真相
(フィン議長と、ファエル隊長……。この人たちが……)
その二つの名前は、ゼラから渡されたあの手紙に記されていたものだ。エルザは膝の上でギュッと拳を握りしめ、震えそうになる声帯を必死に御して、深く頭を下げた。
「……初めまして。エルザ、です」
顔を上げると、傍らに控えていた屈強な森人族――ファエルと視線がぶつかった。彼の眼光は鋭く武骨だったが、エルザの翡翠の瞳を捉えた瞬間、その屈強な身体が微かに、しかし確かに強張るのがわかった。
張り詰めた沈黙を破ったのは、円卓に座るフィンだった。
彼は組んでいた両手をほどき、エルザへ向けて深く、痛切な声で語りかけた。
「そして、すまなかった。君に一度も会いに行けず、この里での行動を制限していたことを、どうか許してほしい。ここに辿り着くまで不安だったろうに、僕らの元まで来てくれて、ありがとう」
その言葉に、エルザは弾かれたように顔を上げた。
てっきり「掟を破ってまでなぜ来たのか」と責められる、あるいは厄介者として冷たい目を向けられるのだとばかり思っていたのだ。しかし、目の前にいる森人族の長から紡がれたのは、深い懺悔と、彼女の過酷な旅路を労う温かい感謝だった。
予想外の優しさに鼻の奥がツンと熱くなり、エルザは俯いてギュッと唇を噛み締めた。張り詰めていた緊張の糸が解けそうになるのを、必死に堪える。背後に立つゼラが、励ますように肩に置いた手に少しだけ力を込めてくれた。
「君が知りたいことなら、なんでも聞いてくれて構わないよ。十五年間、僕はそのために動いてきた」
フィンの静かな、けれど揺るぎない覚悟を秘めた声。
エルザは深く息を吸い込み、乱れそうになる心を落ち着かせた。そして、潤んだ翡翠の瞳を真っ直ぐにフィンとファエルへ向ける。
「……『月廻りの儀』の夜、私は視たんです。真っ赤に燃え落ちる王都と……血と泥に塗れながら、暗い森を這い進む女性の姿を。脇腹を抉られるような生々しい痛みを……感じました」
震える声で紡がれるその情景に、フィンの傍らに立つファエルの表情が僅かに苦痛に歪んだ。十五年前、彼自身が看取ることになったレオナの凄惨な最期そのものだったからだ。
「教えてください。十五年前、私が生まれた国で何があったのか。私を産んでくれた人のこと。そして、命を懸けて私をこの森へ運んでくれた……レオナさんのことを」
一息に告げた後、エルザは両手を胸の前で固く組み、さらに声を絞り出した。それは、あの夜からずっと彼女の心の奥にこびりついて離れない、最も恐ろしい記憶。
「――なぜ、私の故郷はあんなにも無残に燃え落ちなければならなかったのですか。どうして、母さんは私を手放さなければならなかったのですか……っ」
今にも消え入りそうな悲痛な問いかけが、地下空間に虚しく吸い込まれていく。
フィンは伏せていた目をゆっくりと開くと、顔から銀縁の眼鏡を外し、卓の傍らへと置いた。議長としての理知的な仮面を外し、一人の森人族として、過酷な運命を背負わされた少女に真っ直ぐに向き合うための所作だった。
「……十五年前。君の故郷である『ローベント王国』は、帝国を除いたすべての国と交流があった。南の蒼洋都市国家ファルガ、東の巨嶽の盾国オルムガルド、そして我々の国、ニザ共和国」
エルザは膝の上で手を組み直しながら、静かに耳を傾けた。以前、ゼラが天幕の床に描いてくれたムルナ大陸の図が、頭の中に鮮明に浮かび上がる。自分たちを取り囲むように存在する、広大な世界といくつもの国々。
「王国は大陸で最も他国からの侵略を受ける地でありながら、とても温厚な国だったんだ。それと同時に戦いに敗れたという記録はほとんどないほど屈強な国でもあった」
「……」
その事実に、エルザは小さく息を呑む。それほどまでに強大で、他国との繋がりも深かった国。ならば、なぜあの夜、あんな地獄のような業火に焼かれ、為す術もなく崩れ去らなければならなかったのか。
「そんな穏やかで繁栄した王国が、たった一夜で火の海に沈んだのは、外からの武力だけが原因じゃない。……内部からの裏切りがあったんだ」
「裏切り……?」
思いもよらない冷たく不穏な響きに、エルザの翡翠の瞳が激しく揺れた。
「当時のローベント国王ヘリオ・アーサー・ローベント――君の父親だね。彼は、我々ニザ共和国との親交を深め、精霊たちとの融和を望む、心優しき王だった。君のお母さん、側妃リアーナ殿もまた、同じように我々や精霊達との融和を強く望んでいた。しかし、人間の国にはそれを良しとしない者たちも大勢いた。その筆頭だったのが、宰相アルバート・ノルマン・ラウルス。彼が、帝国と裏で結託し、国を売り渡したんだ」
――人間の欲望と、権力闘争。
エルザの頭の中に、あの夜視た「錆びた鉄の悪臭」と「重い金属がぶつかり合う音」が蘇る。自分の故郷は、外敵だけでなく、同じ国の人間、その裏切りによって引き裂かれ、燃え落ちたのだ。
