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月の静謐  作者: 奔らない筆
ープロローグー
3/22

託された祈り


――どれほど歩いただろうか。


 倒れた馬を後にし、暗闇の森を這うように進んでいた。

足を引きずるズリ、ズリという音と、自身の荒い息遣いだけが、彼女の鼓膜を乱暴に打ち付けていた。


 背中から脇腹を掠めた矢傷から、一歩足を踏み出すたびに焼けるような激痛を訴えてくる。

土の上に点々と滴る血の匂いと、一切の光を拒絶するような森の暗闇が、彼女の恐怖心をじわじわと撫でまわした。


 時折、風に揺れる木々の擦れる音が、追手の足音や、暗闇に潜む魔物の唸り声に聞こえて足がすくむ。


(倒れるわけには、いかない……ッ!)


 薄れる意識の中で、レオナは奥歯を噛み締めた。燃え落ちる王宮で盾となった夫と息子たち。そして、この命を託してくれた主、リアーナの顔が浮かぶ。彼らが命を懸けてくれたからこそ、今、自分の腕の中にはこの子の温もりがある。残されたこの命を燃やし尽くしてでも、エルフの元へ辿り着かなければ。


 その時だった。ふと、冷たい夜風がレオナの頬を撫でた。

拒絶ではない。まるで母の手のように優しく彼女を包み込むと、倒れそうになる背中を、ふわりと前へ押した。

 何事か、とレオナが霞む目を眇めた時。昏い夜の暗闇の向こう側で、淡い光が瞬き始めた。まるで道標のように、次々と青白い光が灯り始めたのだ。こちらへおいでと手招きするように、一条の光の道を形作っていく。


「そこまでだ、人間」


 不意に、頭上から冷たく澄んだ声が降ってきた。ビクリと肩を震わせた彼女の前に、音もなくひとつの影が降り立つ。月光のヴェールを抜けて、弓を手にしたエルフが姿を現した。

 その鋭い警戒の視線に射抜かれながらも、レオナは力を振り絞り、泥に塗れた膝をつく。


「どうか、お慈悲を……!  私は、ローベント王国から参りました。腕に抱くは、尊き方の御子……っ」

「何故、人間がこの森に」

「これを……ッ!長宛ての、手紙です……!」


 血で濡れた震える手で懐から差し出された手紙。エルフは警戒を解かぬままそれを受け取り、表面を一瞥した。月明りに照らされた蜜蝋――王家の紋章と、美しい字で書かれた『リアーナ』という名を見た瞬間、エルフの瞳から明確な敵意が消え去った。


 すぐさま弓を背に収め、血まみれのレオナに手を貸そうと身を屈める。しかし、レオナは静かに首を振り、代わりに腕の中の毛布の包みを、祈るように彼へと差し出した。


「なりません。どうか、この子を……」

「馬鹿なことを言うな。その傷では死ぬぞ」

「いいのです。私の役目は、終わりました……」


 限界だった。手紙を渡し、赤子をエルフの腕に委ねた瞬間、レオナを突き動かしていた何かがプツリと切れた。


「……この子に、残す言葉はあるか」


 エルフは彼女を助けることを諦め、静かに問う。

レオナは血に汚れた唇に、穏やかな微笑みを浮かべる。


「どうぞ……健やかに、生きて……」


祈りのようなその言葉を最後に、レオナの腕から力が抜け、瞳から光が失われた。


 隊長は声もなく目を伏せ、彼女の亡骸に黙祷を捧げる。そして、託された毛布の包みへと視線を移した。ふいに、中で眠っていた赤子が、その小さな瞼を開く。


 凄惨な血の匂いと、見知らぬ森の夜。普通の赤子なら火のついたように泣き叫ぶ状況で、その子はただ静かに、隊長の顔を見つめ返した。

 夜の底を切り取ったような瞳の奥に、神秘的な翡翠の光が煌めいている。それはまるで、森に流れるオドの光をそのまま宿したかのような、純粋で底知れぬ瞳だった。


(……この瞳。なるほど、森がざわつくわけだ)


精霊たちやオドが道を作った理由。この赤子がどれほど特異であるかを、隊長は直感で理解した。

 背後の木々から、警戒態勢を敷いていた部下たちが次々と降り立つ。


「隊長。その人間は……」

「亡くなった。だが、森の意志は受け取った」


隊長は赤子を大事に抱きかかえ、人間の欲望が渦巻く東の空を一瞥した。


「追手が来るやもしれん。全隊、警戒態勢を維持しろ」


 隊長は小さく息を吐き、部下たちへ告げた。


「帰還する。我らの新たな同胞と共に」



――斯くして、一つの国が業火に沈み、悲劇の夜が終わる。

人々の欲望が届かぬ深い闇の中、神々の森に抱き留められた無垢なる命の、長く、果てしなく数奇な旅が、ここに始まった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次回から第一章が始まります!1時間後の21:10に投稿される予定ですので、ぜひそちらもお読みいただければと思います。

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