旅立ちの準備
ウ=トトの行き先がエルザと同じ『蒼洋都市国家ファルガ』だと分かり、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「よかった……! トトが一緒なら、エルザも一人じゃないし、少しは安心だね」
グエンがしゃがみ込み、ウ=トトの目線に合わせて小さな拳を差し出す。ウ=トトも照れくさそうに笑いながら、自身の拳をごつんと合わせた。
「ピピ!」
エルザの頭の上では、ナーも嬉しそうに鳴き、真っ白な羽をパタパタとさせて二人のやり取りを祝福している。その光景に、エルザの口元にも自然と笑みがこぼれた。
*
その日の昼下がり。
森人族の里に設けられた交易市場は、人間たちの持ち込んだ品々と、それを目当てに集まった者たちで賑わっていた。
大樹の根をそのまま活かした優美な露店が立ち並ぶ風景は、ウ=トトが住む小鬼族の街の石造りの市場とは趣がまったく異なる。並べられた工芸品や見たこともない宝石、ぱっと見ただけではわからないような品物が数多く並ぶ光景に、ウ=トトはしきりにキョロキョロと首を動かしていた。
「すごい……すごいですよ!! 見たことない物がたくさんありすぎます!」
今すぐ走り出してしまいそうなウ=トトを見て、二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。エルザもまた、活気に満ちた市場を見渡して目を細める。
ふと、広場の端に立てられた掲示板の前でウ=トトが足を止めた。そこには、『ニザ共和国 森人族代表フィン』という、何やら仰々しい名前で一枚のお触れが張り出されている。
「……『時期外れだが闇人族達が里を訪れる。魅了の力に耐性のない人間は、あまり長く見つめることのないように』……? グエンさん、これって」
不思議そうに首を傾げるウ=トトに、グエンは「あー……」と少し気まずそうに頬を掻いた。
「ハハ……まぁ、そうだね。私たちも意図してるわけじゃないんだけど、耐性のない人間が私たちを長く見つめると、勝手に魅了されちゃうんだって。……だから本来なら年に一度、人間達の出入りを制限してから、私たちが里に入るのよ」
「やあ、そこの可憐なレディ。僕は南から来た商人なんだけどさ」
グエンが話し終えるかどうかのタイミングで、身なりの整った若い人間の男が近づいてきた。その目はどこかトロンとしており、吸い寄せられるようにグエンを見つめている。
「ピッ……!」
エルザの肩にとまっていたナーが、不穏な空気を感じ取ったのか、警戒するように小さく鳴いて白い羽を大きく膨らませた。
男の前に立ち塞がったグエンは、小さくため息をつく。
「……すみませんけど、私たち用事があるんで」
「えっ、いや、ちょっとお茶でも――」
「あそこに、共和国代表の通告が出てますよね? そこから少しでも近づいたら、商売どころじゃなくなりますよ。ご自分の仕事に戻ってくださいね」
男はハッと我に返ったように瞬きをすると、「も、申し訳ない…」と言い、手に何かを握りしめながら去っていった。
「もうっ、これだから外の人間は面倒なのよ。エルザ、外に出たらさっきみたいな馬鹿な男がたくさんいるんだから、しっかり自衛するのよ!」
「ふふっ、ありがとうグエン。頼りになるね」
「笑い事じゃないんだから! ほらほら、旅の準備! こっちの外套にしなさい、暖かそうだし、雨も弾くみたいだから!」
世話焼きなグエンの心に火がついたのか、あれもこれもと旅の装備を吟味し、商人相手に堂々と値切り交渉を始める。
一方のウ=トトは、外の世界の書物や珍しい道具が並ぶ露店に張り付き、銀色の瞳を輝かせていた。
「ピピーッ!」
「あ、ナー、そっちは危ないよ!」
エルザは笑顔で二人を眺めつつ、頭からピョンと飛び降りては、短い滞空時間を必死に伸ばそうと羽ばたきの練習をするナーを、優しく手のひらで受け止めていた。
