エルフの兄弟
ニザ大森林の入り口。
舗装された自然道が途切れるその場所に、森と外を隔てる堅牢な砦がそびえ立っている。ここは外敵の侵入を阻む要所であると同時に、立ち入りを許された人間たちを審査する『関所』としての役割も果たしていた。
小鬼族の建築技法である、泥と土、蔓草を用い造られた武骨な砦。それは単なる建造物ではなく、背後に連なる大木が隙間なく列をなす『生命樹』と一体化している。それはまるで、一つの巨大な生命体のように馴染み、ゆっくりと森へ深い鼓動を響かせている。
砦の内側には整地された訓練場が広がり、その傍らには精霊の悪戯なのか、場違いなほど巨大なキノコがいくつも群生していた。
その砦の高く組まれた木造の物見台の上で、境界警備隊長であるファエルは、森の外――東に広がる人間の国の方角を静かに見つめていた。
「隊長! 南側の森より、闇人族の伝令です!」
部下の声と共に物見台へ駆け上がってきたのは、息を乱し、大粒の汗を流す若い闇人族だった。一族の中でも特に足の速い者を選び、休むことなく森を駆けてきたのだろう。
「ゼラ殿からか。何があった」
「は、はい……! 『エルザを連れて里へと向かっている』と……!」
「…………」
「あの、族長からは、『そう伝えればファエルには必ず伝わる』とだけ預かっておりまして……」
言葉足らずな伝令に戸惑う若者を前に、ファエルは何も言葉を発さず、ただ深く目を閉じた。
(……十五年か)
脳裏に蘇るのは、血まみれの手で託された小さな赤子の温もり。そして、かつて自分が護衛し、人間への偏見を改めるきっかけをくれた気高き女性、リアーナの姿だった。
あの時託された手紙の内容をエルザが知った。それはつまり、あの子が自身の足で、真実に向かって歩み始めたことを意味している。
「……大儀だった。ひどく消耗しているな、彼を案内し、十分な休息と水を与えよ」
「はっ!」
部下に指示を伝えると、ファエルは空中に指を這わせ、微かなオドを紡いだ。手のひらに集まった風の精霊に、短い伝言を吹き込む。
『――闇人族の一団が、里へ向かっている』
それだけを乗せた風が、砦を抜け、森の奥へと飛び去っていった。
その風の軌跡を見送り、ファエルは傍らに控える副官へと鋭く振り返った。
「砦の指揮は任せる。私は里へ向かう…」
「っ!?し、しかし隊長――」
副官の戸惑う声を待たず、ファエルは窓の縁を蹴り、その姿を風と共に溶かした。
*
――砦から馬車で一、二時間ほど森の奥へ進んだ場所に、森人族たちの里はひっそりと、しかし確かな活気を持って存在している。
巨大な木々の幹の内側を空洞にして造られた居住区が、無数の吊り橋で結ばれている、自然と共生する生きた里だ。
森の玄関口でもあるこの場所には、厳しい条件をクリアした友好的な人間たちの姿があった。蒼洋都市国家ファルガで発行された通行証を持ち、馬車の荷解きをする商人たち。そして、彼らの護衛を終え、冒険者支部の前で重たげな報酬の袋を受け取って笑い合う冒険者たち。
エルフが経営する森の食堂からは、果実酒の甘い香りと、香草で焼かれた肉の匂いが漂っている。
人間たちはここで、一つの掟を遵守していた。砦を越え、関門を抜けた瞬間から、一切の力の行使を禁ずるという絶対の法である。違反者は即座に国外追放となる。
長年にわたる人間たちのその地道な努力と譲歩を認めるように、里の周囲では、精霊やオドが――活発に飛び交うことはないものの――微かな光の粒となって、人間たちの傍を穏やかに漂っていた。種族が交差する、奇跡のような平和の風景がそこにはある。
しかし、その長閑な空気から完全に断絶された場所があった。里の中央に位置するひと際巨大な木の洞を利用した、議場の奥にある執務室である。
「すぅ……すぅ……」
うず高く積まれた書類の山に埋もれるようにして、エルフの里の議長であるフィンは机に突っ伏していた。眉間には深いシワが寄り、銀縁の眼鏡は鼻先までずり落ちている。
人間種との橋渡しを務め、法を整備する。里の平穏を保つための苦労が、彼を深い眠りへと誘っていた。
その静寂を、窓から滑り込んできた一陣の風が破る。
風の精霊はスゥッとフィンの耳元に寄り添うと、兄ファエルの低く落ち着いた声を再生した。
『――闇人族の一団が、里へ向かっている』
「え、ええええっ!?」
フィンはバチンッと弾かれたように顔を上げ、ずり落ちた眼鏡を慌てて押し上げた。寝ぼけた頭を必死に回転させる。
今の時期、闇人族達は東の巡行路を歩んでいるはずだ。星の巡りを詠み、森の祭事やオドの循環を司る彼らが、行路を外れてこの里へやってくる? 一体なぜ?
(まさか……いや、だが……! この時期に異常な動きなど、嫌な予感しかしないぞ!)
書類の束をバサバサと振り落とし、フィンは血相を変えて立ち上がった。人間の滞在者の管理だけでも胃に穴が開きそうなのに、身内である森の民が押し寄せてくるなど、議長としては悪夢以外の何物でもない。
「ええい、長老たちを議場へ集めろ! 緊急事態だ!!」
フィンは執務室の扉を勢いよく蹴り開け、廊下へと飛び出した。
――が、その瞬間、足元に落ちていた書類の束に見事につまずいた。
「わあぁっ!?」
ズコーッ! という派手な音と共に、エルフの議長は廊下の床に盛大にずっこけた。
空中に舞い散る羊皮紙の吹雪の中で、「あいたた……なぜ兄さんはいつも肝心な理由を省くんだ……!」と涙目でぼやくフィンの情けない声が、平和なエルフの里の議場に空しく響き渡った。
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