見えない面影
天幕を出て森へと足を踏み入れると、翡翠と銀の双月が照らす夜空から一転、頭上を覆う樹冠が月明かりを遮り、周囲はひんやりとした静かな闇に包まれた。
月光が届かない場所は、吸い込まれそうなほどの暗闇だ。踏み入るのを躊躇ってしまいそうなその闇の中を、ファエルが手に持った淡く青い光を放つ発光茸のランタンだけを頼りに、エルザは彼の少し後ろを静かについて歩いていた。
土を踏む微かな音だけが響く。
天幕を出てから一言も発さないファエルの広い背中を見つめながら、エルザは思考を巡らせていた。これから会いに行く『レオナ』という女性は、一体どんな人だったのだろう。幻視の中で、自分を産んだ母・リアーナの顔だけはかろうじて見ることができた。けれど、命に代えて自分を守り抜いてくれたはずの乳母の顔は、どうしても見えなかったのだ。
「……レオナは、人一倍責任感の強い女性だった」
不意に、闇の中にファエルの低く穏やかな声が落ちた。
「王国で騎士団に所属している夫と、二人の息子がいてな。武門の家に嫁いだから大変だったとよく話していた。それに大の馬好きで……リアーナ様に礼儀作法を教えながら、乗馬の指導までしていたんだ」
「母さんの……」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉に、エルザは真剣に耳を傾ける。
「とくに礼儀作法には厳しい人でな。リアーナ様たちがこの大森林へ外交に訪れた時は、顔を合わせるたびに言い合いばかりしていたよ」
ファエルはランタンを揺らしながら、少しだけおかしそうに息を吐いた。
「俺はただの護衛だったからな。他国の王族であるリアーナ様への距離感や口の利き方がなっていないと、レオナから会うたびに苦言を呈された。『俺は森人族の護衛だから、人間の作法など知らん』と突っぱねて、よく喧嘩じみたことになったものだ」
――作法を重んじる厳格な人間の女性と、飄々とした森人族の護衛。
当時の情景が目に浮かぶような思い出話だった。言い合いばかりだったと言いながらも、ひとつひとつを丁寧に掬い上げるように語るファエルの横顔は、とても嬉しそうだ。
けれど、その声の端々には、微かな震えと、涙の滲むような響きがあった。
「ファエルさん……」
胸が締め付けられ、エルザがたまらず声をかけようとした、その時だった。
「――着いたぞ」
ファエルが立ち止まり、ランタンの光をそっと落とした。
そこは、森の木々が円を描くように開けた、小さな空間だった。ぽっかりと空いた頭上から、月明かりが降り注ぎ、辺り一面に群生する月光草の白い花々を淡く輝かせている。
空気中に満ちる豊かなオドと、精霊たちが光の粒となって静かに流れるその場所は、息を呑むほど穏やかで、神秘的な空間だった。
「……ここに、レオナが眠っている」
ファエルが静かに視線を落とした先。開けた場所の中央には、こんもりと丸く盛られた土のふくらみがあった。
その光景に、エルザは小さく目を見張る。
「……十五年前。お前をゼラに託した後、彼女を棺にいれ、ここに埋葬した」
「ファエルさんが……」
「当時の俺は、人間たちの正式な弔い方を知らなくてな。……闇人族達は火で弔うだろう? だが、我々森人族は、亡くなった者を土に還すんだ」
闇人族の中で育ったエルザにとっての『弔い』とは、炎と共に空へ還すことだった。しかし、目の前にあるのは、命を育む土へとそのまま還す『土葬』の墓だ。
「森人族を埋める際は、花の種を周囲に植え……埋めた場所には木を一本植えるのが習わしなんだ」
ファエルは、月光草に囲まれた土のふくらみを見つめて言った。
エルザはそこまで聞いてふと不思議に思い、その土のふくらみを見つめ直した。その周囲には確かに美しい花々こそ咲いているものの、森人族の習わしであるはずの『木』は生えていない。
「……木は、植えなかったんですか?」
エルザの静かな問いかけに、ファエルはゆっくりと首を横に振った。
「あぁ。……ここに木を植えてしまえば、彼女の身体はこの大森林の根と深く結びつき、縛られてしまうからな」
ファエルは月明かりの下、土のふくらみの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「いつか……夫と息子たちが眠るであろうローベントの土へ、彼女を帰してやりたかったんだ」
ファエルのその言葉を聞き、エルザは、彼の隣にそっとしゃがみ込むと、ひんやりとした土のふくらみに両手を添えた。そして、静かに目を閉じる。
(初めまして、レオナさん。……エルザです)
声には出さず、心の中でゆっくりと語りかける。
(あの日、命懸けで私をこの森まで守り抜いてくれて、本当にありがとうございました。レオナさんが繋いでくれたおかげで、私は今、十五歳になることができました。どれだけ感謝してもしきれません)
土越しに伝わってくる夜の森の冷たさが、なぜかひどく心地よく、温かく感じられた。エルザは閉じた瞼の裏に、顔も知らない彼女の、力強く誇り高い姿を思い描く。
(明日、私はこの森を出ます。……もし、外の世界でレオナさんのご家族がいるとわかったら、私、必ず行方を捜してみます)
大きく息を吸い込み、エルザはそっと目を開けた。
その翡翠の瞳には、真っ直ぐな決意の光が宿っていた。
「……行ってきます」
最後に、ぽつりと声に出して紡がれた言葉。それは、リアーナと共に命を懸けて守ってくれた乳母への、出立の挨拶だった。
「……ありがとう、エルザ」
エルザの祈るような横顔を静かに見守っていたファエルが、微かに目元を和らげて口を開いた。
「もしも旅の道中で彼女の家族の行方がわかったら……その時は、俺に手紙を寄こしてくれ」
「はい。必ず」
エルザが力強く頷くと、ファエルは満足そうに立ち上がり、エルザに向かって手を差し出した。
その大きな手を借りて立ち上がったエルザは、もう一度だけ、月光草に囲まれた美しい土のふくらみを振り返る。夜風が通り抜け、白い花々が優しく揺れたような気がした。
「さあ、戻ろう」
「はい、ファエルさん」
双子月の明かりに照らされた夜の森を、二人は並んで歩き出す。
静かなニザ大森林の奥で、エルザの旅立ちへの決意は、揺るぎないものとなっていた。
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