あまりにも生々しい事実に、エルザは血の気が引くのを感じた。
「……酷い」
「あぁ、酷い話だ。君の母親であるリアーナ殿は恐らく、離宮に迫る敵兵の足音を聞きながら……君を生かすために、あの手紙を書き上げたのだろう」
フィンが口を閉ざした、その時だった。
それまで傍らで彫像のように静かに控えていたファエルが、一歩、円卓の淡い蜜蠟燭の光の中へと進み出た。
「……リアーナ様は、元は旅の踊り子という平民の出であったという。だが、その魂は王宮の誰よりも気高く、澄み切っておいでだった。知識の女神ヴィディヤへの信仰の篤さは、我ら森の民にも決して劣らぬほどに」
武骨で低い声。しかし、その響きには、今まで聞いたこともないほどの深い敬意と、隠しきれない感情が滲んでいた。
ファエルはエルザの翡翠の瞳を、瞬きもせずに見つめ下ろす。
「十五年前の悲劇よりもさらに前のことだ。ローベント王国との外交の折、私は里を訪れた彼女の護衛をフィンに任された。当時の私は……恥ずかしながら、自然を壊す人間という種族を、ひどく毛嫌いしていた」
ファエルは自嘲するように目を伏せ、自身の分厚い掌を見つめた。
「だが、彼女は違った。遠い祖先から受け継いだというその翡翠の瞳は、我々と同じように森のオドを映し、精霊たちを慈しんでいた。彼女と接するうちに、私の中の人間に対する偏見は完全に砕け散ったのだ。……リアーナ様は、私にとって深い敬愛を抱く恩人だった」
初めて聞く、母の姿。
ただの悲劇の妃ではなく、森人族の警備隊長からこれほどまでの敬意を向けられる、気高く心優しい女性。エルザの目から、たまらず大粒の涙が零れ落ちた。
「そして、十五年前の夜……」
ファエルの声が、微かに震えを帯びた。彼がギュッと強く握りしめた拳は、自らを罰するかのように白く血の気を失っている。
「森に現れたのは、泥と血に塗れ、すでに両目の光すら失っていた一人の女性だった。彼女は致命傷を負い、自らの命の灯火が尽きかけているというのに、毛布に包まれた赤子を……お前を、決して離そうとはしなかった」
「レオナ、さん……」
「私は、彼女を侵入者だと警戒し、武器を向けた。だが彼女は、両目が見えないにも関わらず我々森の民の気配を悟ると、泥に塗れた手で、その小さな包みを……私の方へと真っ直ぐに差し出したのだ」
ファエルは痛みを堪えるように眉間を寄せ、視線を自身の分厚い掌へと落とした。
「彼女を治そうと声をかけたが、拒まれたのだ……『どうぞ……健やかに、生きて……』それが、彼女の最期の言葉だった。私がお前をこの手でしっかりと抱き留めたことを確かめると、彼女はようやくその腕の強張りを解き……そして、事切れたのだ」
ファエルは顔を深く歪め、懺悔するように目を閉じた。
「この十五年……。ゼラの元を訪れ、お前がリアーナ様の面影を色濃く残して健やかに育っていく姿を見るたび、私の胸の奥には、いつも深い安堵と共に、己の無力さへの怒りが刃のように突き刺さっていた。リアーナ殿とレオナの命と引き換えに繋がれたお前の命を見守り続けることだけが、私にできるせめてもの贖罪だったのだ」
言葉少なにエルザの様子を見に来ては、不器用に接してくれていたファエル。彼がどんな思いで自分の成長を見つめていたのか。その重すぎる十五年間の葛藤を知り、エルザの目からまた、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
「……そして私は、お前を命懸けで守り抜いた彼女を、冷たい土の上で死なせてしまったのだ。すまなかった……!」
絞り出すようなファエルの謝罪が、石造りの議場に重く響き渡る。
エルザは両手で顔を覆い、声なき嗚咽を漏らした。
誰も悪くない。誰もが、必死に一つの命を繋ごうとしていた。
迫り来る敵の足音を聞きながら、絶望の中でただ娘の未来だけを願って筆を走らせた、母リアーナの祈り。
両目の光を失い、自らの命が尽きるその瞬間まで、小さな包みを抱えて暗い森を這い進んだレオナの決死の逃避行。
十五年もの間、救えなかった命への深い後悔を胸に秘め、不器用に見守り続けてくれたファエルの贖罪。
議長という立場でありながら、人間の王女という危険な秘密を隠し通し、いつか来るこの日のために真実を探り続けてくれたフィンの苦悩。
そして――出自を隠し、人間である自分を「ただの娘」として抱き留め、愛情深く育て上げてくれた師匠の想い。
すべてが、今の自分という命を形作っている。その途方もない事実と、彼らが背負ってくれたものの重さが、痛いほどにエルザの胸を打ち据えていた。
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