*
買い物をひとしきり終えた三人は、市場の喧騒から少し離れた森人族の食事処へと足を向けた。
そこは、見上げるほど大きな樹の根元に扉を構えた、趣のある造りだった。重厚な木製の扉を押し開けて中に入った瞬間、途端に鼓膜を打つ客たちの楽しげな笑い声と、鼻腔をくすぐる肉や香草の焼ける香ばしい匂いが、三人をふわりと包み込む。
案内された木製の丸テーブルには、運ばれてきたばかりの料理が所狭しと並べられていた。
森人族の里で採れた瑞々しく甘い果実の盛り合わせに、人間たちが持ち込んだ香辛料をたっぷりとまぶした肉の豪快な串焼き。そして、朝露を吸った新鮮な森の葉野菜に、砕いた木の実と爽やかな酸味の果汁を和えた、彩り豊かな一皿だ。
「んんっ! この串焼き、なんだか舌がピリピリするけど美味しい!」
「本当ですね! 肉の旨味が引き立ってて……どの香辛料を使っているんでしょうか」
「ほら、二人とも冷めないうちにたくさん食べなさい! 旅に出たら、こんな温かくて美味しいもの、毎日は食べられないんだからね」
次から次へと料理を頬張る二人を見て、グエンが呆れたように、けれどとても優しい顔で笑う。
エルザは、テーブルの端で甘い果実の欠片を嬉しそうについばむナーの小さな頭を指先で撫でながら、口の周りにタレをつけて串焼きに夢中になるウ=トトを見て、自然と笑みをこぼした。
他愛のない外の世界への想像や、これまでの道中の思い出話に花を咲かせていたが――ふと、グエンが手元の串を置き、真剣な瞳でエルザを見た。
「それで……出発はいつにするつもりなの?」
その問いに、エルザはウ=トトと静かに顔を見合わせる。
「……明日の朝には、出ようと思ってる」
「そっか。……早いね。でも、ダラダラ引き延ばしてても寂しくなるだけか」
グエンは寂しさを誤魔化すように、残っていた果実をパクリと口に放り込んだ。
別れの時間は、確実に近づいていた。それでも三人の穏やかな笑い声は、夕暮れが里を赤く染めるまで絶えることはなかった。
――そして、夜。
祭りのような賑わいを見せていた市場の声も、エルザの門出を祝う温かな宴の熱気も、夜の帳が下りると共に冷たい夜露の下へと静かに沈んでいった。
今のニザ大森林を満たしているのは、風が葉を揺らす微かな音と、翡翠と銀の双つの月明かりだけだ。
エルザは一人、自分にあてがわれた天幕の中で、今日買ったばかりの真新しい外套や、フィンから託された本を鞄に詰めていた。足元では、昼間にはしゃぎすぎたナーが、丸い毛玉のようになってスースーと寝息を立てている。
いよいよ明日、ここを出発するのだという実感が、静かに胸に込み上げてくる。その時、天幕の外から「ザッ」と土を踏む音が聞こえた。
「……起きているか、エルザ」
夜の森の静寂によく通る、低く落ち着いた声。姿を見るまでもなく、それが誰のものかエルザにはすぐにわかった。
「あっ、はい! 起きてます、ファエルさん」
月明かりを背に受け、入り口の布が静かに揺れる。
天幕から顔を覗かせた森人族のファエルは、どこか神妙な、けれどとても穏やかな表情をしていた。
彼はエルザの足元に置かれた膨らんだ鞄に目をやると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「荷造りの邪魔をして悪かったな。……お前がこの森を発つ前に、連れて行きたい場所があるんだ」
「連れて行きたい場所……?」
「あぁ。レオナのところだ」
ファエルの口から出た名前に、エルザは小さく息を呑む。
「彼女もきっと、お前に会いたいだろうからな」
ここまでお読みいただきありがとうございます!
そろそろ第一章も終わりそう…です。書いてるとつい長くなっちゃいますが…
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