道標
三人の大人たちは誰一人として声を発さず、ただ、泣き腫らした瞳の中に確かな熱を宿すエルザを真っ直ぐに見つめ返している。
やがて、その重い沈黙を破ったのは、低く、けれど断固たる響きを持ったフィンの声だった。
「……僕は反対だよ」
フィンは銀縁の眼鏡を押し上げ、共和国の代表としての顔で首を横に振った。
「外の世界がどれほど危険に満ちているか、君はまだ何も分かっていない。森の外には危険な魔獣だっている。もし人間の国で君の素性がバレてしまえば、君の命が狙われることだってありえるんだ。リアーナ殿も、そんな危険な場所に晒すために僕たちへ君を託したわけじゃないはずだ」
「フィンさん……」
「ダメだ。君を外へ出すわけにはいかない」
フィンの言葉は氷のように冷たく、けれど一片の隙もない正論だった。最悪の事態を想定し、理をもって危険を説くその厳しい意見は、温かい森の庇護下で育ってきたエルザに対し、外の世界の残酷さを容赦なく突きつけていた。
しかし、そのフィンの言葉を遮るように、エルザの背後に立っていたゼラが一歩前に出た。
「……フィン。お前の言う通りだ。私だって本音を言えば、この子と森で過ごし、手の届く場所で守り続けてやりたいさ」
ゼラは目を伏せ、それでも、ゆっくりとエルザの小さな肩に手を置いた。
「けれど……この子は自分の意志で外に出ると決めたんだ。もう、私たちに守られるだけの『子供』じゃなくなったんだよ。……エルザがそう決めたのなら、私は、その背中を押してやりたい」
「ゼラ……! 正気か、君まで!」
語気を強めるフィンに対し、エルザはゼラの温かい手のひらの感触に勇気をもらい、一歩前へと踏み出した。
「私は師匠の下で、大森林の環境を生き抜く術を教わってきました。舞や野営技術、狩りの技だって……それに……私には、この『瞳』があります。精霊やオドの乱れを読み取れば、きっと魔獣の気配だってわかるはずです」
「それは……」
エルザの力強い反論に、フィンが言葉を詰まらせる。
そこへ、フィンの傍らで静かに腕を組んでいたファエルが、重い口を開いた。
「……フィンの懸念も分かる。だが、俺はエルザの望むようにするべきだと思う」
「兄さんまで……」
「リアーナ様も、レオナも、ただこの子を『安全な檻』に閉じ込めておくために命を懸けたわけじゃない。縛り付けられることなく、自分の足で世界を歩き、自由に生きてほしい。……それこそが、彼女たちが命を繋いだ本当の願いだと、俺は考えている」
十五年間、誰よりも重い十字架を背負ってきたファエルの言葉には、抗いがたい説得力があった。
「俺は、エルザの背中を強く押す。……外に出ろ、エルザ」
その優しい言葉に、エルザの胸が熱くなる。
フィンはなおも何かを言い返そうと唇を噛み締めたが、ゼラが静かに、けれど確信を突くような声で言った。
「それに、フィン。……お前だって、本当は分かっていたんだろう?」
「……」
「いつかこの子が、真実を知り、外へ飛び立つ日が来ることを。……お前がずっと情報を集め続けていたのは、この子が外で迷わないようにするためだったんじゃないのか」
ゼラの言葉に、フィンは自分の心を見透かされてしまったように口を閉じた。
図星を突かれたように目を見開き、やがて、深く、長い溜息を地下議場に吐き出す。
張り詰めていた彼の肩からスッと力が抜け、国の代表としての顔が、ただ不器用に娘を心配する『ひとりの大人』の顔へと変わっていく。
「……君達には、敵わないな」
「……じゃあ……!」
エルザの顔に、パッと希望の光が差す。
フィンはどこか自嘲するように小さく笑った。
「心配はもちろんしていたよ。外の世界は、本当に危険だ。……でも、それ以上に……僕は、ゼラや兄さんのように、君の成長を間近で見守ることができなかったからね」
彼の真っ直ぐな吐露に、エルザは小さく息を呑む。
「ようやく長老共を納得させたんだ……もう少しだけ、この森で、僕の目の届く場所で君の面倒を見たかった。これはまぁ、ただの僕のわがままだよ」
「フィン、さん……」
反対の裏に隠されていたのは、彼なりの不器用な愛情と寂しさ。その事実に、エルザの胸が再び熱くなる。
フィンは手元にある一冊の本を、エルザの前へと静かに押し出した。
「これを、君に」
「これは……?」
「この十五年間、僕が商人や密偵を使って集め続けてきた、外の世界の情勢や人間の国についての情報をまとめた手記だ。……君の故郷であるローベント王国の顛末や、帝国の動き、それに各地の地理や文化についてもある程度書き記してある」
エルザは震える両手で、そのずっしりと重い本を受け取った。丁寧に装丁された革の表紙と、字や絵などでわかりやすく書き込まれたインクの跡。それが、自分を遠ざけていたと思っていたこの大人が、どれほどの時間を自分のために費やしてくれたのかを物語っていた。
「まずは、大森林の南側の道を抜けて、『蒼洋都市ファルガ』へと向かいなさい」
「ファルガ、ですか」
「あぁ。十五年前……ローベント王国が滅びた際、生き延びた王国の民たちの大半が、そのファルガへと逃げ延びているらしい。あそこなら、君のルーツや、その『瞳』について何か深く知っている人物がいるかもしれない」
フィンは再び銀縁の眼鏡を押し上げ、レンズの奥で鋭い光を放ちながら、エルザの瞳を真っ直ぐに射抜く。
「だが、くれぐれも気を付けるんだ。人が集まる場所には、必ず欲望や悪意も潜む。君の素性が知れればどうなるか分からない。……誰を信じるべきか、渡したその本と、君自身の目でしっかりと見極めなさい」
「……はいっ!」
エルザは力強く頷くと、フィンが十五年かけて集めてくれたその重い一冊の本を、宝物のように両手でしっかりと胸に抱きしめた。
その少女の力強い眼差しを見て、ゼラがふっと柔らかな微笑みを浮かべた。
「……よし。話はこれまでだ。まずは地上に戻って、少し休むといい。長旅になるんだ、準備すべきものは山ほどあるぞ」
「はい、師匠!」
「それと……グエンたちにも、ちゃんとお前の口から伝えてやれ。あいつらも心配しているだろうからな」
ゼラの言葉に、エルザの脳裏には共に過ごしてきた闇人族たちの顔が浮かぶ。エルザはフィンとファエルに改めて深く一礼すると、新たな決意を胸に、地上へと続く階段を上り始めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
続きが気になった方はぜひ、ブックマークや感想をしていただければ、投稿の励みになりますので、よろしくお願いいたします。




