。……お前の血筋である『ローベント王国』は、十五年前、アゼニア帝国の侵攻によって地図から消滅した」
「消滅……」
「お前がさきほど見た天を焦がす業火。それはおそらく、お前の祖国が帝国の炎に焼かれ、滅びゆく最期の光景だ。お前を抱いた人間は、燃え盛る祖国から逃れ、この大森林へと決死の思いで辿り着いたのだろう」
自身の生まれ故郷が、すでにこの世のどこにも存在しないという事実。そして、己の血に流れる「人間」という種族の業の深さ。突きつけられた残酷な世界に、エルザは足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた。膝の上の小さな手が、白くなるほど強く握りしめられ、小刻みに震えている。エルザの翠の瞳が揺れるのを見つめながら、彼女は静かに言葉を継いだ。
「我々ニザ共和国が強固な結界で外界との接触を絶ち、東のオルムガルドが巨大な盾となって国を閉ざしているのは、彼らから、森と大地のオドを守るためなのだ」
愛弟子の冷え切った両手を、自身の温かく力強い手で、そっと包み込んだ。
「……国は焼け落ち、世界は血塗られた歴史を繰り返している。だが、お前を産んだ親が最後に遺した願いは、決してそのような血生臭いものではない」
彼女は、寝台に置かれたままになっていた『羊皮紙』を拾い上げ、エルザの手元へ渡す。
「読みなさい、エルザ。十五年前、お前を産んだ者が我々に託した思いを」
手紙から、かすかに古い香りがした。エルザは震える指先で、丁寧に折りたたまれた羊皮紙を開く。そこに記されていたのは、母からの愛と祈りだった。
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