導きの翠銀
深い夜の森は、圧倒的な静寂に包まれていた。
時折、夜風に撫でられた木々の葉が、擦れ合う音を響かせる。自然と調和して生きるエルフたちにとって、それは世界が穏やかに呼吸していることを知らせる、心地の良い音だった。
彼らの視界を満たすのは、大気に漂う『オド』の緩やかな流れと、木々の隙間からこぼれる月明り。
境界警備を担うエルフの隊長は、巨木の洞に作られた見張り台の縁に腰掛け、愛用の弓の手入れをしていた。
滑らかな木肌に蜜蝋を薄く馴染ませ、柔らかい布でゆっくりと磨き上げる。弓弦の張りを確認し、一息。森の息吹と同調するようなその静かな反復作業の中で、張り詰めていた彼の気も僅かに緩んでいた。
――ピクッ。
隊長の尖った耳が、微かな異変を捉えて跳ねた。手入れの手が止まる。
森を満たす『オド』の異常なざわめきに気がついた。怒りではない。恐怖でもない。深い翠色に銀の細波が混じったような、エルフの瞳にしか視えない美しい光の粒。その一部が細かな震えを帯びて流れるように、東の境界へと向かっていく。それに呼応するように、樹上や足元を照らしていた光源の発光植物たちが、チカチカと落ち着きなく明滅を始めた。
上層の物見台に控えていた若いエルフから、隊長の耳元へと伝令が届く。風の精霊に語り掛け、音を立てずに言葉を伝える、エルフ特有の伝達だ。
『隊長。東の境界――王国側から、侵入者です』
『数は』
『足音は一つ。焦げた血の匂い……間違いなく、人間のものです。ですが……』
耳元に届く若いエルフの思念は、理解不能な事態にひどく困惑していた。
『精霊たちがざわついています。オドも。人間を避けるどころか、まるでこちら側へと導いているようにも……』
細めた瞳の奥に、強い疑念が走った。精霊やオドにとって人間とは、近寄ることすら拒絶する存在だ。彼らは精霊を縛り、自然を壊す者。この大森林において、彼らの居場所などありはしないだろう。血の匂いを纏った人間に対し、精霊たちが森へ導くなど、この世界では到底あり得ない異常事態だった。
隊長は手入れ用の布と蜜蝋を的確な所作で納めると、弓を背に負った。しなる枝を蹴り、重力を感じさせない身のこなしで音もなく樹上を跳躍する。瞬く間に上層の物見台へと駆け上がると、隊長は東の闇へと鋭い視線を向けた。
見通せないほどの木々の向こう、王国があるはずの空が、微かに赤く腫れ上がっているように見えた。夜風に乗って、焦げた血の匂いと共に微かな火の匂いが鼻腔を掠める。
(王都で一体何が起きている……逃亡者か?)
冷静に思考を巡らせる。
(単独の人間がこの森に逃げ込み、精霊がそれを導いている。ならば、我らが同胞を伴って逃げてきた亡命者か、あるいは人質をとっている可能性すらある......。しかし足音はひとつ......)
「……全隊に、東側からの異変を通達。警戒態勢をとれ」
隊長は静かに、だが一切の隙がない的確な声で見張りのエルフに命じた。
「弓に弦を張り、各樹上ポイントに展開。ただし、絶対にこちらから手出しはするな。対象は刺激せず、包囲網だけを敷いておけ」
「はっ。隊長は?」
「私一人で接触を図る。……この森に、何が迷い込んだのかを確かめる」
この目で確かめなければ。そう判断し、彼は再び枝を力強く蹴った。不可解な光の渦の中心へ...。
ご一読ありがとうございます。明日はプロローグのクライマックス、そして物語が大きく動き出す第一章へと突入します。ぜひ、このまま見守っていただけると嬉しいです!




